宮沢賢治の詩(宮沢賢治自身は、これは詩ではなく、言葉に限定して表した心象スケッチ(メンタル スケッチ モディファイド)と定義しているので、以下、「心象スケッチ」という)を読んでみたところ、難解を超えて意味不明と感じたので、誰か検証して本にしていないだろうか、と思い、調べてみた。
すると、「検証・宮沢賢治の詩Ⅰ『春と修羅』」(著:山下聖美/鳥影社、二〇〇二年刊)という本があったので読んでみた。
例えば、「春と修羅」という心象スケッチがある。(下記リンクは「心象スケッチ 春と修羅」HPより)
http://why.kenji.ne.jp/haruto/109harut.html
この各行の空白をつかった文字の群れついて、同書では、まことの言葉を失った言葉の群れが、羽を広げて飛び立つ黒いカラスであり、「修羅」となって闘い、まことの言葉を追い求める宮沢賢治を表しているという。
また、この心象スケッチのなかの「おれ」のいるところは、実は天空で、おれは逆さに立っている、という光景などなど、徹底検証していて、わかりやすかった。
巻末の著者のプロフィールをみると、「検証・宮沢賢治文献」を「江古田文学」(日本大学芸術学部文芸学科の文芸誌)で連載中とあった。
〇二年時点で連載しているということは、ひょっとすると、すでに宮沢賢治の全ての心象スケッチを書き終えているのではないか、そう期待して調べてみたところ、「春と修羅」の序盤の一〇数個の心象スケッチを検証していた。
例えば、「くらかけの雪」という心象スケッチがある。
http://why.kenji.ne.jp/haruto/102kurak.html
これは、実は、降ってくる雪を、真下から見たものだとう。真下からみると、雪は落ちてくるのではなく、自分の身体がどんどん天空に上がっていく錯覚になる。雪をみて、雲のないところまで上がっていきたい、だから雪が激しく振ることを願う、それを宮沢賢治は、「ひとつの古風な信仰です」といっているのだという。
また、「日輪と太一」という心象スケッチがある。
http://why.kenji.ne.jp/haruto/103nitir.html
これは実は、太陽をじかにみて、まぶたの裏に残った残光が、赤く見える。それが赤いズボンをはいた太一なる人物なのだという。いわれてみると、たしかにそうなのではない、という気がしてくる。
このように、説得力があって興味深い論説なのだが、残念なことに検証は序盤でおわり、著書の山下聖美氏は、いまは作家の林芙美子の研究をしている。
宮澤賢治の心象スケッチを、全て検証してほしい、と思った。