こちら葛飾区亀有公園前発出所
秋元治
集英社
ついに連載終了の報を聞いて絶句。感慨深いものがある。
連載40年。しかも週刊連載、いちども休載がない。単行本で200巻。驚異のクオリティコントロールである。これはもうイチローの通算安打新記録にも匹敵するんじゃないかと思う。
長期間、コンスタントに一定以上のクオリティを生産し続ける、というのは、アイデアフルとか運動神経とかとはまた別の才能が必要である。セルフマネジメント能力といってもよい。こち亀の場合、アシスタントスタジオである「アトリエびーだま」の運営もそうだし、バックアップにまわっている編集陣も相当優秀であるとみている。もちろん秋元治自身のモチベーションの維持が根底にあっただろう。こういったクオリティ安定のためのコントロールはまことに重要である。
もちろん、こち亀のクオリティについては常に批判もあった。モブキャラの絵柄が変とか、ある時期女性キャラが全員お色気になったとか、特殊刑事課編が適当すぎるとか、超神田寿司編は完全に蛇足だとか。
しかし、それでも「こち亀」はちゃんと続いた。単行本はコンスタントに売れ続けた。売れ続けているということは読者がついているということである。
こち亀が超長期連載をなしとげた秘訣はいくつかあると思うが、自分が感じるポイントを2つあげてみる。
ひとつは、つねに同時代性を取り入れたというところがあるように思う。これがサザエさんやちびまる子ちゃんとの大きな違いで、そのためには過去エピソードとの矛盾も辞さない。それは、お話の中に現れる時事ネタや小道具もそうだが、もっというと、その当時の時代が何に面白さを求めているか、を常に意識していたと思う。
少年ジャンプを主に読んでいるのは、小中学生くらいだと思うが、その時代その時代にあたっての小中学生が何を面白がるか、という点を実は外していなかったと思う。それが「オレが読んでいたころのこち亀は面白かったのに、最近のは全然面白くない」というこち亀批評としてよく見かける指摘につながる。しかもそれを各世代が言うのである。これこそがこち亀マジックだ。読者は年齢が上がれば価値観もかわるが、こち亀は読者の成長についていかず、あくまで定点的に、その時点での小中学生に焦点を合わせ続けた。
これはそうとうのリサーチ能力と、時代に対してのシンクロニシティを要求する話である。
もう一つはスクラップ&ビルドを認めていたということだろう。
新たな設定をとりいれてみて、何度か連載し、しっくりいかないようであれば潔く撤回するという姿勢だ。たとえば、中川は一時期髪型を変えたがある時期にもとに戻したし、隣にロボット派出所をつくってみたもののやがてなくなったし、ニューハーフの麻里愛は、時代とそぐわなくなると本当に女性になってしまった。一度設定してしまったものはその瞬間は面白くても、時間がたてばやがて自縄自縛をもたらしやすい。そこをすぱっと断ち切るのは勇気だが、こち亀はこのスクラップ&ビルドをうまくやってのけた。(だから、超神田寿司編なんかは支持者もけっこういたということだろう)。
つまり、こち亀は、40年間「こち亀」であったのだが、つねに古い血をすて新しい血をいれて入れ替わり続けていた。それこそが40年間週刊連載かつ無休載の秘訣だと思う。
こういう話で思い出すのが福岡伸一の言及で有名になった「動的平衡」だ。われわれ生命は、実は分子単位では常に入れ替わり続けている。入れ替わり続けることで全体としての体(てい)を健全に保っている。変わらないために変わっていく。
「こち亀」は見事に動的平衡を成し遂げていたのである。