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國民の創生 [監督:D.W.グリフィス] 映評 第2回

2009-08-21 20:01:12 | ビデオ・DVD・テレビ放映での鑑賞
D.W.グリフィス監督「國民の創生」映評 2回目
【前編部分について】

[物語]
南北戦争の勃発前のこと、北部の政治家ストーンマンの息子フィルは、親友の南部の名家キャメロン家の長男ベンを訪ねる。
フィルはベンの妹マーガレットと愛し合い、ベンはフィルが持参した彼の妹エルシー(リリアン・ギッシュ。可愛い!)の写真を観てまだ会わぬうちから一目惚れしてしまう。そうしていたら南北戦争が起こって、キャメロン家とストーンマン家は敵同士となって闘うことになる。戦争でベンは負傷し北軍の捕虜となるが、フィルの配慮でエルシーが彼の介護にあたり二人は愛し合うようになる。戦争が終わりストーンマンは黒人を利用して南部を支配しようと企むが、リンカーン大統領の穏健政策のため、ストーンマンの陰謀は思うように進まない。そんな時、リンカーンの暗殺事件が起こった・・・・

[概要]
前編部分は既に書いたが、さほど面白くない。
キャメロン家の応接間が何度も登場するが、ほぼ1セットアップのカメラであったり、南北戦争の戦闘シーンもほぼ定点カメラのロングショットによる記録映像風な画面しかなく(狙いかも知れんが)、原始的な映画という印象を受ける。
それでも、庭先と玄関で会話する男女の切り替えしなど、モンタージュの原型が見て取れて興味深い。

[歴史的事実を強調]
場面切り替えの説明字幕で「当時の大統領執務室を細部に至るまで完璧に再現した」などと誇らしげに記載されている。
「昔の映画」らしい字幕表現ではあるが、セットの全景を収めるショットや、小道具類のアップがあるわけでなく、実際に完璧に再現されていたのかどうかは知る由もない(嘘は書かないだろうが)。ただそういった説明字幕で場面転換のたびに「史実どおり」であることを強調するのは、「この物語全体」が「史実に忠実」であるという印象を観客に抱かせるため・・・ひいては後編におけるKKKの成立過程もまた「歴史的事実だから仕方ない」と観客に思わせるためではないかと勘ぐる。

[黒人兵によるキャメロン家襲撃シーン]
前編では比較的黒人に対する差別表現が少なく、そういう点においては安心して見れる。
ただし、黒人を利用して南部の権力掌握をねらうストーンマンの義理の娘(妾の娘だったかも)が白人と黒人の混血という設定で、非常に薄気味悪い表情を浮かべ(恐らく白人俳優が顔を黒く塗ったのであろうが)、しかも野心的な悪女として描かれる。そこに人種的偏見を感じる人は多いかもしれない。
それとは別に、北軍のならず者白人に指揮された黒人部隊が主人公キャメロン家を襲撃するシーンが描かれる。
応接間になだれこみ破壊の限りを尽くす黒人部隊と、隠し部屋で息を潜めるキャメロン家の女性たちが交互に写され、緊迫感を煽る。演出は上手い。
こうした南軍に対して略奪や暴行を行う黒人部隊は、エドワード・ズウィックの「グローリー」でも描かれていた(もちろん悪役として。デンゼル・ワシントンやモーガン・フリーマンの所属する自由の闘志たちから蔑まれる役割である)。
事実、このような愚連隊的組織はあっただろうと思うが、それは戦争の常であり、勝っている側が攻め込んだ先で略奪や暴行を行うのは、ほとんど歴史の必然といっていい。当然、愚連隊のような白人部隊もいたはずであるが、映画では取り上げない。
それに対してこの映画における白人軍人の描き方はといえば、「敵でありながらも傷ついた兵士を治療する」など紳士的な行為ばかりが取り上げられる。もちろん紳士的な白人軍人も実際にいただろう。
しかし本作はかなりあからさまに 黒人⇒無知で乱暴で悪い奴、白人⇒紳士で良い者 と描き分けられている。
現代のアメリカ映画なら人種的配慮をして、良い奴、悪い奴が特定人種に集中しないようにするだろう。
たとえば、物語上1人しかいない「愚図な奴の役」をたまたまヒスパニックの俳優が演じたというだけで「あの監督はヒスパニックを差別している」とか言って批判するのは馬鹿馬鹿しい(「ロスト・ワールド」でスピルバーグがそのように批判された)。しかし、本作のように黒人は悪い奴しかいなく、白人は良い人しかいない(※)、となるとそこに作家の思想が現れていると思われても仕方あるまい。
「戦艦ポチョムキン」で帝政ロシア側には悪人しかいなく、水兵や民衆には良い人しかいなかったのも、もちろん同様のプロパガンダ目的である。

※本作にも一応、「いい黒人」は二人だけ登場する。キャメロン家の召使と家政婦である。後編では黒人暴徒からキャメロン家の人々を守る活躍を見せる。

[フラッシュバック]
南北戦争が終わり、負けた南軍兵士たちにつらい次期がやってくる。
主人公は負傷し、ワシントンの北軍の病院に収容され、母親が南部から見舞いに飛んでくる。しかし主人公は北軍から見れば敵の将校であり絞首刑が言い渡される。政界に顔のきくエルシーの計らいで母親はリンカーン大統領に面会し、恩赦を嘆願する。
この場面が前編において個人的には最も「映画的高揚」を感じた。
マスターショット固定カメラで、大統領に何事かを訴える母親のショットが続き、そこで数秒だけ病院のベッドに横たわる主人公の姿が挿入される。その後大統領と母親のマスターショットに戻って大統領はおもむろにメガネを取り出して書類に何事かを書き母親に手渡し、母親とエルシーは喜ぶ。
台詞も字幕もないのに、負傷した息子のフラッシュバック一発で、母親が助命を訴えていることも、大統領がその訴えに心を動かされたことも、大統領の行為が特赦の書類にサインしたことであることもわかってしまう。
ワンシーンワンカットが常識だった1915年当時、このフラッシュバックを用いたストーリーテリングは「活動屋」たちをゾクゾクッとさせただろう。

[リンカーン暗殺]
南部への締め付け強化を提言するストーンマンに対し、穏健な政策を主張するリンカーン。
米国は平和のうちに再統一されるはずだった。あの運命の日までは・・・
という次第で、リンカーン暗殺事件が描かれる。例によって「当時の劇場を忠実に再現した」的説明字幕が入る。
エルシーと兄が観客席にいる。2階のVIP席にリンカーンが来る。その隣の二階席にはリンカーン暗殺犯がいる。エルシーがオペラグラスをリンカーンの席に向けると、思いつめた表情の暗殺犯が目に入る。ピストルを取り出しリンカーンに忍び寄り、ステージでは芝居が続けられていて・・・
当然のごとく、ヒッチコックの「知りすぎていた男」(もちリメイクの方)の首相暗殺シーンを思い出した。もちろんヒッチコック版の方が銃のクローズアップが入ったり、あらかじめシンバルの鳴る箇所を聞かせておいた上で、シンバル奏者が譜面を見ながら自分の出番を確認する様を映したりと、サスペンスをこれでもかと盛り上げるわけだ。グリフィスの提示したプロトタイプをヒッチコックが「知りすぎていた男」の二度の映画化で完成させたと見れば、モノクロ・サイレント⇒モノクロ・トーキー⇒カラーという映画史の進化ともリンクして感慨深い。

次の記事で、映画の後編部分について、あれこれ考える

「國民の創生」映評 第1回
「國民の創生」映評 第3回

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