読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

こちら葛飾区亀有公園前発出所

2016年09月04日 | コミック

こちら葛飾区亀有公園前発出所

秋元治
集英社

 

 ついに連載終了の報を聞いて絶句。感慨深いものがある。

 連載40年。しかも週刊連載、いちども休載がない。単行本で200巻。驚異のクオリティコントロールである。これはもうイチローの通算安打新記録にも匹敵するんじゃないかと思う。

 

 長期間、コンスタントに一定以上のクオリティを生産し続ける、というのは、アイデアフルとか運動神経とかとはまた別の才能が必要である。セルフマネジメント能力といってもよい。こち亀の場合、アシスタントスタジオである「アトリエびーだま」の運営もそうだし、バックアップにまわっている編集陣も相当優秀であるとみている。もちろん秋元治自身のモチベーションの維持が根底にあっただろう。こういったクオリティ安定のためのコントロールはまことに重要である。

 もちろん、こち亀のクオリティについては常に批判もあった。モブキャラの絵柄が変とか、ある時期女性キャラが全員お色気になったとか、特殊刑事課編が適当すぎるとか、超神田寿司編は完全に蛇足だとか。

 しかし、それでも「こち亀」はちゃんと続いた。単行本はコンスタントに売れ続けた。売れ続けているということは読者がついているということである。

 

 こち亀が超長期連載をなしとげた秘訣はいくつかあると思うが、自分が感じるポイントを2つあげてみる。

 ひとつは、つねに同時代性を取り入れたというところがあるように思う。これがサザエさんやちびまる子ちゃんとの大きな違いで、そのためには過去エピソードとの矛盾も辞さない。それは、お話の中に現れる時事ネタや小道具もそうだが、もっというと、その当時の時代が何に面白さを求めているか、を常に意識していたと思う。
 少年ジャンプを主に読んでいるのは、小中学生くらいだと思うが、その時代その時代にあたっての小中学生が何を面白がるか、という点を実は外していなかったと思う。それが「オレが読んでいたころのこち亀は面白かったのに、最近のは全然面白くない」というこち亀批評としてよく見かける指摘につながる。しかもそれを各世代が言うのである。これこそがこち亀マジックだ。読者は年齢が上がれば価値観もかわるが、こち亀は読者の成長についていかず、あくまで定点的に、その時点での小中学生に焦点を合わせ続けた。
 これはそうとうのリサーチ能力と、時代に対してのシンクロニシティを要求する話である。

 もう一つはスクラップ&ビルドを認めていたということだろう。
 新たな設定をとりいれてみて、何度か連載し、しっくりいかないようであれば潔く撤回するという姿勢だ。たとえば、中川は一時期髪型を変えたがある時期にもとに戻したし、隣にロボット派出所をつくってみたもののやがてなくなったし、ニューハーフの麻里愛は、時代とそぐわなくなると本当に女性になってしまった。一度設定してしまったものはその瞬間は面白くても、時間がたてばやがて自縄自縛をもたらしやすい。そこをすぱっと断ち切るのは勇気だが、こち亀はこのスクラップ&ビルドをうまくやってのけた。(だから、超神田寿司編なんかは支持者もけっこういたということだろう)。

 

 つまり、こち亀は、40年間「こち亀」であったのだが、つねに古い血をすて新しい血をいれて入れ替わり続けていた。それこそが40年間週刊連載かつ無休載の秘訣だと思う。

 こういう話で思い出すのが福岡伸一の言及で有名になった「動的平衡」だ。われわれ生命は、実は分子単位では常に入れ替わり続けている。入れ替わり続けることで全体としての体(てい)を健全に保っている。変わらないために変わっていく。
 「こち亀」は見事に動的平衡を成し遂げていたのである。

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ポスト西洋社会はどこに向か... | トップ | <インターネット>の次に来... »