読書の記録

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中央モノローグ線 ・ 遠野モノがたり

2012年07月21日 | コミック

中央モノローグ線 ・ 遠野モノがたり

小坂俊史

文藝別冊「全特集いしいひさいち」で、いしいひさいち氏が自ら“他に得難い”と評していた小坂俊史氏。そういえば「トーキョー博物誌」の日高トモキチ氏も「中央モノローグ線」のただ事でない具合を、自身のブログで語っていたことを思い出し、俄然興味を持って調べたのだが、「中央モノローグ線」はとっくに版元品切れ。やれやれと思っていたら、なぜか出張先の山形の本屋さんで発見、続編ともいえる「遠野モノがたり」とセットでゲットしたのであった。

とはいえ、しばしば“4コマの概念を破壊した”と評されるいしいひさいち氏その人が絶賛しているのが意外でもあった。かつてまんがタイムとかの4コマ誌で小坂氏の作品を読んだときはそれほどピンとはこなかったからである。

というわけで手にとった「中央モノローグ線」。なるほど読ませる。いわゆるナンセンスとかスラプスチックというものではなく、大笑いできるものでもなければ、時事ものでも最近はやりの日常系でもない。あえていえば、女性漫画家にみかける、自虐風のエッセイ4コマの遠縁と言えなくもないが、本作は紛れもないフィクションである。そういう意味で、4コマの地平をもうひとつ拡大した作品といえなくもない。

作品の内容としては、中央線のそれぞれの駅近辺に住んでいたり、職場を持つ年頃の女性を主人公にした日常と内省をタイトル通りモノローグで連ねたものである。それの何が面白い、と言われても困るのだが、なんというか、単館映画でもみているような感覚になる。

続編の遠野モノがたりは、中央モノローグ線の主役級の女性が中央線沿線を離れて遠野に引っ越してからの話である。こちらのほうがややルポめいて感じるのはなんだかんだで自分が首都圏に住むからだろうか。

モノローグという手法、内省的な世界観を4コマで体現したその新基軸はたしかに面白いが、「遠野モノがたり」が観察者的な立ち位置、あるいはエッセイ色が強め(とはいえ座敷わらしとか出てくるのだが)であるのに対し、「中央モノローグ線」が映画のように感じたというのは、やはり作者が、中央線が持つ群像劇の世界構造を見抜いたことにあろうと思う。もちろん作者自身が中野に数年住んでいたという経験知がもとになっていることが原点になっているのだろう。

中央線沿線の各駅というのはたしかにそれぞれブランドを持つ。それもどちらかというとサブカルチャーであり、そういう意味ではたしかに話題に事欠かない。90年代には三善里沙子著「中央線なヒト」という本もあったくらいである(イラストはなにをかくそう大田垣晴子!)。実際のところはそこまで極端ではなかったりもするのだが、なんとなく、高円寺とか、中野とか、荻窪とかに異空間な響きを感じるのは確かである。

こういった世界に対して「中央モノローグ線」では、それぞれの各駅にふさわしい登場人物が設定されている。中野に住むイラストレーター、高円寺に住む古着ショップの経営者、阿佐ヶ谷のOLに三鷹の女子高生に武蔵境の中学生。偏見承知で、中央線沿線になじんでいるとやはりなんとなく、中野のヒト、高円寺のヒト、荻窪のヒト、というとなんらかのパーソナリティを感じてしまうものである。

ちなみに、そういう中央線沿線の中で唯一のメジャーカルチャーともいえるのが吉祥寺である。なんとなく等身大なキャラが多い本作品の中で吉祥寺住人の祥子さんだけが、かっとんだ不条理キャラというのが面白い。(たぶん、作者にとって吉祥寺はいまいち肌があわなかったのだろうな)

 

 


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