宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

五井先生と呼んで下さい(7)

2023-02-24 10:04:29 | 祈り
    (前日からの続き)
やっぱり人間というものは、そんな窮屈な
ことを目指すんじゃない。
祈りというものは窮屈なことを目指すんじゃ
ない。
こうしなければならぬというものじゃない
からね。
人間の中の想いの枠をはずしてゆく。
世界を広げてゆく、光の世界の住人に
なってゆくということは、自分を素直に
朗らかにひろやかに深くね、広々とさせる
ことですよ。

しかし、人間にはそれぞれの立場という
ものがあってね、立場によって出てくる
言葉ってあるんですよ。
私は前に妙好人ということを言いましたよね。
白光に寄ってくる人は特別な人は来なくて
いいと言いましたよ。
妙好人みたいな人が集まりゃいいって。
それは何も妙好人を理想にした訳じゃない。
けれども、神仏へのあるいは大生命への
ものすごく素直な祈りがあり希求がある。
そういう人をやはり理想にしたい。
他の、社会的な地位だとか立場だとか、
そういうものは一切いらない。
そういうものはむしろ宗教にとっては
本当に雑なものになるんです。
やっぱり、すっきりと生き通しの生命に
なってゆくためには、自分の中のそういう
雑物をのけてゆく、そのために祈りが
あるわけですから。

ですけれどもね、さっき言いかけました
ように立場があってねえ。
例えば、高橋君なんかは、この人
善人ですかって問いかけてくればねえ、
ああそうだよと答えなきゃしょうがないし。
で、善人だけがいいわけでもないんです。
善人ということはいいことだけども、
ある時にはいいけども、ある時には
大変だろうなあという時があります。
例えば、バカ正直という言葉がありましょ。
正直ということはいいけれども、
何でもかんでも言ってしまうということが、
その人の人生にとっても他の人の人生に
とっても良いことか悪いことかといったら、
何でもかんでもつつみ隠さず自分の気持ちを
相手にさらっと言っちゃうのはね、これは
自分はある時すっきりするかもしれない
けれども、それによって相手が傷つくという
こともある。
だから、その立場立場によってね、
ある時ある人が善人に見えることもある。
ある時ある人がずるく見える時もある。
それは、その人がその人の生きてきた
環境とかいろんなものによって、その人の
一面を、ああずるいなあとかああいい人
だなあとか感じる。
その感応によってこっちに聞いてくるから、
それをまず一たん認めてやらないと
いけない訳ですよ。
善人なら善人、ずるい人ならずるい人、
だけど放っとくとね、とてもじゃないけど
すっきりいい生命にはなっていかない。
        (つづく)