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21世紀の民俗学

2017年08月09日 | 民俗学・文化人類学

21世紀の民俗学

畑中章宏
角川書店

 

 挑戦的なタイトルである。しかもWIREDで連載されたものというから興味深い。

 本書の巻末書き下ろしでも述べられているが、「都市民俗学」と称して口裂け女とかトイレの花子さんとかの都市伝説を、古来の河童伝説や浦島太郎伝説の研究と同じような方法論で、分布やバリエーションを調べているようなものはたまに見かける。ただし、これは「民俗学」とはいっても本格的なアカデミズムというよりはサブカル研究みたいなものであることが多い。

 民俗学というからには、その観察対象に、その地で生きている人たちの記憶や知恵が累積されているものを見出すことが一般だろう。「トイレの花子さん」はなぜ出現するのか。そういうものの出現を「必要」とする学校という子供たちの時空間は、何を意味しているのか。

 著者はもちろんわかっている。だから、「21世紀の民俗学」と来たからには、目の前の現象はあくまで21世紀を象徴とするそれだけれど、しかしそこに見え隠れする人の所作や思いは、古来からある人間の喜怒哀楽であり、その観察対象を持つに至る人々の心理的背景や合理的理由を見出そうと試みる。
 自撮り棒、ホメオパシー、アニメの聖地巡礼、ポケモンGOまで、21世紀今日の社会現象を、そこに生きる人の記憶や知恵の累積のあらわれとして、民俗学的に考察していく。
 もっとも、雑誌の連載ということもあって、ひとつひとつの深堀はそれほどつめられてはおらず、次から次へと21世紀の観察対象がカタログのように紹介されていく体裁ではある。自撮り棒なんか、本気で考察したらそうとう面白いことになりそうだが、WIREDの連載なので、薄く広いのは仕方のないことだろう。

 そのかわり、というのか、考察のショートカットというべきか、著者の挑戦として面白いのは、そういった21世紀の現象に対し、比較軸として、いわゆる代表的な民俗学的素材をもってくることで、なんらかの普遍性を見出そうとすることだ。
 たとえば、自撮り棒には座敷童子を援用する。なるほど、自撮り棒によって写された写真とは、従来の写真ならばいないはずの、しかしあたま数的には矛盾しないはずの、という一種のパラドックス的違和感をたくした座敷童子というフォーマットをあてはめてみることで、この奇妙な撮影習慣の普遍性にせまろうとする。
 ほかにもホメオパシーには富山の民間薬、FM電波で流れる音楽をイヤホンで聞きながら踊る名古屋の無音盆踊りには、柳田邦男が地方で見つけたお囃子などがない静かな盆踊りを引用している。事故物件リストで有名な大島てるのデータベースには、地名学というその土地の記憶そのものの考察をぶつけてくる。

 いずれの現象にも見えてくるのは、かくして、21世紀の人間も、古来の人間と同じく、悩み、恐れ、刹那の快楽を求め、忸怩たる思いに後をひく。それが現象となる、ということだ。


 ぼくが「21世紀の民俗学」として考えたいものがあるとすれば、昨今のバーベキューの隆盛だ。
 屋外で大勢の人数が集まって火を起こして肉を焼いて酒を飲むという、きわめて原始的な祝祭をにおわせる行為が、ここ数年非常に流行っているが、ヒトをここに追い立てるものは何なのか、というのはかなり興味深い。
 バーベキューは、日常のわれわれの何を解禁し、われわれの何を作用すべく機能しているのか。
 万事が清潔で快適な住空間に追われ、万事空調の効いた室内空間や、風合いのよい衣服にくるまれ、安全なIH調理器やオーブンレンジでほどよく調理された食事の供給と、SNSによる大変都合がよくもシステム的な他人とのコミュニケーションいう「飼いならされた」日常によって、実はカチコチに凝りきってしまった心身の、大いなるほぐしという祭りこそが、この原始的なバーベキューという気がしないでもない。
  


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