「その店の中で飛び抜けて美しかった」・・・というモノローグで紹介されるヒラリー・スワンク・・・よほどブスぞろいの店だったのか?ジョシュ・ハートネットの審美眼がドカベンの岩鬼なみに独特なのか?冒頭のボクシングシーンでヒラリーが乱入しやしないかと冷や冷や・・・はしないけどボクサー2人手玉にとる様はさすが元百万ドルのベイビーである。これまでベストキッド4にボーイズ・ドント・クライに去年のオスカー受賞作と「男勝り」な役でステイタスを築き上げてきたヒラリーが、今回は女の武器全開系のオンナオンナした役に挑戦。・・・はいいのだけど、キャスティング的に意外性ないどころか「どんでん返し」が「期待にたがわず」に化けてしまい、見え見え展開が逆に拍手喝采。う・・・そういえば過去にジム・フェルプスを「悪党に決まってる」ジョン・ボイトに変えた前科のあるデ・パルマ・・・その辺もデ・パルマ流だったのか・・・
多分、もうちょっと何とかすれば、大傑作になったんじゃないかと思う映画だが、終盤のパタパタと張り巡らされていた伏線が展開し事件解決に急速に収束していく様は気持ちよかった。テンポが良過ぎて話がよく判んなくなったりもするが・・・。原作(文春文庫刊)で60ページくらい使っている事件の真相説明が、簡単な四人のトークで済ましてしまっている。同じエルロイ作品の映画化でも「LAコンフィデンシャル」の場合、やはり原作にある膨大な量の説明をいかに処理(映画的な脚色)したかと言えば、後半の展開をB級サスペンスアクションのごとくして説明の必要性そのものを無くしてしまった。だが「ブラック・ダリア」の場合は説明を簡略にしているに過ぎない。あれでは話が判らないし、ブラックダリア事件の深みも出ない。
もちろん「ブラック・ダリア」にも映画なりのアレンジはある。マデリンというキャラをヒラリー・スワンクが演じるにふさわしい魅力的な悪女に変えている。そのためにブラックダリアに魅せられた女という設定が死んでしまってもいるが
そのマデリンのキャラ変更で伏線の貼り方に無理が出ているところもある。中盤のリー(アーロン・エッカート)が殺されるシーンで、わざわざシルエットにして迫る顔の見えない殺人者。わざわざ隠しているため主要キャラの誰かだろうって読みはすぐ働くし、しかも主要キャラが少ないからすぐわかる。
この映画の最大の欠点はブラックダリア事件が起こった当時の40年代終盤のLAの雰囲気が描かれていないことではないかと思う。セットや衣装で当時を再現はしているが、その時代が描かれているとは言えない。主要登場人物にスポットを当てすぎて(推理ドラマだから仕方ないのかも知れないが)その時代を生きる人々や風俗が描かれていないのだ。エルロイ自身も時代の空気を作品に取り込む必要を感じたのか、「ブラック・ダリア」の次に発表した「ビッグ・ノーウェア」から新聞記事やゴシップ紙の記事などを作品の随所に散りばめるようにした。そのスタイルで「LAコンフィデンシャル」も書き上げ、そのスタイルは映画版にも反映し新聞の見出しやゴシップ紙の記事が当時の流行歌をバックに作品内に氾濫した。結果としてそれが50年代のLAの空気をあの映画に取り込んでいた。「ブラック・ダリア」にはそれがない。原作にも少ないが活字と違い映画では世界観を肌で感じさせるそのような努力がいる。
じゃあ新聞記事溢れさせないと40年代50年代の犯罪映画は成立しないのか?っていうともちろんそんなことはない。そんなことしなくたって「チャイナタウン」のような傑作はある。しかし「ブラック・ダリア」では核となる事件の社会的センセーションの大きさを伝える必要があるのではないだろうか?戦争が終わり、国内で人種や共産主義や同性愛などへの偏見と憎悪が充満していた時代に、非差別対象である白人のしかも若くて美しい女がおぞましい姿の惨殺死体として発見される。ものすごいセンセーショナルな事件となり、それだけの注目度があり時代性があって、それだからこそ登場人物たちは「ブラック・ダリア事件」に倒錯的に惹かれていって、破滅する。当時の世相が描かれないと、そうした登場人物たちの行動の動機付けに説得力が生まれない。単にストーリーを語るだけでは不十分なのだ。
ストーリーは割とよく映画的にまとまっていただけに、時代の熱狂と死体への執着が作品に薄いのが残念である。
音楽は私の好きなマーク・アイシャム。トランペット奏者である彼は「クイズ・ショウ」とか「ショートカッツ」とか「蜘蛛女」とか「英雄の条件」で印象的なトランペットソロを奏でてきた。また「タイム・コップ」や「ブレイド」などB級アクションではフルオーケストラB級アクションサウンドを打ち鳴らしても来た彼。
本作はアイシャムのトランペット奏者の一面とB級アクション音楽家としての一面の両方が堪能できるいい仕事だった。しかしトランペットソロの曲は甘く哀愁ただよう曲で、曲自体はいいのだが、ブラックダリア事件の異常性を表現することはなかった(作品が表現しきれていないから仕方ないのだが)。
むしろデ・パルマとは懇意のはずのエンニオ・モリコーネ(「アンタッチャブル」「カジュアリティーズ」「ミッション・トゥ・マーズ」など何度も使っている)の方が倒錯的性表現とバイオレンスと哀愁とラブとサスペンスの全てを音楽にできたと思うのだが(そういう映画いっぱいやってきたし)。
40~50年代舞台のハードボイルド映画or犯罪映画といえば「チャイナタウン」や「LAコンフィデンシャル」でジェリー・ゴールドスミスが奏でたトランペットの音楽が印象深いが、ハードボイルド→トランペット→アイシャムという短絡的な発想だったのだろうか?モリコーネだって「バグジー」で印象的なトランペット曲書いてたのに
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自主映画撮ってます。松本自主映画製作工房 スタジオゆんふぁのHP
多分、もうちょっと何とかすれば、大傑作になったんじゃないかと思う映画だが、終盤のパタパタと張り巡らされていた伏線が展開し事件解決に急速に収束していく様は気持ちよかった。テンポが良過ぎて話がよく判んなくなったりもするが・・・。原作(文春文庫刊)で60ページくらい使っている事件の真相説明が、簡単な四人のトークで済ましてしまっている。同じエルロイ作品の映画化でも「LAコンフィデンシャル」の場合、やはり原作にある膨大な量の説明をいかに処理(映画的な脚色)したかと言えば、後半の展開をB級サスペンスアクションのごとくして説明の必要性そのものを無くしてしまった。だが「ブラック・ダリア」の場合は説明を簡略にしているに過ぎない。あれでは話が判らないし、ブラックダリア事件の深みも出ない。
もちろん「ブラック・ダリア」にも映画なりのアレンジはある。マデリンというキャラをヒラリー・スワンクが演じるにふさわしい魅力的な悪女に変えている。そのためにブラックダリアに魅せられた女という設定が死んでしまってもいるが
そのマデリンのキャラ変更で伏線の貼り方に無理が出ているところもある。中盤のリー(アーロン・エッカート)が殺されるシーンで、わざわざシルエットにして迫る顔の見えない殺人者。わざわざ隠しているため主要キャラの誰かだろうって読みはすぐ働くし、しかも主要キャラが少ないからすぐわかる。
この映画の最大の欠点はブラックダリア事件が起こった当時の40年代終盤のLAの雰囲気が描かれていないことではないかと思う。セットや衣装で当時を再現はしているが、その時代が描かれているとは言えない。主要登場人物にスポットを当てすぎて(推理ドラマだから仕方ないのかも知れないが)その時代を生きる人々や風俗が描かれていないのだ。エルロイ自身も時代の空気を作品に取り込む必要を感じたのか、「ブラック・ダリア」の次に発表した「ビッグ・ノーウェア」から新聞記事やゴシップ紙の記事などを作品の随所に散りばめるようにした。そのスタイルで「LAコンフィデンシャル」も書き上げ、そのスタイルは映画版にも反映し新聞の見出しやゴシップ紙の記事が当時の流行歌をバックに作品内に氾濫した。結果としてそれが50年代のLAの空気をあの映画に取り込んでいた。「ブラック・ダリア」にはそれがない。原作にも少ないが活字と違い映画では世界観を肌で感じさせるそのような努力がいる。
じゃあ新聞記事溢れさせないと40年代50年代の犯罪映画は成立しないのか?っていうともちろんそんなことはない。そんなことしなくたって「チャイナタウン」のような傑作はある。しかし「ブラック・ダリア」では核となる事件の社会的センセーションの大きさを伝える必要があるのではないだろうか?戦争が終わり、国内で人種や共産主義や同性愛などへの偏見と憎悪が充満していた時代に、非差別対象である白人のしかも若くて美しい女がおぞましい姿の惨殺死体として発見される。ものすごいセンセーショナルな事件となり、それだけの注目度があり時代性があって、それだからこそ登場人物たちは「ブラック・ダリア事件」に倒錯的に惹かれていって、破滅する。当時の世相が描かれないと、そうした登場人物たちの行動の動機付けに説得力が生まれない。単にストーリーを語るだけでは不十分なのだ。
ストーリーは割とよく映画的にまとまっていただけに、時代の熱狂と死体への執着が作品に薄いのが残念である。
音楽は私の好きなマーク・アイシャム。トランペット奏者である彼は「クイズ・ショウ」とか「ショートカッツ」とか「蜘蛛女」とか「英雄の条件」で印象的なトランペットソロを奏でてきた。また「タイム・コップ」や「ブレイド」などB級アクションではフルオーケストラB級アクションサウンドを打ち鳴らしても来た彼。
本作はアイシャムのトランペット奏者の一面とB級アクション音楽家としての一面の両方が堪能できるいい仕事だった。しかしトランペットソロの曲は甘く哀愁ただよう曲で、曲自体はいいのだが、ブラックダリア事件の異常性を表現することはなかった(作品が表現しきれていないから仕方ないのだが)。
むしろデ・パルマとは懇意のはずのエンニオ・モリコーネ(「アンタッチャブル」「カジュアリティーズ」「ミッション・トゥ・マーズ」など何度も使っている)の方が倒錯的性表現とバイオレンスと哀愁とラブとサスペンスの全てを音楽にできたと思うのだが(そういう映画いっぱいやってきたし)。
40~50年代舞台のハードボイルド映画or犯罪映画といえば「チャイナタウン」や「LAコンフィデンシャル」でジェリー・ゴールドスミスが奏でたトランペットの音楽が印象深いが、ハードボイルド→トランペット→アイシャムという短絡的な発想だったのだろうか?モリコーネだって「バグジー」で印象的なトランペット曲書いてたのに
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その60億まるまる映画に投資して松坂大輔物語とか撮ったら楽しいですね
金髪好きのデ・パルマには、黒髪の女はみんな同じに見えるのかもしれません。だからミア・カーシュナーとヒラリー・スワンクが似てると思い込んだのでしょう。
松坂には60億のうち1銭も入ってこないからね。
デ・パルマもそうか?
顔より金髪であることが重要のようで、結婚したナンシー・アレンも、エロイけど、美人ってほどではないもんな~。
コメントありがとうござんした
てなわけで、TBありがとうございました。
ノラネコ様のブラックダリア評には感銘うけました。
そうですね、死体を取り巻く時代の熱狂よりも、まずは死体そのものを描かねばならんのです。そうしてこそ、我々も映画の時代の中にはいっていけるのでした。
つまらなくは無いんですけど、どうにも不完全燃焼気味でした。
劇中で執拗に描写される生前のエリザベス・ショートと、奇妙な死体ブラックダリアのイメージが、最後まで繋がらなかったのが気になりました。
ドラマのコアが希薄であったと思います。
あの母ちゃんはほんと面白かったです。登場人物の中で一番モノマネしたくなる人でした。あんまり映らないブラックダリアよりよほど印象的でしたね
最後にごちゃごちゃさせて、あぁなるほど~と納得させる手法だったのでしょうか、うまく騙されました。特にあの母ちゃんが凄かったので・・・