読書の記録

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神童

2017年02月17日 | クラシック音楽

神童

作:さそうあきら
双葉社


 久しぶりに読み直して感動しまくった。

 「蜜蜂と遠雷」も「四月は君の嘘」も「のだめカンタービレ」もいいけれど、やはり真の傑作はこれじゃないかと思った次第である。

 

 「蜜蜂と遠雷」「四月は君の嘘」「のだめカンタービレ」に共通するものとして「好きな曲を好きなように弾いて何が悪い」という問題提起があったように思う。なぜクラシック音楽はそれが許されないのか、あるいは許されるときというのはどういうときか、というせめぎあいがこの3作にはあった。

 

 「神童」は、意図的にそれを避けたのか、あるいはそこに価値を見出さなかったのか、この観点をめぐることはない。

 「神童」は、天才アーティストの栄光と挫折と復活をメインテーマにしている。
 これが実にドラマチックなのである。

 そう。クラシック音楽において、「天才」は、はなから「好きなように弾いて、しかもそれがクラシック音楽としての美学を逸脱していない」のである。実存した巨匠である、ルービンシュタインもリヒテルもグールドもポリーニもミケランジェリもアシュケナージもアルゲリッチもそうだった。唯一の例外はホロヴィッツくらいかもしれない。(そのホロヴィッツをモデルにした人物が「神童」には出てくるのも面白いところだが。)

 しかし、それだけに「天才」にとって最大のリスクはおのれの身体である。

 指回りの身体能力や耳の感受性と音楽全体を見通す論理構築力と、聴衆とのコミュニケーション力みたいなものがぎりぎりのところで高度にあわさって天才の音楽は体現するから、ちょっとした不調が全体の破滅につながる。

 まして、深刻な不調となると、これはアーティスト生命全体を終わらすものとなる。

 

 「神童」に出てくる天才少女の成瀬うたは、この破滅を経験する。

 そして、主人公である和音は、そんなうたの栄光と挫折、そして復活に並走することで、決して天才ではない自分の音楽の生きる道を見出す。

 

 そうなのだ。クラシック音楽の世界は、一部の天才以外に、「天才」になれなかったごまんのアーティストがいるのだ。「神童」のすごいところは、タイトルのように神童である成瀬うたの起伏を描きながら、主人公である決して天才でなかった和音が、それでも音楽を着地させるところを描いた傑作なのである。

 そこには「好きなように弾いて何が悪い」という、クラシック音楽をあつかう話においてある意味語り尽くされたような問題提起はもはや捨象されており、むしろそんな葛藤はとっくに克服したアーティストたちの、それでも天才と凡才の絶望的なまでの格差、それぞれの苦悩、挫折、そして希望が描かれている。

 やはり次元がひとつ違うと思うのである。


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