読書の記録

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女二人のニューギニア

2023年03月02日 | 民俗学・文化人類学
女二人のニューギニア
 
有吉佐和子
河出書房新社
 
 往年の旅行記の復刻である。が、僕はこの旅行記の存在、不勉強で全く知らなかった。もちろん有吉佐和子の名は「複合汚染」とか「恍惚の人」の作者としては聞き及んではいたが、知識としてはそれくらいで、この著名な作家のこと実はあまりよく知らないのである。なにしろ、書店で最初みかけたとき、有吉佐和子ではなくて阿川佐和子かと空目したくらいである。
 
 それにしてもなんという体験記録だろうか。本書はいわゆる「抱腹絶倒系」であり、弥次喜多このかた旅行記のひとつのフォーマットであるものの、単に笑うで済まない3つの大いなる特色があって、それが今日の復刻においてがぜん意味をもってくるものと思われる。
 
 その3つとは
 
 ①1960年代のニューギニア島が舞台になっている。
 ②同行者、というかホスト役である日本人文化人類学者畑中幸子のニューギニア奥地での孤軍奮闘のありよう
 ③「急死に一生を経て」帰国した有吉を襲ったマラリア熱
 
 である。
 
 ①1960年代のニューギニア
 文化人類学の世界にとってニューギニアこそは、最後のフロンティアだった。なにしろ文明との接触が1960年代までなく、石器時代からほぼ変わらない生活様式を暮らしていた民族や部族がこのニューギニアの高地にはたくさんいたのである。
 文化人類学者ジャレド・ダイアモンドは著書「昨日までの世界」で、彼らの生活様式こそは文明時代以前の人間の様相を知る手がかりになるものとして、その交易の仕方、喧嘩の仕方、近隣部族との戦闘、子どもの育て方、信仰心やタブー、食と健康などを事細かに記している。この本は非常に面白くて、現代社会の閉塞や病弊を打破するヒントにもなりうる書として僕なんかは氏の代表作「銃・病原菌・鉄」よりも、この「昨日までの世界」のほうを推しているのだが、この本によるとダイアモンドは1960年代にニューギニア島で調査のために滞在していたとある。「昨日までの世界」で掲げられているニューギニア先住民の挙動―-「パラノイア的な用心深さ」「大人の仕事の手習いとしての子どもの遊び」「見知らぬものに接したときの反応」などはこの1960年代の調査によるところが大きい。
 ところが、作家有吉佐和子および文化人類学者畑中幸子がニューギニアの山奥にある集落ヨリアピに滞在していたのがまさに1968年。しかもそのヨリアピに住むシシミン族なるネイティブ部族は1965年まで文明と接触をしていなかったリアルタイム「昨日までの世界」の人なのだ。
 
 ヨリアピで出会ったシシミン族の男性のいでたちたるや、いまや漫画の表現としても差別や偏見を助長するとして自粛対象になっている「鼻に穴をあけて動物の骨を刺し」「アイヤアイヤと雄たけびを上げ(シングアウトというそうだ)」「下半身は性器をひょうたんの実で覆っているだけ」であった。さらに「女は野豚3匹と交換」「酋長はつい先の部族間争いで28人殺している(女子こどもは数に含まず)」「大蛇を蒸して食べる」。現代ではフィクションでも描写がはばかれることが、有吉の眼前で普通にノンフィクションとして展開されたり、会話されたりする。
 いわば、今となっては都市伝説化したものが、リアルなものとしてここに外連味なく描かれているのだ。
 しかし、それはあくまで有吉が直接耳目にふれたものを抑制的に書いているに過ぎない。シシミンの習俗や思考についてはあえて踏みこまなかった。「一人の文化人類学者が生命を賭して調査している聖域なのだ。ふらりとしてやってきた作家が、ことごとしく書き立てるのは学問に対する冒涜」という態度を示している。
 
②同行者、というかホスト役である日本人文化人類学者畑中幸子のニューギニア奥地での孤軍奮闘のありよう
 そう。この同行者の畑中幸子が凄いのである。あとで調べてみるとご存命で、日本の文化人類学界では著名な人なのだった。Amazonで検索すると新書や文庫、それから翻訳もけっこう出している。
 畑中が当時調査研究していたのがこのニューギニアであった。当時この地はまだパプアニューギニアとして独立しておらず、オーストラリア政府の信託領となっていた。畑中はオーストラリア政府から支援を受けた。ジャングルの奥地に拠点となる高床式の館(有吉いわく「御殿」)の提供と、通訳や護衛のスタッフ(山のふもとの町のネイティブ)を派遣してもらっている。と書くと好待遇のようだがさにあらず。このヨリアピなるところは、ふもとの町からジャングルの山と谷の道なき道を徒歩で二日ないし三日かけて超えたところにあり、当時はもちろんインターネットも衛星電話もなく、夏ともなれば日中は蒸し風呂だし、朝夕は得体のしれぬ虫がわんさか攻め、現地ネイティブは風土病なのか謎の皮膚病に侵されている地である。そのような地ゆえにシシミン族は文明との接触が遅れた。つまり、オーストラリア政府も掌握しきれていないのだ。オーストラリア政府が彼女を援助したのは、彼女を「囮」にして謎の先住民シシミン族を掌握しようという魂胆もあったそうである。彼女はこのヨリアピなる地で3年間調査のために滞在したそうだ。
 1960年代のニューギニアの山奥にそんな日本人女性の学者がいたのである。本書で畑中が語るところによると、以前は同じニューギニアでももっとアクセスの簡単な場所を調査地としていたらしい。ところが「論文書くために一年だけ日本へ帰ったときに、アメリカ人の若い文化人類学者夫婦が住みついてしまった」とのことで調査地をこのヨリアピの地にうつしたそうである。まさかこのアメリカ人夫婦というのは若い頃のジャレド・ダイアモンドではあるまいな。
 その畑中の、スタッフや集落のシシミン族に対しての声掛け、働きかけがとにもかくにも痛快で面白い。カーカペッペと英語とピジン語とシシミン語(!)を駆使して、とにかくなめられないように(女性のステイタスが低い文化なのである)君臨しつつも、文化人類学者であるから現地のカルチャーを混乱させたり影響を与えないように細心の注意を払う。曰く「私はニューギニアでは顔なんよ」「ニューギニアは私のフランチャイズなんだからね」。本書のタイトルは女2人だが、有吉曰く「畑中さんが1.8人力。私が0.2人前という勘定」。
 
③「急死に一生を経て」帰国した有吉を襲ったマラリア熱
 というわけで、60年代のニューギニアのジャングル奥地と豪快な文化人類学者畑中幸子に対して作家である有吉佐和子はあくまでひ弱な存在。本書冒頭で本人曰くは「一見丈夫そうに見えるけれども、その実はウドの大木で、体力は人並以下、わけても脚力のなさといったら(中略)、本当は虫一匹這い出してきても悲鳴をあげて逃げるような弱虫なのだ)」。
 それが、ヨリアピまでの3日間の山岳横断で足の爪もはがしてしまい、最後は気絶してしまって、ネイティブに紐で縛って下げられて運ばれ、腕に吸い付いたヤマビルをもはやギャーギャーいう気力さえなくなるまで完膚なきまで叩きのめされる。
 約1か月のヨリアピ滞在(というか足止め)の後に、僥倖が重なって有吉は下山が叶った。その際の表現は「ほうほうの体で脱出」。その後ニューギニアを出国して香港にまでたどりついたときは「急死に一生を得た」と表現。これはまことに本心だったのだろう。「幸運に恵まれて奇跡的生還を遂げた」のは偽らざる本心だったのだろう。
 にもかかわらず、有吉は帰国後にマラリヤを発症し、死の恐怖におびえる。当時の医療技術ではまだ治せるマラリヤと治せないマラリヤがあった。このとき採取されたマラリヤ原虫の入った有吉の血液は、東大で「アリヨシ株」として零下80度で保存され、血清として使用されたそうである。
 
 というわけで、ハードボイルド極まるニューギニア体験記であるにもかかわらず、「抱腹絶倒系」に仕立てて見せる有吉の作家の底力。なにしろ初版の刊行からもはや50年。有吉佐和子が亡くなって40年になろうとしているのに、令和の今なおここまで読ませて考えさせられるのだから凄すぎるったらない。よくぞ復刻してくれた。というか、いままで絶版だったのがむしろ信じられないくらいである。

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