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風林火山紀行(甲斐路編6)・・・三国同盟の悲劇その① 義信事件(東光寺・天沢寺)

2010年07月06日 17時37分33秒 | 旅行
武田信玄が信濃攻略を進めると上杉謙信が立ちはだかった。
信玄は謙信と対決するにあたり、背後を固めておく必要があった。
すなわち、駿河の今川、相模の北条である。
世に言う甲相駿三国同盟の画策である。
まず、今川に関しては、武田信玄嫡男義信に姫(嶺松院)をもらいうけ親戚関係にあったが、北条とは縁がない。一方北条も今川とは敵対し、上杉謙信という共通の敵を抱えながら武田とは縁がなかった。今川も上洛を目指すにしても背後の北条とは敵対関係。三国同盟は互いにメリットがあった。
1554年三国同盟は締結されたが、その裏には、政略結婚による国主の子供達とその家臣たちの悲劇が将来に渡って待ち受けていた。
武田側で見た場合、政略結婚の観点から見れば、嫡男の義信(1537年生-1567年没)と、北条氏政に嫁いだ長女の黄梅院(1543年生-1569年没)である。

確かに武田にとって上杉と戦っていた時までは有効な同盟であったことは間違いない。
しかし、1560年の桶狭間での今川義元討死と、それによる駿河の弱体化は徐々に三国間のパワーバランスを崩し、また、信濃の上杉との情勢が落ち着いても、越後への侵攻は不可能であり、戦略転換を余儀なくされたこと、そして川中島で副将であり、賢弟である武田信繁を失ったことなどが影響して、義信やその周囲、黄梅院に悲劇の陰を落とし始める。

武田の滅亡の要因を辿れば、いろいろあるだろうが、大きな要因の一つは義信謀反(義信事件)であろう。
信玄が弱体化した駿河を狙い始めると、三国同盟で今川の娘を娶った義信にしてみれば、妻の実家を攻めることになり、対立が始まる。この対立は、信玄の信虎追放にも功が有る宿老であり、周辺諸国には甲山の猛虎と恐れられ、信玄の絶大な信頼により義信の傅役となった飯富虎昌(1504?生-1565年没)も巻き込んだ。
もし妻が今川からでなく、北条からなら、同盟は崩壊しても、義信の謀反はなかったであろうが。

1564年、対立はピークに達し、義信は晴信暗殺を謀るも露呈して捕らえられる。義信は東光寺に幽閉。
傅役故に謀議に加わった飯富虎昌や多くの家臣が斬首となった。
そして義信は3年近くの幽閉の末 自刃(殺されたとも言われている)。
今、飯富虎昌は、飯富家の菩提寺である天沢寺に眠っている
場所は山梨県甲斐市亀沢。
曹洞宗の寺で、文明4年(1472)、亀沢一帯を支配していた甲斐源氏の一族飯富氏が雲岫(うんしゅう)派の名僧、鷹岳(ようがく)宗俊を開山として開いたといわれている。
(天沢寺)




静かなお寺だ。

境内の裏の墓地の中に、飯富虎昌は父と弟とともに眠っている。
(飯富家の墓)





弟は、武田四名臣の一人山県昌景(謀反の後、昌景は信玄より山県の姓を賜る)である。山県昌景は、三方ケ原で徳川家康を震撼させた猛将であり、長篠の合戦で壮絶な最後を遂げた武将だ。

飯富虎昌は、信虎の代から仕え、信玄にとってもっとも信頼が厚い故に、嫡子の傅役を命じたのだが、それが飯富家の悲劇であった。弟が山県姓を名乗った事により飯富家は断絶してしまった。
今、静かな天沢寺の中で何事もなかったように父と弟とともに眠っている。

そして、幽閉されていた義信も1867年自刃。
かつて信玄もまた父に謀反し国主となったが、今度は、実の子に同じ事をされた。
鎮圧したにせよ、父と国主のあり方の難しさを痛感したことであろう。
その義信は、東光寺に何故か諏訪頼重とともに眠っている。
(武田義信の墓)



この義信事件。不毛な議論なれど、もし弟の武田信繁が生きていれば防げたかもしれないという歴史家は多い。軍事・政治の天才である信玄も、親子関係では大失敗してしまった。
信繁の死が武田家斜陽の始まりとすれば、武田家嫡流の死は、勝頼の代におこる武田家臣団の分裂を招く結果になり、斜陽への加速がかかった瞬間のように思える。

親子の立場と国主の立場。戦国の時代の中で、どちらを優先するのかということを考えると、今問うても難しい問題だと思う。

翌年1568年 ついに駿河に武田軍は侵攻。三国同盟は崩壊する。
黄梅院は、三国同盟締結の政略結婚で駿河に嫁がされる悲劇を受けたが、同盟の崩壊により、第2の悲劇が近寄っていた。

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