読書の記録

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通勤の社会史 毎日5億人が通勤する理由

2016年10月28日 | 都市・交通
通勤の社会史 毎日5億人が通勤する理由
 
著:イアン・ゲートリー 訳:黒川由美
太田出版

 近代交通が整備されてからの「通勤」というものの歴史をひもといた、きわめてユニークな論考である。原題は「RUSH HOUR: HOW 500 MILLION COMMUTERS SURVIVE THE DAIRY JOURNEY TO WORK」。SURVIVEというのが面白い。
 
 本書は世界中(おもに欧米亜)の通勤事情を調べまくっている。そのカバー範囲は脱帽する範囲だ。もちろん日本の通勤にも及んでいる。世界に比して、日本の通勤事情に特有な現象が「痴漢」である、という指摘はゲンナリするが、ご丁寧に明治時代の文学者「田山花袋」の小説「少女病」までも引き合いに出し、70年代のポルノ映画「痴漢電車」をとりあげ、イメクラまで調べ上げて日本人成人男性の女子学生への嗜好性を論じている。とほほ。
 
 本書によれば、通勤史を語るにおいてはイギリスから始めるのがよいらしい。なるほど、産業革命はロンドンに始まり、鉄道はロンドンで開始された。
 それまで、都市労働者の住居は職場の近くであった。職住近接というやつだ。日本でもそうで、徳永直のプロレタリア小説「太陽のない街」でも工場のすぐ近くに労働者の劣悪な環境下における住宅事情が描写されている。
 しかし、鉄道が敷かれたことにより、職場と住宅の距離を離すことができるようになった。これが近代における「通勤」のはじまりである。まずは鉄道という公共機関、それに付随するバス、そしてそれと比肩する形で成長するのが自家用車による通勤である。本書では、この鉄道による通勤と、自家用車による通勤をおもに扱っている。

 職場から遠方に住宅を持つことから、ここに「郊外」という概念がうまれ、「郊外」という都市空間とライフスタイルが登場する。はじめは裕福な経営層が立派な家をたて、ぜいたくな仕立ての車両をもつ鉄道で通勤をした。やがてそれが中産階級へと降りてきて、下層労働者にまで至っていく。
 
 ヨーロッパでは、鉄道があってそのあとをおいかけるように自家用自動車の通勤が普及してきたわけだが、アメリカの場合はいきなり自動車にいったようだ。自動車産業が国家事業でもあったようで、現在においてもアメリカはこと人間の移動に関しては自家用車の国であり、鉄道はサブ交通機関に甘んじている。
 
 国民所得の低いアジア諸国ではまず自転車、そしてバイクが通勤の足になっていく。
 
 
 かくして成立して現在に至る通勤体系であるが、「通勤」とは必要悪なのか、それとも一種の創造的行為とも言えるのかというアジェンダ設定を本書は試みる。通勤が楽しいわけないじゃん、と普通なら思う。日本には「通勤地獄」という言葉もある。
 本書は、そこに抵抗を試みる。やや苦しい点がないわけでもないが、住宅と職場を切り分けた第三の場所としての通勤の効用をいろいろなデータなども引っ張り出しながら説いている。著者は日本の通勤電車で毎日ラッシュを経験するということをやっていないので、だからこそ吐ける論のような気もするが、興味深いのは自家用車通勤におけるストレスだ。
 
 日本では、通勤ラッシュというととにかく鉄道を想像させるが、アメリカや、アジアでもバンコクなんかの自動車ラッシュは有名だ。日本ではあまりとりあげられないが、自動車通勤で毎日ラッシュに巻き込まれるのも、運転手にとってはそうとうにストレスなようで、暴発的な事件がたびたび起こっているらしい(本書では、自動車通勤における日本人のマナーのよさを褒めている)。ハンドルを握ると人間が変わるのは万国共通なようで、狂暴化するあまり、傷害沙汰、場合によっては殺人事件にまで発展してしまうこともある逆上するドライバーの現象のことを「ロード・レージ」と呼ぶそうだ。要するに「キレる」というやつである。
 
 本書の結論として、最も幸福感の高い通勤は「自転車通勤」ということだそうである。職場と自宅の距離がそれくらいであれば妙案ではあろう。日本の場合は難しいかもしれない。(僕の勤めている会社は、万が一事故を起こした際の労災認定がしにくいとかで自転車通勤は不可である)。
 
 
 本書はほかにも通勤をしないで勤める方法としての在宅勤務やテレワーキングの現状、自動車通勤の未来像「自動運転車」をめぐっての各社の取り組み、GoogleやYahoo社員における最新通勤事情などさまざまなトピックを扱っていていろいろ面白いのだが、本書の指摘のなかでももっとも興味深いのは、「マルケッティの定数」である。これ、僕は本書で初めて知ったのだが、都市論のなかではわりとポピュラーなものらしい。
 「マルケッティの定数」というのは、イタリアの理論物理学やチェーザレ・マルケッティが90年代に提唱した理論で、「有史以来、人類は移動時間1時間以内で通勤する」というものだそうだ。それは人種、民族、風習を問わずということだそうだ。つまり、かつては徒歩での移動であり、やがて乗馬や馬車となり、鉄道や自動車が開発され、技術開発でスピードアップ化されていくと、それにしたがい、職場と自宅の距離も離れることが可能になるが、その移動時間は基本的に1時間以内というものなのだそうだ。様々な文献を調査したり実地検査に及んだ結果の結論らしい。
 日本の通勤者の中では1時間以上かけて通勤する者も多くいるし、奈良時代の平城京では下級役人は片道2時間くらいかけて歩いて通勤していたような記録もあったように思うが、持続可能性や本人の健康なども含めると1時間がぎりぎりなのだろうなというのは皮膚感覚としてはわかる。
 
 
 こうして今日も1時間の時間をかけて通勤をする我々である。
 毎朝通勤しながらこの「通勤の社会史」を読む、というのはなかなか倒錯的な感じがしてマゾ的な快感さえあったのだが、本書に、これからはAI化や第三国へのアウトソーシングにともなって仕事を失いやすくなりやすくなるから、たとえ在宅勤務が推奨されたとしても「会社に必要と思ってもらうためにちゃんと上司に顔を合わせるために通勤はしなくてはならない」と指摘してあってさもありなんと思ったものだった。
 

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