宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

五井先生と呼んで下さい(6)

2023-02-23 23:29:21 | 祈り
          (前日からの続き)      
神様の御心というものは深くて暖かくって
本当はやわらかい。
北風と太陽の話じゃないけど、北風が
吹いたって旅人の衣はずっと寒いから
脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな風が
吹いてもしがみついたでしょう。
だけど、太陽の場合はポカポカ照ったから、
サーッと脱いじゃったね。
あれと一緒なんです。
どんなものもゆるしてね、どんなものも
溶かす。
それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。
そういうふるさとをあなた方はもってるわけ、
自分の中にね。
それを日常の慌しい中ではね、ここに
ふるさとがあると思えたってなかなか
思えないから、だから、祈るわけでしょ。
で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除を
してもらって、そうして、そのひびきに
のって統一してもらってねえ、もらって
というのは、私があなた方に
してもらうんですよ。
あなた方が五井先生にしてもらうんじゃないのよ。
一緒に祈って、祈りの階段をのぼって
もらって、お互いに神様の大生命の中に
入ってゆくんです。
そのお手伝いを私がしているんです。
だから、安心してどうぞ私のところへ
いろいろもってきて下すって結構ですから。
        (つづく)


五井先生と呼んで下さい(5)

2023-02-22 08:49:13 | 祈り
       (前日からの続き)
さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念が
どんどん出るけど大丈夫だろうかと。
大丈夫です。
自分の中の雑念というものはそんなに
気にする必要はありません。
出させとけばいいんです。
そういうものもこっち側はもうよく知って
ますしね。
前も話したかわからないけれども、法然さん
という偉いお坊さんが、ある信者さんに聞かれた
でしょう。
南無阿弥陀仏と言うんだけれども、
南無阿弥陀仏と言えば言うほど雑念が出てきて
困ると。
法然さんが偉い人でねえ。
あんたもそうか、わしもだという話があったよね。
あれと一緒なんですよ。統一会に来てね、
眠ってもいいいんです。本心のところで
霊体は聞いていますからね。肉体は
疲れるから眠っちゃってもいいんですよ。
そこをねびしっとして、絶対にお話だから
お祈りだから、まっすぐに背筋を伸ばしてと、
そんなもんじゃないんです。
もっと生命というものはほがらかでね、本当は
障りのないもんでしょ。
ひろやかなもんですよ。
だから、そこを目指して我々は祈って
いくんですからねえ。
窮屈になるために祈るわけじゃないでしょ。
もっともっと自分のたがをはずす。
それを目指して祈るんです。
何々をするために祈るとかね、そういうふうに
してしまうとね、そのためにが主人に
なっちゃってね、目指してるものがねえ、
めざしが嫌いでいわしがいいとかね。
生がいいとかいう人もあるかもしれないけれど、
そんなんじゃないんですよ。
             (つづく)




五井先生と呼んで下さい(4)

2023-02-21 10:45:46 | 祈り
     (前日からの続き)
まあ、バカ話みたいにしゃべって
ますけど、やっぱりねえ、生命の流れをね
滞らせないようにしておかないとね。
これはしんどいですよ。
辛いんです。
本当にね。
今しんどいという大阪弁を使ったけれどね、
あれは心労なんですね。
あれは心疲れるんです。
心労ですね。
だから、しんどいという言葉はね、
あれは実際、心の憂さという言葉が
あるけれども、本当に心が疲れて疲れて
大変だという言葉ですがね。
ですけど、ずっと申してますように、本心
というものは、心が疲れているように
見えても、本当に疲れをしらない。
疲れを知らないどころか、神様の側から光
というものを受けとってね、そして、
あなた方の中のそういう想いとか悩みとか
いうものを軽く軽くして、光の方へ
引っ張ろうとしている。
そういうものが同時にあなた方の奥に
深くにあるのですからね。
だから、心だけを感情だけを自分だと
思ってしまうと、勘定は払わなければ
いけないですね。
勘定払って借金払ってね、そうして、
本心の方へ降りて行ってね、ハシゴを
使わないと降りてゆけないという人も
あるかもしれないけれども、だから
祈りのエレベーターの世界人類が平和で
ありますようにというのをつくったんだから。
せっかくエレベーターがあるんですから、
ハシゴで一段一段降りなくともね、
エレベーターを使って降りてくれれば
いいわけです。
それで、エレベーターでサーッとね神様の
ところへ行く。
        (つづく)


五井先生と呼んで下さい(3)

2023-02-20 09:46:44 | 祈り
      (前日からの続き)
人に対する時というのはね、私の経験に
よればと、それを出しちゃうと相手が
悲しむね。
六十七十八十生きて来た人がね、私は
こう生きて来たと言いたくなるのもよく
分かるけれども、悩んで苦しんで切羽
詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。
その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、
とにかくただ単純に慰めて欲しい。
そこから悲しみをとって欲しい。
軽くして欲しいんです、まず。
医者のね、頭痛がするから頓服下さいと
いうのと同じなんです。
頓服あげといてね、熱下げて頭痛とって、
頭痛とった後にね、何で頭痛くなったか
というの一緒に考えましょうよという
ゆとりを、そこから導き出すんですよ。
頭痛とらないでね、説教したって
しょうがないの。
だから、ある人は頭痛で来るかも
わからない、ある人はおなかが痛い
といってとんで来るかもわからない。
先生、姑が!という人も沢山いたしね。
嫁さんとうまくいきませんという人も
いたしね。
どっちにもいい顔しなさいというの。
それじゃあどっちもいい加減にしなさいと
いうんじゃないですよ。
そうじゃなくって、どっちもに対して
いたわりがないと、人間関係なんて
いうものは本当にうまくやってゆけない
ということですよね。

だから、そこで気をつけなきゃいけない
のが、自己愛というものですね。
自分を可愛がりすぎるあまりに、相手が見えない
ということになっちゃうとこれは
あぶないんです。
自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、
その辛い辛い辛いが相手を変に傷つけたりね。
あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが
あるんですよ。
自分が一番辛いと想うからね。
だけども、自分も辛いけれども本当は相手も辛い。

ところが、人間というのは不便というか
何というかね、そんな吸いとり紙みたいな
人は、いないでしょ。
とってもじゃないけどありませんよ。
だから私が出来たという訳じゃなくって、
私はもうずっと十字架にかかったような
もんですからね、前も言ったように。
神様に自分の生命というものを差し上げちゃって、
投げ出しちゃって、それで、どうなとして
下さいといったら、まあやくざみたい
だけれどもねえ、そこで自分の生命の本体
というものを見たから。
もう私安心しちゃいましたからね。
安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけません
でしょ。
そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、
そうやって皆さんと話をしたり、今
こっちから見たり聞いたり、祈りが届いたり
するのを見ていると、あるいは感じてるとね、
本当に何とかして下さい、どうにかして下さい、
本当に辛い祈りが多い。

だけども、その辛さをね、とかして、
そうして本当は、あなたの中に光が
あるんですよということを、こっちはね、
皆さんの守護霊さん守護神さんと一緒に
なって出してゆく訳ですからね、その流れを。
その役目を未来永劫五井先生は引き受けた
訳だから、だから、皆さんは安心してね、
五井先生と呼んで下すっていいんですよ。
五井先生にこんなつまんないことを
聞かせるなんて、とてもじゃないけど私の
気持ちがゆるさないとかね。
どっかでかっこうつけたりとか、ありますね。
恥ずかしがったりとかね。
だけども、そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。
そういう遠慮はいらないんです。
どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。
行ってどういう手当てが出来るか分からない
けれども、しかし、最善の手当てをするわけよ。
どういう手当てが出来るか分からない
というのは、皆さんの心に思ってるような
手当てが果たしてこっちが出来るかどうか、
その時期かどうか、よくは分かんないけれども、
しかし、神様の愛というものを携えてこっちが
行くということは確かなんです。
そうして、皆さんの悩みも苦しみも
抱きとって浄めてるということも確かなんです。
だから、いつかその悩みとか苦しみとか
辛さというものは消えてゆくんだ、五井先生に
任せてれば消えてゆくんだ、五井先生を
通して神様の愛というものが通ってきて、
その大愛によって我々の諸々のものという
のは消えてゆくんだということね。
そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは
本当に守り易いんですよね。
やりやすいんです。
          (つづく)




五井先生と呼んで下さい(2)

2023-02-19 22:51:27 | 祈り
    (前日からの続き)
会館でやってた最初の頃に、皆熱心
でしたよ。
皆くい入るように話を聞いてくれてね、
最初の白光の人たちは。
今の人たちが駄目だというんじゃないですよ。
本当にくい入るように聞いてくれたけれども、
あんまり深い話をし過ぎるとくたびれ
ちゃってね、みんな。
とっても私は出来ないわとかね、思っちゃう
から。
だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、
ある時は八百屋になったり、それから、
本当に落語家じゃないかというくらい軽口
とばして、そうして、ふーっと気がついたら
神様のことを考えていたというふうに
もっていく。
これ方便なんですね。

で、その時々によっていろんな話し方をする。
さっきの私と今の私と違うのかといったら、
違わないんですよ。
全然違わない。
だけども、とにかく機をみてね、人をみてね。
人をみて法を説けというでしょ。
あれと一緒なんですよ。
その時々その場相手によってさっきのような
しゃっちょこばったああいう講演口調の、
ねばならぬ存じます式が通じる時もあるんです。
そうじゃなくて、こりゃあもうそんなこと
言ったら逃げ出しちゃうなあという場合は、
こういう口調もあるんですよね。
どれも五井昌久。
どれも神様。
神様といったって、私が神様じゃないですよ。
そうじゃなくって、神様がいろんな働きを
こうやってなさるということの証しをここで
やっているようなもんだね。
そうじゃなきゃ、こんな講演会なんか
やりませんよ。
そんな無駄なことを神様はやらないと
思いませんか。
本当にそうですよ。
やっぱり誰かに聞いて欲しいという
気持ちが皆あるでしょ、皆苦しいから。
聞いて欲しいといっても、吸いとり紙の
ようにね、自分というものをさしはさま
ないで、深くうなずきながらね、ああそれは
大変ですねえって聞くというのはこれは
大変なことよ。
実際に。
絶対に自分が出るもの。
そんなことはあなた言うけれども、私の
経験によればということになるよね。
なるけれども、そこは本当に難しい。
          (つづく)