宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

短 信(三十四)

2011-02-28 09:00:56 | 祈り
 真理というものは、一つであります。
その真理とは、私達を生かして下さって
いるのは、神の愛であって、この神の愛は、
永遠であり、無限でありということで
あります。
 私達は、この真理を身にも心にも
沁み込ませるために、日々祈りをし、愛を
求め、やさしさを追ってゆくのであります。
 ですから、真理を求める心とは、愛を求め、
やさしさを求める心にほかなりません。
 この愛とやさしさには、同時につよさが
加わっております。それは、神様から、また、
守護の神霊から加えられるのであります。
 どういうつよさかと申しますと、この世の
現実を、一たん受け留め、見据えるつよさ
であり、我人のこころのなかにあるもの、
奥にあるものをみつめて、愛でつつむつよさ
であります。
 私達の心は、この愛とやさしさとを、求め、
追わずにはいられないのです。なぜなら、
私達は、神の無限の愛、やさしさという
真理の樹に連なる枝であるからであります。
愛とやさしさによって、私達のいのちは
やしなわれているからであります。愛と
やさしさこそ、私達の光のいのちの源
だからであります。
 宗教というもの、信仰というものは、
この無限の愛とやさしさとを、神にたずね、
また己れの裡にたずねつづける旅だと
申し上げてもよいでしょう。
 人は、この旅路の間に、幾度か肉体を脱ぎ、
霊人となり、幾多の天地を住み家とし、
やがてそこをもはなれて、真実の
自由自在心を得てゆくのであります。
 祈りは、この旅路を照らすともしびで
あります。
 この世で、いかに辛く苦しいことが
ありましても、神様は、しっかりと、
あなたを抱きとめて、このともしびをかかげ、
迷うことのないように、真理への道筋を
踏みかため、一足一足の歩みをみちびいて
下さっているのであります。
 私達は、神の大愛に守られて歩いてゆく
のであります。永遠のいのちの道を歩いて
ゆくのであります。
 どうかこのことを覚えて、世界平和の祈りに
精進なさって下さいますように。           
                   合 掌
                     昌 久

短 信(三十三)

2011-02-27 11:03:45 | 祈り
 光はどこまでを浄めるかということに
ついては、以前にも申し上げたことが
ありますが、その範囲は無制限であります。
 宇宙は、尽きることのない神の愛と
調和の気に満たされております。
 その神様の愛と調和(光)は、どこまで
にもおよんで、闇(業想念)を消し去る
のであります。
 さらに申しますなら、光は、どこにも、
みちていると同時に、私達のこのいのちの
源であることも忘れてはならないこと
であります。
 神はわが裡にあり、我は光なりなので
あります。
 これは何も、己れを高ぶらせる
おもいからの言葉ではありませんで、
いつも申しておりますように、私どもは
神のいのちからわかれてきた分生命(わけ
いのち)、分霊(わけみたま)なので
ありますから、光こそわがふるさとで
ありまして、肉体は、この光を受ける器
なのです。
 光を遮(さえぎ)ることは出来ません。
 そうして、みちみちている光を、分ける
ことも、全く不自然なことであります。
 私達が素直に神に祈りをささげ、日常を
送って参りますなら、私どもは、神の
朗らかないのちを受けた光として、
どこまでも、まわりを和らげ、浄めてゆく
のであります。否、神が浄めて下さるので
あります。
 世界人類が平和でありますように
                合 掌
                  昌 久

短 信(三十二)

2011-02-26 08:52:43 | 祈り
 自分を役立たせたい、お役に立ちたいという気持ちは、実に尊いもので

あります。ありがたいことでありますが、あまりに、この気持ちに熱を

おびさせますと、やはり我(が)の世界へと引き入れられるのであります。

 私達は、余程ここのところをしっかりと見極めねばなりません。

 私達が、お役に立ちたいとおもう時、それは具体的には、私達の知って

いる誰かに対して……ということが多いのであります。たとえば、友達が

病気で苦しんでいる、どこかいい先生はいないかと言う時に、一生懸命

世話をする、また、自分の知っているお医者さんに連れてゆく、それで

ようやく治ってみると、自分が思った程には友達が感謝してくれない。

 こういうことはよくある話であります。

 これはなぜこうなるのかと申しますと、苦しんでいる友達をみて

一生懸命に動いたその時には、お役に立ちたいという気持ちが、純粋に

働いていたわけであります。むしろ、この気持ちによって、心がもえた

ということがいえるかも知れません。

 お役に立ちたいという心、愛念が、その人を突き動かしたわけで

あります。この時には、ただもう友達の苦しみが取れればという気持ち

だけでありまして、そのほかには何ものぞんでいないのです。

 それで、色々動いて、その結果、元気になってきますと、本当に

よかったと思う。ところが、すっかり元気になって、その友達にお礼は

いったのでしょうが、そのお礼の言い方が、動いた方としては、何か

あっさりしていて、物足りない。そして、物足りなさを感じている

うちに、今度は、自分があれだけ動いてやったのに、友達はわかって

いるのかしらという気持ちになってくる。

 こうなると、もう「お役に立ちたい」はどこかへ行ってしまっている。

 お役に立ちたいという気持ちは、汚されない、純なものであります。

 この人も、そのはじめには、純な気持ちから出発したのであります。

 それがおかしくなったのは、自分が目の前の友達のために一生懸命

動いたという気持ちにとらわれたからなのであります。

 人間というものは、神様の光なのだ、光の一筋なのだということは、

つねづね申し上げていることでありますが、お役に立ちたいという

気持ちをじっとみていますと、それはただ、光が光にむかって働き

かけているということなのであります。つまり、私達は、具体的には、

自分の知っている誰かを通して、光として動く、光明を発揮している

ということになるのであります。

 ですから、お役に立ちたいというのは、本来、誰かのために動くとか

何とかというようなものではないのでありまして、それでいいますなら、

神様のために、このいのちを、幾分かでも働かせていただいたという

ことなのであります。

 要は、あまり、お役に立ちたいと思いつめず、ふんわりと、神様に

その気持ちを伝えていらっしゃれば、一番いい方法で、神様が、あなたを

使って下さるということなのであります。

 のんびりと、ふんわりと参りましょう。

 世界人類が平和でありますように
                       合 掌
                         昌 久

短 信(三十一)

2011-02-25 10:05:02 | 祈り
 何も心配なさることはありません。なく
だけおなきなさい。人間の心の自然な動きを
殺してはいけません。
 いのちに素直になるということは、自分に
素直になる自分の気持ち、心に素直になる
ということであります。
 耐えるということと、自分を殺すという
こととは、全く別の世界なのであります。
 さながらにいのちを生かすということが
もっとも大事なことで、そのためにも、まず、
自分の心の声に耳をかたむける、自分の心に
素直になるということが大事なことなので
あります。
 五井先生にも淋しい時がうんとあった。
 けれども、どんな時にも、神様と二人だと
実感してここまで歩いてきたのです。
 神様も、五井先生も、守護霊さんも、
守護神さんも、あなたの側にいます。ですから、
安心なさって、ありのままの素直なあなたを、
神様の前に投げ出して下さい。
 涙がかれれば、あとは、心は明るくなって
ゆきます。
 元気を出して、ご一緒に祈って参りましょう。
                合 掌
                  昌 久

短 信(三十)

2011-02-24 10:08:18 | 祈り
 祈りの生活のなかでどういうことに気をつければよいかという、

御手紙の御趣旨かとおもいます。

 祈りというものは、私達を自由にするものであります。本来、肉体

ではなく、光そのものである人間の自由自在身であることをしらせて

くれるもの、それが祈りであります。つまりは、すべてのとらわれから

離れ、また放たれるのであります。

 祈っている私達は、実は祈らせていただいているのであります。

 神様が、守護霊守護神が、私達が眠っている間にも、一瞬もやすむ

ことなく守りつづけて下さっているように、私どもの本心本体は、

ずっとずっと祈っている。祈らずにはいられない。祈りを生命として

いるもの、それが、人間であります。私ども一人一人なのであります。

 ところで、先程申しましたように、祈りは、私どもを自在身にいたら

せるすこやかな光そのものでありますので、祈って参りますうちに、

祈っていることをも意識しない、朗らかな自分自身に出合うことになる

のであります。
 
 朝の九時と午後の三時、それに夜の九時がお祈りの時間だからと申し

ましても、日常のなかで、どうしても出かけなければならないとか、人が

たずねてきて、統一のテープがかけられなかったとか、さまざまなことが

起きるのが当然でありまして、そうした時に、祈りの時間が守れなかった

と思ってイライラしたり、クヨクヨしたりするのは間違いなのであります。

 実際、あなたが祈れない時には、守護霊守護神が祈っているので

ありますし、守護霊守護神が辛い時には、これまで申して参りました

ように、私が祈っているのであります。

 現実生活というものを、馬鹿にしてはなりません。大切なその場に

その人がいなければみんなが困るという場を放たらかしにして、

統一会にかけつけるなどは、本末転倒であります。

 こういうかたよった、人の立場、また自分の立場をかえりみない

やり方で、祈りに没入し、宗教に没入することは、断じて間違っている

のであります。人を犠牲にした上での祈りは、光を放つ筈がありません。

 祈りは、神のみこころであります。人間を愛し、人類の進化と、宇宙の

大調和とを実現させるという深い神のみこころが、世界平和の祈りの

なかにはこめられております。否、このみこころそのものなのであります。

 どうぞ、寛やかな、ゆたかな心で、祈りをなさって下さいますように、

神の愛、神のこころは、森羅万象のなかにみちみちているのであります。

 素直に、のびやかに広く広く、いのちを生きて下さいますように。

                         合 掌
                           昌 久