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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年  (ネタばれあり)

2013年08月28日 | 小説・文芸

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

村上春樹

 

 今更かよ、と言われそうだけど。

 

 村上春樹の他の作品にもれず、意味深な小道具と登場人物で溢れている。

 いくらでも深読みができる小説であり、推理小説のようにパズルを解いていく読み方もあるが、ここではより骨太に、構造と寓意に着目した見立てをしてみたい。

 個人的に拾いたい要素は「駅」と「プール」である。
 主人公の多崎つくる君は、駅の設計を仕事にしている。それだけでなく、何か考え事があると駅に行ってぼーっとまわりを眺める。
 一方、彼はプールで泳ぐのを習慣にしている。そのときも考え事をしながら泳ぐ。
 「駅」は雑踏であり、社会である。多崎つくる君は、その社会装置をつくる仕事をしており、その社会を遠くから眺める。そんな彼は孤独である。
 プールで泳ぐことは真に自問自答の閉ざされた空間であり、彼はその孤独に没頭する。
 「駅」とは群像の中の孤独であり、「プール」とは誰もいない無人の空間の中でさらに内省化していく孤独である。

 さて、この物語は、高校生時代の5人組仲良しグループ、7人の侍のように明確に役割分担された、究極に調和のとれたグループにいた多崎くんが、突然他の4人の仲間から謎の絶縁宣言を受けるところから始まる。この5人のうち、多崎くん以外の4人は、名字に「色」を持つ。すなわち赤松、青海、白松、黒埜である。

 理由のわからぬまま絶縁宣言を受け、絶望のどん底におちた多崎くんは死を観念しながらしかし生きながらえ、その半年の過程で顔つきも体つきも生まれ変わる。

 彼はプールへ通うことを日課とするようになる。
 そしてそのプールで「灰田」という年下の青年にあう。
 灰田は多崎のよき理解者であり、親友となったが、あるとき忽然と姿を消し、多崎は再び孤独になる。

 その後、多崎は念願の駅を設計する仕事につく。

 やがて、多崎は、木元沙羅という聡明な年上の女性と知り合う。

 そして、物語は、沙羅の意見によって多崎が16年前になぜ突然4人に絶縁されたのかの理由を探しに、再び4人に会いにいく、ということになるのだが、物語の具体的な成り行き、彼ら4人がその後具体的に何があってどうなっていったかを追跡してもあまり意味がないように思う。いや、あるのかもしれないが、少なくとも絶縁の理由とか、今の4人の境遇が何をあらわすかとかは、この小説を読み解く上で絶対条件である必要もないように思う。

 やはり、ここでキーになるのは、「色」のついた名前を持つ彼らの意味、その中で「色彩」をもたない多崎の人生のプロセス、そこに思いだすように現れる「駅」と「プール」である。

 

 個人的に得た結論は、人生とは途中まで「加色混合」であり、あるときを境に「減色混合」になる、ということだ。

 「加色混合」とは絵の具のように色を重ねれば重ねるほど色が濃くなる、厚みが増すことである。

 友達百人できるかな? という歌があるように(いまどき同学年に100人もいないわけだが)、子どもから大人への過程で、人生は人と知り合い、群れ会い、その中で情報を蓄積し、グループの中の調和の一員を過ごす。

 だが、やがて調和は停滞と限界に行きつく。何かをきっかけにして、それは本人も気づかないくらいゆるい峠のこともあれば、ショッキングな断崖であることもあるが、そこを境に人生は知り合いを、群れを減らしていく。いくらSNSでつながっていようと、ママ友をつくろうと本質的にはそうなる。それがオトナになるということだ。

 だが、それは後退ではない。減らしていくことで、人生はシンプルに、よりベクトルが明りょうになる。つまり、減らすことで自分自身の厚みはむしろ増えていく。これが「減色混合」である。光は「減色混合」である。集まりすぎた光は真っ白になってしまい正体を失う。

 「色彩」をもたない多崎君はアカ、アオ、シロ、クロの仲間たちによってそのポジションをもらい、そして最も色が重なったときに突然孤独に放り投げられる。

 やがて顔つき、体つきともに生まれ変わり、孤独とむきあい、プールの中に安寧する多崎が出会った人物がすべての色を混ぜ合わせてできる灰色を名に持つ「灰田」である。

 灰田はここで、不思議なジャズピアニストの話をする。それはかつて6本指を持っていたことをうかがわせるピアニストの話で、しかし6本目の指はけっきょく邪魔であり、それを切り離して5本指になったそのピアニストはこれ以上はないという演奏を行い、そして去っていく。5つ以上要素を重ねることはもはや調和を破壊する。

 灰田はそうして多崎の目の前から姿を消す。

 この「灰色」の時代を峠にして、「生まれ変わった」多崎はここから減色混合の人生を歩む。
 雑踏の中の孤独、「駅」の人生を歩む。彼は「駅」を、その「人生」を、少なくとも満足しながら日々を送る。

 

 突然の絶縁から16年目にして、彼が過去の4人の元(正確にいうと3人)を巡礼し、得た答えは、そんな彼の人生が、本筋としては理不尽でも奇妙奇天烈でもなく、しごく全うであるという解釈を得ることである。物語上は解決されない謎がしかけられているが、作者がこの謎を解決させていないということは、この謎を解くことは物語の本質において必ずしも大事ではないことを意味する。
 むしろポイントは巡礼の果てに多作の行きついた心境である。

 真っ白の世界、フィンランドの白樺と白夜の世界(しかも内省に沈むプールにも入れなかった)で16年前の真実を知った多崎は、この先は何もない白の世界から引き返し、新宿駅の雑踏を見つめ、今の今までの自分の人生を肯定し(それは透明な諦観をともなうものだけど)、しかしここまでシンプルに引き算していって最後に沙羅を求める自分を強く自覚する。
 人生は減色混合であり、もしかしたらこの先、沙羅さえも多崎の元を去りそうな予感さえ与える(一見隠されているが彼女は「黄色」である。沙羅という花は白い花弁の中に黄色い花芯を持つ。これこそフィンランドの白い世界の中でみつけた真実である。)のだが、それでも多崎は彼女こそはいろいろ引き算した結果、ゆいいつ確保しなければならない色と自覚するのである。

 最後のことば「すべてが時の流れに消えてしまったわけではないんだ。僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」。

 人生のどこかで加色混合から減色混合への峠をこえ、そこを境に生まれ変わっている。
 だが、峠の手前だからといって加色混合の時代が無意味なわけでもなく、減色混合だからといって価値が失われていくわけではない。むしろ減ることで意味は研ぎ澄まされていく。

 かくして人生はつくり続けられる。

 


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