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読書の記録

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昭和16年夏の敗戦

2020年08月03日 | ノンフィクション

昭和16年夏の敗戦

猪瀬直樹
中公文庫


 太平洋戦争が開戦される前、日本中のトップエリートが集まり、何度も戦争シミュレーションをしてみた。しかし、何度試しても日本は負けるという結論だった。
 これは、僕が小学生のころか中学生のころか、そのへんは定かでないのだが、父から聞いた話である。なにか戦争シミュレーションゲームの話題をしていた折に出てきた話だった。

 この話、僕は記憶として残っていた。いま思うとこれがネタ本だったのだ。


 なにしろ、父からこともなげに言われた話なので、これは誰もが知っているものすごく有名な話なのだと思っていたのだが、そうではなかったのね。少なくとも、昭和58年に猪瀬直樹が膨大な資料や証言にあたって本書を書くまでは、一般にはほぼ知られていないことだったらしい。
 また、巻末の石破茂の談を信じるならば、石破茂は2003年に防衛庁長官をやっていたときまで、本書のことも「総力戦研究所」のことも知らなかったとのことである。

 
 本書をして、「データより空気」を優先する日本人のメンタリティをそこに見出し、警鐘をならしたり教訓にするような読み方はたぶん間違ってなくて、書評なんかでもそうしたものが一般的だが、僕が本書を読んでみてさらに感じたのは次の2つである。

 ①東条英機はアイヒマンだった
 ②政治は観念で動く

 本書は「総力戦研究所」に集った若きエリートたちの命運がメインストーリーだが、もうひとつ並行するストーリーがあってそれは東条英機である。総力戦研究所の「虚(シミュレーション)」と、東条英機の「実」が並行し、交差するのがこの「昭和16年夏の敗戦」だ。したがって、本書ではデータを武器にシミュレーションをした総力戦研究所に対比して、東条英機は何を根拠に実働したのが描かれている。

 そこでまず①だが、日本近現代史上最極悪人となってしまった東条英機をして「官僚的体質」をその特徴にみる解説は多い。下足番の家族の健康まで気を遣っていたとか、街角のごみ箱の中の様子で人々の暮らし向きを察していたといった細やかな心遣いを示すエピソードもないではないが、ここから言えるのはミクロなレベルでの論理思考が得意というか、きわめて分析的な思考の持ち主だったということだろう。秀才系エリートにありがちである、というのは後知恵だが、こういうタイプの人が、まずは陸軍の中で頭角を現し、陸軍大将まで上り詰めた不思議は一考に値する。如才なき立ち回りゆえに失点が少なく、減点法に強いということだろうか。上昇志向の多い陸軍にあって功績や勲功にあせって自滅する輩が多い中、そこそこ高値安定株みたいな存在だったのではないかと思う。

 ただ、こういうタイプの人は、清濁併せのみながら未開の大局を切り開けるタイプではない。参謀にはなれても大将にはやはりなってはいけないのじゃないかとは思う。猪瀬直樹による東条の描写は、すべての意思決定の根拠を、何かの1システムとして依拠することに見出している。

 “彼は自分が頂点にいるとは思わない。天皇がいた。彼はその忠実な臣下であった。彼は軍人としてのファンクション(職分)のなかで生きてきた。理念や思想があれば彼に制度の壁を破ることを期待するのは可能だが、それは望むべくもなかった。”

 ”つまり東条は、明治憲法を条文通りに答えたに過ぎない。戦争ということをバラバラにして、ここまでは外交、ここからは統帥、これは文官、あれは軍部の責任といったことを事実について説明したまでだ。これでは戦争は、最高の「政治」ではなく、官吏の「事務」となる。"

 ここで連想するのが、ナチスドイツにおいて、ホロコーストの進行計画をつくって随所に指示たアドルフ・アイヒマンである。
 アイヒマンのこの所業は最終的に数百万人のユダヤ人の強制収容所への移送につながるわけだが、彼自身の意思決定の動機については官僚機構の制度と指示系統に沿っただけのつもりであったという、その平凡さについて注目が集まった。ハンナ・アーレントはこれを「陳腐な悪」と表現した。

 どうも東条英機も同じようなメンタリティがあったのではないかという気がする。東条英機もアイヒマンもこの大意思決定を「政治ではなく、官吏の『事務』」としかとらえられなかった。うそぶいているのでもなく、悪びれているのでもなく、心底そう思っていた節がある。

 僕が思うに、本書が示すこととして、「データより空気」なメンタリティがもつリスクを自覚することも大事だが、「政治ではなく「事務」にしてしまうこと」の恐ろしさも同じくらい重要なのではないか。
 そしてここが肝心なのだが、東条英機という人物を、まるで特異点のように扱って、例外的極悪人として評価して片付けてしまうのは簡単だが、こういう物事を「事務」化するメンタリティは、アーレントの指摘のように、多くの人間が「陳腐」に持つ類のものである。だって決まりなんだもの、そうしろと言われたんだもの、という他責を理由にたいして罪の意識もなくやってしまうことは我々の日常生活にだってたくさんあるだろう。法律上は問題ない、として社会的通念から逸脱した行為を働き、いつのまにかそれがエキセントリック化して大問題化する企業の例は枚挙にいとまがない。
 東条英機の教訓は、制度も慣例も無視して暴走したから恐ろしいのではなく、徹頭徹尾、制度や慣例に沿って意思決定したからの恐ろしさなのである。で、制度や慣例に従うのは、官僚機構の普遍的な行動原理である。


 そこで②.そもそも政治は「観念」である。本書ではこう書かれる。

 ”〝事実”を畏怖することと正反対の立場が、政治である。政治は目的(観念)をかかえている。目的のために、〝事実”が従属させられる。画布の中心に描かれた人物の背景に、果物や花瓶があるように配列されてしまうのである。”

 一見錯覚しやすいが、政治はけっして事実ベースではない、ということだ。2021年に東京オリンピックをやるというのも、GoToキャンペーンは意味がある、というのも、事実をもとに積み上げた意思決定ではもはやない。観念が先だ。我々はけっこうぎりぎりまで2020年に東京オリンピックを開催しようとした日本政府の見解をよく覚えている。そして中止になったとたんに緊急事態宣言が出た。緊急事態宣言を出すにはオリンピックの延期が必要だったんだろうというのがよくわかるし、そのときより感染者が増えている現在に緊急事態宣言が再度出るどころかGoToキャンペーンが始まり、そしてワクチンの目途もないのに2021年には東京オリンピックをやるつもりでいる。
 これらの意思決定の根拠は主観でしかない。感染者数の推移ともワクチン開発のスケジュールともかみ合っていない。参考にはしているのだろうが、根拠にはなっていない。

 コロナはあまりに象徴的だが、多かれ少なかれ政治はすべてそういうところがあるだろう。
 これは事実をもとにつみあげながら意思決定していっては間に合わないということもあるし、陳腐な解答しか出せず、ブレイクスルーもイノベーションも果たせなそうとも思う。顧客のニーズをつかまえる企業経営の世界でもビジョナリーとか仮説思考とか言われて久しい。GAFAなんか観念だらけである。

 政治や経営判断ではけっこうな割合で観念が先行するものなのである。その観念を実現化するのは、無茶ぶりを粛々と実行する「官僚機構の「事務」」である。
 したがって、我々はリーダーを選ぶとき、それは公職の議員だけでなく、組織の管理職やクラスの委員長でもなんでもそうだが、「この人の観念は大丈夫か」ということをしかと見極めなければならない。くれぐれも無害だからとか減点法的な採点で「事務屋」をリーダーにするととんでもないことになるのだ。

 


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