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風林火山紀行(甲斐路編7)・・・三国同盟の悲劇その② 延命山黄梅院跡

2010年07月08日 17時24分04秒 | 旅行
1568年 武田軍は、駿河に侵攻した。これにより、三国同盟は崩壊。
これにより北条氏康は、武田と敵対することになった。
その結果、黄梅院は、突然離縁させられ、甲斐に戻されたのである。

黄梅院(1543年生-1569年没)は、信玄と三条夫人の間に生まれた長女である。
1554年 三国同盟締結により、北条氏政の正室として僅か12歳で嫁がされた。
これは辛かったと思う。
それでも武田が上杉と対峙している間は良かった。
信玄も彼女のために弘治3年(1557年)の11月には、安産の神である「富士御室浅間神社」に黄梅院の安産祈願をしており、普通の父であった
そして黄梅院は、氏政との間に嫡男氏直をはじめ5人の子供に恵まれる。
しかし、武田の駿河侵攻で、北条氏康により黄梅院は離縁され子供たちと引き離されて、
甲斐に戻される悲劇に見舞われる。
11歳で、母や兄弟と引き離されて見知らぬ相模に嫁がされる悲劇。そしてその悲劇の運命を懸命に乗り越え、5人の子に恵まれて必死に掴んだ幸せも無残に引き離されてしまう悲劇。
こんなことがあっていいものかと思う
戻された黄梅院は、生きる気力を失くしてしまったのか、1年も経たずして、1569年6月17日、僅か27歳で死去した
長男の義信が1567年に非業の最期をとげ、その2年後に長女の黄梅院がまた、不幸な亡くなり方をしている。親である三条夫人も、次々とわが子が去り行く悲劇に心が折れたのか、後を追う様に1570年に亡くなる

信玄は、自分が殺してしまったような黄梅院の為に、現在の甲斐市竜地に菩提寺黄梅院を建立し葬った。
明治初期には廃寺となってしまい、現在は「跡」として、周辺にあった石像物を集めて置いてある状況だ。

武田家が滅亡したこともあり、信玄の長女の眠る場所としては余りに寂しい感じがする。
こんなに悲しい思いをしたのに、残念ながらこの方はあまり知られていないし、
この史跡も殆ど知られていない。
(黄梅院跡 なんとも寂しい感じである)



夫であった氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年1571年12月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔ったそうだ。
亡くなってから再び同盟とは皮肉なもので、黄梅院の無念が感じられてならない

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