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観劇記・劇評「Dの葬列」

2018-12-09 20:10:42 | 演劇評
観劇記・劇評「Dの葬列」
塩尻市民演劇祭 2018.12.9
HOME
演出 神戸カナ

明日提出しなくてはならない会社でうけた講習の課題があるのだが、適当な言い訳つけて〆切伸ばしてもらおうと思い、東京に帰る電車の中で、想いがホットなうちに本日観劇した、劇団HOMEの「Dの葬列」の感想と批評と、記録を書きのこそうと思う。

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塩尻のレザンホールは塩尻どころか長野県内でも屈指の大規模ホールで、ベートーベンの第九やオペラの公演だってできる規模のホールだ。
そのようなホールで公演をぶてるチャンスがあるなら、演劇関係者なら誰だって多少は燃えるに違いない。
とはいえ劇団四季ってわけじゃないから、まあ、そんなにぎっしり客が入る筈はなく、数で言えばかなりの人数だったと思うが会場規模から考えるとちょっとお寂しい感は否めなかった。
そして今回の芝居が、また、かなりパーソナルな内容にして、企画段階から一般受けを狙ったというよりは、作家の表現をカンバスに叩きつけるような内容であり、あの巨大ホールに似つかわしいものだったのかは微妙だ。とは言え、この演目をレザン大ホールにぶつけるという姿勢そのものに作り手の想いがこもっていて、多少事情を知っている身としては、感慨深いものがある。

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本作は2018年の初夏くらいに亡くなったある演劇人「D」へのオマージュである。
劇中で撮影中の映画内の台詞として繰り返し語られる集団での独白には彼が死の直前にSNSに書き残した文章が所々引用されている。
主演にして演出の神戸カナが演じたセイラという役は、名前も性別も変わっているが、明らかに「D」をモデルにしている。

私は神戸カナをピカピカ芝居塾の卒業公演で観ていい役者だなと思った。話しかける機会の全くないまま1年以上たったある日、当時企画していた長編映画の脚本を書くため週末ごとに通っていた塩尻市の市民会館えんぱーくで、偶然図書館の一部を使って演劇をやっていたHOMEを見て、そこの神戸カナに痺れて、僕の映画出てくださいと電撃的に申し込んだ。
その時考えていた長編は流れたが、変わって作った中編映画「チクタクレス」で彼女を主役に起用した。

前置きが長くなったが、その「チクタクレス」撮影前の神戸カナとの初めての顔合わせの時に「D」の話が出た。
えんぱーくでの電撃的な申し込み以来、メール等を除いてきちんと話をするのは初めてだった。この映画でぜひ主演をと頼んだが、彼女は二つ返事で「良いですよ」といった。あまりに躊躇ない返答だったので逆に不安になり、いくつか確認のための質問をした。
「映画の中でお風呂に入るシーンあるけどいい?」
「(即答で)いいですよ」
「映画の中でキスシーンあるけどできる?」
ここで一瞬の躊躇いの後に彼女は言った
「D以外なら大丈夫です」

多分、よくよく考えればDよりよっぽどキスしたくない相手はいっぱいいたに決まってるのだが、彼女は反射的にDを拒絶したのである。ある意味彼女のDへの強い感情を示していた。

その時は理由は聞かなかった。そもそもキスの相手役にDは100%なかったので、制約がどうでもいいところに飛んでホッとしていた。ふつうによっぽど嫌いなのかな?と思ったのだが、彼女と撮影しながら、色々と話していくうちに、彼女とDとのどこか特殊な関係がわかってきた気がした。

ホントのところはもちろん私だってわからない。誰にも秘めた思いはある。だから以下は私の解釈による、カナとDの話だと思ってもらいたい。

とにかく神戸カナはDの話をするのが大好きなのだ。

話は若干それるが、私とDも自分でも意外なくらいに接点の多い関係だった。
詳細を改めて書くのはめんどくさいので、彼が亡くなった頃に書いたブログを参照してください

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彼とのこと - 自主映画制作工房Stud!o Yunfat 改め ALIQOUI film 映評のページ

彼とのこと 後編 - 自主映画制作工房Stud!o Yunfat 改め ALIQOUI film 映評のページ
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彼がよく自殺未遂をしていた話も、多くはカナから聞いた
蕎麦アレルギーのDは蕎麦を食べて自殺を図り、舌が痒くなってきたとか、アレルギーの進捗を一々ツイートして、うるせーんだよ!とか当時の思い出を、「怒り:笑い=2:8」くらいで語るのである。
他にも、元カノに車買ってもらった話とか、「みんなにありがとうを叫ばせて写真を撮るのを私は宗教だと思う」とか、失明した写真家の話とか
カナの語るD話でご飯3杯くらいいけるほど、嬉々として語っていた。

そして2018年の初夏。
私は久しぶりの映画撮影で久しぶりにカナに出演してもらい、彼女に何度か東京に来てもらっていた。そんな撮影の合間のとある平日、Dが何度目かの自殺を示唆する書き込みをSNSにあげていたのを、仕事の休憩中に私はスマホで目にした。
彼が死ぬ、と言うのはそれが初めてのことではなく、その投稿のコメント欄には多くの人が、「またか」「いい加減にしろ」「甘えんな」みたいなキツ目の言葉が並んでいた。
私はカナにまたDが死ぬとか言ってコメント欄が荒れてるよ、と知ってるだろうけど、LINEした。
正直に言うと私もその時は本気にしてなかった。彼のSNSにコメントはしなかったが、まーた言ってるよ…くらいな気持ちで。
だが、カナはみんながDを死に追いやっている…と何か悲壮感のある返信を返してきた。それはいつものカナのDを語る感じとは何かが違っていた。

そして数日後
カナからLINEが届いた
Dが亡くなった


そして同じ日に、こんなLINEがきた。
私はDに約束したことがある
お前が死んだら追悼公演をすると
だからやる


そしてカナはその約束を果たした

こんな事情知ってる人がレザンホールに何人いたのだろうか?10人くらいではないか
可能性として1000人以上の客が入るハコで、そんなパーソナルなネタをするなど、興行者としては失格であろう。
しかし、Dへの手向けとしてこれ以上の舞台があるだろうか。約90分の芝居で、写真家で無駄にスタイリッシュで、失明しかかって、蕎麦で自殺を図る、Dの分身以外の何者でもないキャラクター「セイラ」を、神戸カナが自ら演じているのだ。これはDへの讃歌であり、松本近辺で演劇で生きる者たち全てへのメッセージを込めているのではなかろうか

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と、カナのDへの想いを、演劇で表現する彼女の姿勢は全面的に肯定しつつも、あとは、演出として、ホンとして、客観的にどうだったのかを語るのもまた、Dへの供養にして、カナへの礼儀だろうと思うから、ちょっと辛口にはなるが、遠慮なく語らせていただく。

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私は昔からHOMEの演出の特長の一つに、物理的接触を躊躇わないところがあると思ってきた。
ひっつく、くっつく、そうしたゼロ距離での演技は役者に演技ではない生理的反応を起こさせるのだ。
今回もおおっと思ったところの一つもまた物理的接触演出だった。
作田さんがカナを本気でひっぱたくところ。
ヨネさんがカナを蹴り飛ばすところは本気でやれないのは仕方ないとして(であればシルエットやストロボフラッシュなどの照明効果とか、音響とか工夫はすべきだったとは思うが)、作田さんのガチビンタはぐっと来る。そこには演技じゃないリアルな反応と、音響効果に関係ないフルコンタクトの炸裂音があるから。

だからこそ、HOMEの芝居は本来小劇場でこそ活きるとずっと思ってきた。彼ら彼女らの素の反応を共有するには至近距離での観劇のほうが向いているのではないか?あるいはそれこそクローズアップという方法を選択可能な映画とか…
また、レザン大ホールでの公演にあたり、広い空間を活かした演出があるかというとそうでもない。
カメラ持ってクローズアップでカットバックしてモンタージュする方が彼ら彼女らのの芝居も映えるんではなかろうか?そんなことを思っちゃうのである。

批判じみた始まりですまない。
フォローすると個々人の演技はハイレベルであり、戯曲の物語構成も色々難はあれどきちんとクライマックスにむけて複線の配置しながら高まっていくカオス感をビシッと収斂させる腕前はすごいと思う。

だが、あまりに煮ても焼いてもいない、ブツ切りの野菜と生肉をボールに入れてダンッと出されたような無加工感に、少々戸惑いを覚えたのも確かだ。
あるいは、やや下衆い発想かもしれないが、舞台の始まる前に、「演劇と写真と映画の世界に永遠に生き続けるDにこの作品を捧げる」みたいな一文を出してから劇を始めたら、Dを知らない大多数の観客にも「よくは分からないが何か悲しいことがあったらしい」という想いが意識下にこびりついて何らかの感情を誘発し得たのかもしれない。

それでも、浮気という修羅場の果てに、弱みを握られた女がまさかの性別を超えた恋愛の裏返しだったというオチに着地させる作劇は、上手いと思う。
セイラ以外の全員がいつのまにか喪服姿になり、セイラだけが純白な衣装となってセンターに立つラストの演出は、視覚的だが映画的と言うより演劇的で、いちお映画監督な私としてはやりやがって!と少しのジェラシーを感じる。
ラストの劇中映画の独白は何を意味するのか
なんの解決もなく状況の提示だけで終わる本編を補足するものなのか?
その後のセイラの自死を示唆するものともとれるし、Dへのアンサー、どんなに苦しくてもそれでも生きなくちゃならないんだ生きるべきなんだという、カナの不在のDへの届くことのない抗議、したがって自分自身への戒めともとれる。
客観的に見てあのラスト、観客の多くはポカーンだったろうが、でもそこには神戸カナの無加工の想いだけはゴロリと不気味に横たわっていたし、その意味不明だがなんか強い感触は観客にも伝わったのではなかろうか

でも、もっと小劇場で、至近距離でこの劇を見たらまた違う感動があったのではなかろうか?
パーソナルな感情へとフォーカスさせたい演目の割に、レザンだとどうしても全体をパンフォーカス気味に見てしまう
信濃ギャラリーあたりで再公演とかどうだろ?マジでそのくらいの画角でのあの公演を見てみたい

p.s.
劇中に「映画界のサイトウ監督」なる人物の存在が語られる。カナは名前を勝手に使いましたとヘラヘラと語ってやがった。そこでのサイトウ監督とセイラの関係は完全なフィクションで事実といっさい関係がありません(笑)
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