読書の記録

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ひと (ネタバレ)

2019年05月22日 | 小説・文芸

ひと (ネタバレ)

 

小野寺史宜

祥伝社

 

 

「あの日あの時あの場所で君に会えなかったら・・」というのは小田和正の名曲「ラブストーリーは突然に」だが、ラブストーリーに限らず、われわれの人生というのはそういうものの積み重ねでできている。

これを「縁」という。

「縁」という字は、「ふち」という意味と「えにし」という意味が込められているが、なにかの「ふち」は、別の何かとの接点でもあるから、新たな「えにし」を得るには「ふち」に寄ろうとする勇気がいる。

つまり、自分のよく知っている世界の真ん中で愛を叫んでいても「えにし」は得られない。「ふち」のほうまで出向いて別のなにかに接点を持たない限り、「えにし」にはならない。真ん中に座り込んで、だまって向こうからやってくる「えにし」を待っていてもなかなかやってこないのである。辺境に出向かなくてはならないのである。

「犬も歩けば棒にあたる」ということわざがある。

このことわざは、2つの意味合いがある。元来は「中でじっとしていればいいのに外をうろつくから余計な災難にあうのだ」というものであったが、のちに「中でじっとしている限り事態はよくもわるくもならないが、外に出ればいい巡り合いに当たる」という意味合いが加わった。後者は、論理的には「悪い巡り合いだって当たるかもしれないじゃないか」となるかもしれないが、少なくとも「中でじっとしている限り、事態は変わらない」のである。

むしろここで気を付けなければならないのは、「事態は変わらない」というもののほとんどは長い目でみると「事態を悪くする」ということである。何もしない時間の経過は、モノゴトを劣化させる。エントロピー拡大の法則で、状況はカオスになり、修復が困難になる。世の中というのは流動的で変化していくものだから、「中でじっとしている」すなわち「停滞している」ものは相対的に遅れをとってしまうのである。今風にいうと「こじらせる」ということになる。

したがって、リスクはあるかもしれないが、安住の真ん中から動いて、ちょっと「ふち」にいってみる。

やらないリスクよりやるリスクのほうが実は安全度が高いというリスク学の考えがある。やらないことで確実にリスクが高まることがわかっているのならそれはリスクではなくてもはやクライシスということになるから、それならばやるリスクのほうが生存率が高い。

一般的には我々の生活は人間社会なので、「えにし」は必要なのである。えにしのない生活ほど人間社会においてリスクはない。孤独が危ないというのはそういうことだ。

 

という禅問答のようなことを繰り広げたうえで、この小説。泣けるよということで家人が薦めてきた。

主人公の柏木聖輔くんは、高校時代に父親を自動車事故で亡くし、大学時代に母親を病死で亡くしてしまった。大学を続けられなくなって中退した。大学では軽音のサークルに入ってバンド活動をしていたがそれもできなくなった。

小説冒頭、いったんすべての「縁」が切れてしまった聖輔くんがいる。ここから、新たな「縁」を得て、その「縁」が次の「縁」へとひろがっていく。また、父親や母親の「縁」を知っていくことで人生を前へと進めていく。ちょっと山田洋次や倉本聰っぽい。

両親を亡くし、大学もやめてしまった聖輔くんだが、学生時代にしていたバイトの店ではなく、これまで足をむけたことのなかった商店街にいってみた。今までバイトはネットで探すだけだったのに、総菜屋に貼ってあったバイト募集の手書き張り紙に反応し、その場で店主に働かせてくれと言う。聖輔くんは砂町銀座という知らないところの「ふち」に行くことによって、総菜屋「おかずの田野倉」の店主である督次さんと「えにし」が生まれた。

絶対孤独に陥ったかのように見えた聖輔くんだが、高校時代にベースギターをやっていた。これが新たな「えにし」づくりに実は効いている。そういう意味では、高校時代にベースギターにトライしたのも、ひとつの「ふち」に行く行為だったと言える。楽器経験者はみんな体験しているが、初心者時代はなかなか上達しなくてつらいものである。この小説では聖輔くんが、中学生にベースギターを教えるシーンがある。小指がなかなか動かない。聖輔くんも初心者時代そうだったはずだ。そのときは聖輔くんも「ふち」に行っていた。そして続けることで、ベースギターという世界と「えにし」を持った。このベースギターという「えにし」が、いま新たな「えにし」をつくる。この中学生の準弥くんとの邂逅もそうだし、大学時代のバンド仲間である剣くんや清澄くんともそうだし、この小説のヒロインである同郷の同級生、八重樫青葉さんともそうである。彼女はベースを弾く聖輔くんをまずは覚えたのだ。

聖輔くんは新たな「えにし」を広げていく。「おかずの田野倉」の従業員とその家族、商店街の人々、青葉さんの元カレ。父のむかしの同僚や上司。

 

もちろん「縁」にも「良縁」「悪縁」「宿縁」「くされ縁」といろいろある。聖輔くんも、ひどい人間に関わってしまう。弱みに付け込むようなわるい「縁」も出てくる。とばっちりのような「縁」もつくってしまう。

だけれど、全体的には聖輔くんはいい縁に助けられた。聖輔くんがいい「縁」にたすけられたのは、彼が「縁(ふち)」に行くからだ。聖輔くんはだまって座っていて、誰かが何かをもってきてくれるのを待っていたわけではないのである。

だいたい世の中は「捨てる神あれば拾う神あり」である。これは気休めではなくて、そこそこ安定していて人の営みができている社会であれば、社会自体のフィードバック機能がそうなっていると言ってよい。大事なのはその社会に参加しておくこと、「えにし」をつくっておくことである。

 

 


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