読書の記録

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子どもの文化人類学

2023年02月07日 | 民俗学・文化人類学
子どもの文化人類学
 
原ひろ子
ちくま学芸文庫
 
 底本は1979年。つまり、30年以上を経て突如文庫化された。なんでまた? と思ったものの直観を信じて購入。結論から言うと、とても面白かった。
 
 著者は文化人類学者である。カナダ北部の森林地帯で狩猟をしながら暮らす先住民族「ヘヤー・インディアン」のことを中心に、母系社会インドネシアや、イスラム教シーア派の影響が強いバングラディシュの子どもたち、イスラエルのキブツ、アメリカの離婚家庭など、世界あちこちの民族の子育てや子どもの社会のことをつづったエッセイである。たまに日本のエピソードも顔を出す。刊行が1979年だから、フィールドワークはそれよりずっと前。1960年代の記録だ。さすがに2023年の今日においてこの通りだとも思いにくいが、しかし、現代なお学べるもの、考察したくなるものがたくさんある。むしろ現代だからこそ顧みたいものもある。
 
 親と子の情緒と規範の関係、こども同士の社会の作り方、学ぶことや学び方。働き方、巣立ち方。いちいち日本と違う。実子ともらい子の区別や垣根がない家族観だったり、そもそも物事を教えるという概念がなくて子供が勝手に見て学ぶだけだったり。子育てとは「仕事」か「家事」か「遊び」かの捉え方も日本と違う。性別役割分担意識も様々だ。だけどどの文化社会でも、だいたい子供たちは立派に育って一人前となっていく。人はどうあっても育つのだ。ひとつの「かくあらねばならない」という思想は単なる思い込みである。文化人類学の本を読む醍醐味はここにある。
 
 ただし。世界は広い、で読後感は止まらない。70年代の本を2023年に文庫された本書のすごみは行間から我々に警告を投げかけるものでもある。
 本書から見えてくるものは、文化というのは決して自然発生的に長い時間かけて育まれたものだけではなく、ひどく人工的なきっかけを由来にするものもあるということだ。本書で記されたバングラディッシュにおける子育てとこどもの世界は、きわめてアッラーの思し召しに支配されたものだ。本書におけるバングラディッシュの記述は文化人類学の常として淡々と感傷を拝して記述されるが、児童労働や、とくに女児児童の教育機会はく奪や強制婚の背景にあるのはイスラム教の考え方だ。1970年代の調査だが、今日でもユニセフや国際NPOの啓発ポスターなどで見る内容である。
 ウガンダの山岳地帯にすむイタ族は、親が子どもの世話をほとんどしない。ありていにいうと邪魔なのである。衣食住の確保はこどもの自己責任となる。その有様は目を覆うものがあるが、イタ族がそもそもそういう歴史を持つ民族だったのではない。当時のウガンダ政府の政策で、もともとイタ族が居住していた地域での狩猟と採集が禁止されてしまい、彼らは資源の乏しい山岳地帯に押し込められたのである。そこから弱肉強食の社会は誕生した。3才を過ぎた子どもに親はもう食事を与えない。自分の食べるものがなくなるからだ。
 
 ここが大事なポイントなのだが、空間軸的にこれだけの多様な子育て価値観があるということは、時間軸的にも子育て価値観は多いに変容していくことだって十二分にあるということである。タリバン政権の前のパキスタン、イスラム革命の前のイランの写真をみると、人々の服装、街角や店の佇まい、彼らの表情をみるに、我々西洋型民主主義社会の目からはむしろ非常に現代的に見えたりする。近代日本史において戦時中の閉塞社会の以前には大正デモクラシーがあった。社会規範が一定であり、かならずいい方向へと進化するという進歩史観は単なる「見立て」のひとつにすぎない。先のイタ族は、ウガンダ政府の政策の前はもっと健やかな共同体を営む部族だったのだ。つまり、規範はいつなんどき変化するかわからないのである。
 
 本書では、諸国各文化と比較した上で、日本は子育てがしやすい、こどもにやさしい社会である、と書かれている。70年代当時も悲惨な児童虐待事件はあって、そのたびに世論が騒いだが、そうやって騒ぐのは「こどもはかわいいもの」「こどもは愛情こめて育てるもの」という価値観が前提にあるからこそ、というのが著者の見立てだった。
 
 本筋では、今も日本は「こどもにやさしい国」の方ではあろうと思う。世界にはいろいろな国がある。それらに比べれば日本の子どもは恵まれているし、著者が言うように「日本人はだいたい子ども好き」なのだろう。
 
 ただ、現代日本の社会の空気では、素直にそうだとはとても思えないのはまぎれもない事実である。仮に統計的に、ファクトフルネス的に、日本は他国の社会に比べて「子育てがしやすい国」だったとしても、なんの注釈も弁明もなくこんな牧歌的なことは書けないだろう。「こどもは愛情こめて育てるもの」というこの一言さえ、議論の余地がある現代である。それは本書が執筆された1970年代、つまり団塊ジュニア世代が生まれてきた時代から50年近く経った日本の変化である。文化人類学は空間軸上の多様性を見つめる学問だが、それが自分自身の社会のいつか来た道、そしてやがて来る道になることも十分に思考実験する必要がある。

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