自主映画制作工房Stud!o Yunfat 改め ALIQOUI film 映評のページ

映画作りの糧とすべく劇場鑑賞作品中心にネタバレ徹底分析
映画ブロガーら有志23名による「10年代映画ベストテン」発表!

映像作品とクラシック音楽 第76回 『レイジング・ブル』〜マスカーニの楽曲が心に沁みる〜

2022-11-12 16:14:00 | 映像作品とクラシック音楽
今回はマスカーニの楽曲が印象的に使われる1980年のマーティン・スコセッシ 監督作品『レイジング・ブル』を取り上げます。

『レイジング・ブル』は実在のボクサージェイク・ラモッタの半生を描いた映画です。スコセッシ の代表作、さらには80年代アメリカ映画の代表作とまで言われる作品です。AFI(アメリカンフィルムインスティテュート)の歴代アメリカ映画ベスト100(2007年版)では第4位に選出されています。ちなみに123は市民ケーン、ゴッドファーザー、カサブランカです。ちなみのちなみに『タクシードライバー』は52位、『グッドフェローズ』は92位でした。
さておき、『レイジング・ブル』と言えばデ・ニーロです。本作の演技でアカデミー賞で主演男優賞を受賞しましたが、今見ても『レイジング・ブル』のデ・ニーロの演技は上手いとか凄いを超えて「ヤベェ」です。
ラモッタのボクサー時代の精悍な引き締まった身体から、ボクサーを引退してコメディアンになってからのポヨポヨの身体までを1人で演じています。CGのない時代、特殊メイクもなく体重を増減させ、それだけでなく野獣のように獰猛極まりないラモッタを心の底まで猛り狂ったかのように狂演しています。
デ・ニーロ・アプローチなどと呼ばれるようになる精神の内面から役になりきる演技ですが、しかしそのために後世の多くの役者たちの心を壊したりドラッグに走らせたり命を奪ったりした罪深い演技法であるかもしれません。
スコセッシが2019年に久しぶりにデ・ニーロと組んで撮った『アイリッシュマン』では最新VFXの力を使って年老いたデ・ニーロを若い姿に修正していました。『レイジング・ブル』の時にその技術があればデ・ニーロのデブ化も負担をかけずにできたろうに…

------
デ・ニーロの話はこれくらいにして音楽です。
映画の冒頭、モノクロ映像で、ガウンを着たデ・ニーロがリングでシャドウボクシングしている姿をスローモーションで捉えた美しい映像にかぶさってマスカーニの名曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲が流れ、そこにメインキャスト、スタッフの名がクレジットされていきます。
まだ何も話が始まっていないのになんだか心を持っていかれます。

スコセッシとクラシック音楽ってのもなんか変な組み合わせな気がします。スコセッシ 映画ってずっとロックがかかってるような印象があるのですが…ってよく考えてみたらそれは主に『グッドフェローズ』で刷り込まれた印象に過ぎなかったです。あるいはマイケル・ジャクソンの「Bad」のMVの印象も強いのでしょうか(ロックっていうかポップだけど)
よくよく思い返すとスコセッシ映画を彩った作曲家は『タクシードライバー』のバーナード・ハーマン、『エイジ・オブ・イノセンス』のエルマー・バーンスタイン、最近ではハワード・ショアと、古風なハリウッドスタイルの音楽を好んでいたスコセッシ でした。(いやタクシードライバーの音楽は古風じゃないだろってツッコミ待ちです)
クラシック音楽にだって相当変な愛やこだわりがあっても不思議じゃないのがスコセッシ という人です。

とは言え多くのスコセッシ映画は、映画全体を音楽が埋め尽くすような作品が多かったのですが、本作は音楽が使われるシーンは少なく、しかしそれゆえに恐ろしく印象に残ります。スコセッシ映画も考えてみれば音楽をあまり使わない映画も結構ありました。『沈黙-サイレンス-』とか、『キング・オブ・コメディ』も『ディパーテッド』もそうだったような…。このへんの「音楽だらけ映画」と「音楽ピンポイント映画」のギャップがまたスコセッシの魅力なのかもしれません。

『レイジング・ブル』に話を戻すと、オープニングタイトルのあとしばらく音楽はあまり使われませんが、ラモッタが様々な対戦をしつつ2人目の妻との思い出を綴るような8ミリ映画っぽい映像の場面でまたマスカーニの曲が流れます。曲は「シルバーノ」より「Barcarolle」です。
そしてミドル級タイトルマッチの試合前にはやはりマスカーニの「グリエルモ・ラトクリフ」の間奏曲が流れます。
などと知った風に書きましたがシルバーノもグリエルモ〜もCDも持ってないし映画『レイジング・ブル』の中でしか聞いたことありません。(カヴァレリア〜間奏曲はそりゃいろんな人の演奏聞いたことありますよ)
いずれも野蛮なラモッタを慈しむような目線を感じさせる曲です。あるいはスコセッシがこだわり続ける「暴力」に対する、というか人間の持つ暴力性に対するスコセッシの眼差しを感じます。
相手がくたばるまで殴り続ける暴力性を、悲しく、けれど目を逸らすことなく見つめ続けているのです。
そしてエンドクレジットでまたカヴァレリアルスティカーナの間奏曲がかかります。
映像効果でいずれも世紀の名演のように聞こえます。どんな高名な指揮者による演奏だろう…と思ったのですが、クレジットによるとARTURO BASILEという方の演奏です。
うーむ、知らん
調べてみるとスコセッシの子供時代に家でよくかかっていたレコードをスタッフに探させて映画に使ったのだそうです。
あの頃聴いていたあの演奏でなきゃダメだと、こだわりというか、全く別の人間の伝記ながらそこにスコセッシは自分の人生を凝縮させたかったのでしょう

ニューヨークのイタリア人街で育ち、身体が弱かったから家にこもって映画ばかり観て育ったというスコセッシです。ニューヨーク育ちのイタリア系で身体が頑丈でボクシングに、私生活では暴力に明け暮れたラモッタはあるいは自分のもう一つの人生だったかもしれず、他人事として描けなかったのでしょう。
ああ、そう言えばポン・ジュノが『パラサイト』でアカデミー賞取った時のスピーチでスコセッシの言葉を引用して「最も個人的なことは最もクリエイティブなこと」なんて言ってましたっけ。

------
余談
マスカーニの音楽を聴いていると、なんだか小津安二郎映画のサントラを聴いてる気分になります。『東京物語』のメインテーマとか改めて聴くとめちゃくちゃマスカーニしてます。
もちろん小津映画の方がマスカーニに寄せたのでしょうけど。
しかし、スコセッシが本作に音楽をつける時に少しも小津安二郎のことを考えなかった、などと言えるでしょうか?
稀代のシネフィル(映画オタクをかっこよく言い換えた言葉)にして、映画を目指すなら絶対見ておくべき映画100に『東京物語』を入れていて、古い日本映画大好きで小津と同時期の溝口健二の『雨月物語』を生涯ベストテンにいれて、私費でデジタルリマスター版を作り、『沈黙-サイレンス-』の時にはしれっと『雨月物語』のパクリシーン入れて来るスコセッシがですよ。
『沈黙』のあのシーン、ちょっとちょっとその画は琵琶湖だから成立する画であって五島列島沖であるはずないでしょと心で突っ込みまくりましたよ
もちろん小津映画と『レイジング・ブル』に類似点など「映像がモノクロ」以外に一つもありませんけど。それでも無理矢理なのはわかってますけどうっすら小津オマージュで東京物語ならぬニューヨーク物語ってことにしたいと思いますです。はい。

それでは今回はこんなところで
また素晴らしい映画とクラシック音楽でお会いしましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映像作品とクラシック音楽 ... | トップ | 2022松本マラソン記 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

映像作品とクラシック音楽」カテゴリの最新記事