宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

人は祈らずには いられない

2014-11-30 08:23:45 | 祈り
からだじゅうで
祈っている
これが
人間の
本来の姿なのです

どんな時にも
祈っている
私は
その
すがたを知っています
なぜなら
祈りこそ
人間のいのちだから

空や海や
大自然への
あこがれを
私達は心に描き
口にします

画家は
キャンバスにむかって
自然のすがた

写しとり
音楽家は
彼にひびいてきた
大自然の
交響曲を
楽譜にする
みな
彼らの
心耳
心眼に
ひびいて
きたもの
うつし出されたものを
かきとっているのです

それは
我知らず
深い祈り心となった
彼らの
自由な眼が
こころが
神のひびきを
感じとったのです

彼らが
絵筆を走らせ
楽譜に向かう時
彼らは
祈っているのです
永遠者に向かって
語りかけているのです

彼らばかりではありません
我々が
日常のなかで
ひたすらに何かに打ち込む時
無になっている瞬間
我々自身も
深く祈っているのです

祈りは
神への道
真理へ到る道
真実の自由な自分自身との
出会い
そのものです

人は
祈らずにはいられないのです
丁度
息をしないでは
生きていられないように
祈らずには
この霊のからだが
うえかわくのです
自分でも
気付かないうちに
祈りを
ささげている
それが人間です

神様の
大愛を
よろこび
人を愛することを
よろこぶ
そのために
絶え間なく
祈っているのです

宇宙神からの
光を受けて
この肉体を
光のおもいで
いっぱいにし
世界人類が平和でありますように
と祈る時
あなたは
光となって
世界人類のなかに
とけ込み
愛を
植えて
ゆくのです

祈りを天に
到らせて
朗らかな
光となって
いきましょう
      昭和62年3月8日

涙をこらえないでおきなさい

2014-11-29 07:57:08 | 祈り
ありのままの
自分を
神にぶつけて
預ければ
いいのです
それが
祈りになって
ゆくのです

かなしいのに
涙を
こらえる必要はない
そのままで
いいのです
声が出なければ
出ないでいい
全部
私が
引き受けて
あげるから
そのままで
いて下さい

守護霊や
守護神の
あなたの
心に
対する
労わりを
私は伝えましょう
あなたを
愛深く
みまもっている
神様の
まなざしの
深さと
やさしさを
私は
伝えましょう

涙を
こらえないで
おきなさい
涙のなかに
あなたの
清い心があることを
私は
知っています
ないて
ないて
なき切ってしまったら
そこから
また
あなたの
やさしさが
顔を出すでしょう

人間の心の
さまざまな
すがたを
神様は
いじらしく
愛しく
みつめて
いらっしゃるのです

さあ
思う存分
おなきなさい
私も
守護の神霊も
あなたの側を離れずに
いますから
      昭和62年3月8日

一人一人をおもっては光を送る それだけ

2014-11-28 07:57:05 | 祈り
祈りというものは
どんな時でも
人の心を
きよめるんです
きよめずにはおかない
神様の
光を
あびるんですからね

けれども
とにかく
これだけ
光を送っているんだから
元気にならなきゃ
駄目だ
なんていうことは
いわない
守護霊も
守護神も
神様も
じっとみてるんです
想いを
浄め
業を
払いながら
見守っている
やさしい眼をしてるんですよ

その時にね
我々は
何で
救われてゆくかと
いうと
こうした
限りない
思いやり
愛念でもって
救われてゆくんですよね

それで
世界人類が平和でありますように
って祈ると
何かこう
一人じゃない
という気持ちになるんです
あたたかい
あたたかい
愛に
くるまれている
心持ちが
する
それは
そうなんですよ
そのとおりなんです
みてるんですものね

今まで
淋しくて淋しくて
仕方がなかったのに
世界人類が平和でありますように
とやっているうちに
その淋しさが
消えてしまう
それは
守護霊
守護神のね
神様の
愛念に
奥のからだ
本心が
気付いて
すっぽり
そのなかに
入ったからです

何がすべてを
浄めるか
とかすかって
いえば
それは
愛なんですよ

愛以外の何物でもない
祈りは光っていいますよね
その光は何かというと愛なんです
祈りは愛なんです
ですから
世界平和の祈りを
唱えるってことは
愛の本尊を唱えるってことですからね
きよまってゆかなきゃおかしい
すべてをきよめてゆくんです

じゃ
愛ってのは
何だ、どういうもんだと
いうとですね
もう何にも
おもわないんですよ
空っぽなんです
自分というものがない
自分というものを
忘れている
自分というものはどっか行っちゃってね
ただ明るい
ただ朗らかな
ただ無邪気な
そういう世界なんです

自分というものがないから
人のことで心がいっぱいになる
けれど
業想念に支配されていないから
とにかく
一人一人を
おもっては
光を送る
それだけです

私だってそうなんですよ
五井先生
五井先生
何とかして下さいって
みんな来るけどね
私はとにかく
柏手を打って
光をおくって
元の元をきよめるんですよ
その人の
本心の光と
神様の愛の光を
ぱっと結んでね
迷子にならないようにするんです
その愛がふりそそがれてるのが
世界平和の祈りなんです

自分を忘れちゃって
ただ人のことで
心がいっぱいになって
それでただ光を
送る
これは
神様の愛ですよ
ね、そうでしょう、
それを
本当だ本当だと
私達が
おもえるのは
私達が
神様から
分かれてきた
いのち
だから
分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)
だからです

世界平和の祈りってのは
そういう愛をね
一人一人の
心のなかに
よびおこして
そのおもい
愛ですよね
それを
となりの誰とかさん
だけじゃなく
となりの誰とかさんを
含んだ
世界人類にまで
うんと
拡げてですね
この地球の
浄化をして
それから
宇宙の限りない
進化の行進の
なかに
加わってゆこう
という
大きな
大きな
祈りなんですよ

自分のおもいに
とらわれてる時じゃ
もうないんです
からを脱いで
どんどん
光のシャワーをあびて
自分を新しくして
寛やかになって
いのちを
生きてゆくことが
これからは
大事なんです

あなた方は
みんな
愛を植えてゆく
人なんだ
その愛というのは
無私も
無我も超えた
宇宙神のみこころ
神様のみこころ
おおらかなみこころ
なんです

我々は
いいことにも
悪いことにも
とらわれないで
この神様のみこころを
みこころとして
やさしく生きてゆく
そういう存在なんです
そのために
世界平和の祈り言を下さったんです

明るく
明るく
すべての人を愛しんで
己れ自身をいとおしんで
世界平和の祈りを唱え
毎日
明るく生きて参りましょう
         昭和62年3月8日 朝

任せ切ったいのちは 自由自在

2014-11-27 07:56:21 | 祈り
お任せの心から
すべてが
生まれてくるのです

人間というものは
考えてみれば
生まれた時から
お任せの状態で
生まれてくるわけですよね
この肉体にしたって
何一つ
自分でつくって
出てきたわけじゃないわけです

そりゃあ
食べて
飲んで
眠って
自分のいのちを
養いはしますよ
けれど
いのちもね
これも
あたえられたもの
こう考えると
不思議不思議
不思議となって
神様にゆきつくわけですよ
神様がいて
神様がいのちの親じゃなかったら
おかしいということになるんです

人間は本来神様に
任せ切ったいのちなんですよ
任せ切ったいのちというのは
自由自在ということです
いのちを任せるということは
自由になるということです
朗らかに
呑気になると
いうことですよ
わかりますか?

みんな
神様の子ども
みんな
自由な
いのちなんです
光なんです
そうして
その
光は
ゆだね切った
任せ切ったところから
かがやき出すのです

本当に神様に
任せる
ということは
神様を知るということ
神様が
我々人間を
まるごと
愛して下さって
いるように
我々も
神様を
愛して
信頼して
生きてゆくと
すっかり
安心出来るんです

いくら信頼しても
絶対
裏切られると
いうことが
ないのが
神様の愛
私達が
任せ切れば
任せ切る程
その愛の深さが
どれほどのものか
わかってくるんです
素直になればなる程
みえてくる

素直になって
神のいのちを
よろこぶ
まはだかに
なって
自分自身と
対面が
できるようになるんです

ちっぽけな
肉体我と
いうものが消えて
真実のすがた
真実の
自分自身と
いうものが
あらわれてくる
その時
本当に
人間は
自由になるんです

神様の愛に
ふところに
抱かれている
自分というものを
芯から
感じることができる
それは
任せ切った瞬間に
新しいいのち
自分自身を
生き生きと
させる
いのちを
神様から
いただいて
そうして
そこで
生まれかわるからなんです

任せるということは
ですから
新生なんです
決して
任せて
それでおわりじゃない
任せたところから
新しく
始まるわけですよね
永遠のいのちの
ながれの中にいる
自分を見出して
よみがえるんです
そこへ
持ってゆくのが
祈りです
祈りから
すべてがはじまる
祈りはすべてを
よみがえらせるんです

無心に
祈る時
我々のいのちが
かがやいてゆく
それは
ふるさとへ
霊といいますかしら
本当の自分がね
肉体のまんま
帰ってゆけるから
なんです

世界人類が平和でありますように
と祈る時
その人にわたくしはない
我というものはない
消えている
そうして
たゆみなく祈ってゆくうちに
無の階段 空の階段をのぼって
任せる心になってゆくんです
呑気になってゆくんです
無邪気に
無邪気に
おおらかな
大我そのものの
自分を
楽しむように
なってゆくんです
       昭和62年3月7日 夜

祈りをかさねてゆくと 自分にも人にもやさしい心持ちが生まれてくる

2014-11-26 07:21:06 | 祈り
祈るというのは
どういうことかというと
やさしさでいっぱいにする
ということです
どこまでもどこまでも
やさしくなる
やさしくならなければ
それは
おかしいですよ

祈りってのは
神様に対する
感謝ですからね
ありがとうございます
神様ありがとうございます
といって
神様にすなおに
よびかける心ですよ
そうやって
毎日
新しいいのちを
我々は
いただいて
生きてゆくわけですよね

その神様というのは
とにかく
無限にやさしい
大愛の方なんです
愛とゆるしの方でしょ
その神様と
一つになるために
祈っていて
本当に
やさしくなってかなかったら
人の痛み
人のこころが
本当に抱いてゆけなかったら
それは
おかしいですよ

私は何も
完全になれって
言ってるんじゃないんですよ
祈ってゆくと
祈りをかさねてゆくと
自分に対しても
人に対しても
やさしい心持ちが
生まれてくる
それは自然に
生まれてくるんだと
いってるんです

それが
中々あらわれて
こない人が
いますよね
祈りの時は
一生懸命だけども
祈りがおわったら
統一会がおわったら
何だか元のままの
おこりっぽい人だ
って人がいますよね
そういう人は
どうなってるかというとね
何かこう
祈りというものを
特別なもののように考えてるんです
神聖ニシテ侵スベカラズ
みたいに思っちゃってる
だから
祈りの会だ
というと
もうその前から
やたらつつしんじゃってね
みそぎでもしかねないような感じになって
それで
世界人類が平和でありますように
ってやるもんですから
おわると
くたびれちゃうのね
そいで
努める前の自分に
もどっちゃう
笑い話みたいだけれど
結構こういう人がいるんですよ

勿論、祈りってのは、厳しいもんです
うちの会のお祈りなんか
言葉がやさしいからね
もったいぶっていないから
みんな
これなら出来るって始めるんですけどね
けれど
四六時中
何があっても
ああこれは消えてく姿だ
守護霊様、守護神様
五井先生
ありがとうございます
世界人類が平和でありますように
って祈るというのは
これは、大変なことなんです
絶え間なく感謝なさい
ということですからね
もうずっと永遠の
感謝行ですよ
ところが
大変なんだけれど
その大変が
いつの間にか
やれる
やれるってのは
自分がやるんじゃ
ないからです

世界人類が平和でありますように
って祈ってる内に
自分が消えてしまう
自分が自分がって
おもいが消えてしまう
それは
守護霊さん
守護神さんがたすけて
消してくれるんです

歩くにしても
なんにしても
毎日生活していて
私達は
かならず
何のなにがしって
いう気持ちがありますよね
それが消えるんですよ
個性がなくなるって
いうんじゃなくてですね
自分が自分がっていう
我が消えるんです
それは何故かというと
神様に預けちゃうから

世界平和の祈りというのは
その人が
意識するしないにかかわらず
とにかくお任せのこころにまで
持ってゆく

この世の中に生きていて
みんな何で苦労するかと
いえば
私が私が
俺が俺が
の心で苦労するんですよ
折角
ここまで俺がしてやったのにとか
あれだけ
私がいったのに私のいうことをきかないで
あの人は
とかね
これはみんな
我慾です

財産がありすぎて
アップアップしている人もあれば
貧乏で苦しいおもいをしている人も
ある
その人の
その生きる環境も
立場立場によって
あたえられる苦しみも
さまざまですけれどね

何が一番大変だといって
自分がというおもいを
消す程大変なことはないんです
とても
人間の力だけで
できることじゃない
それが消せるのは
祈りだけなんです

世界平和の祈りを
私はいつも
光へのエレベーターだと
言ってますけど
本当にそうなんです
自分もなく
人もない
ただ神様の光ばかり
愛ばかりが感じられる
世界平和の祈りを
つづけてゆくと
みんなそうなるんですよ

この祈りの中には
肉体を動かしている
そして
人間の心を動かしている
真実の自己
神の分生命(わけいのち)
分霊(わけみたま)としての
人間の本来の相(すがた)が
こめられているんです
ですから
この祈りを唱えると
とっても気持ちがおちつく
っていうのは
それは
自分のふるさとに
帰るから
真実の自分に出会うから
なんですよ

祈りは
神様への直線道路
世界平和の祈りは
人間が
本来
愛とゆるしにみちた
存在であることを
私達に
悩みなく
やさしくなれるか
ということを
知らせてくれる
身をもって教えてくれる
祈りなのです
人間が
どれほど
やさしくなれるか
ということを
知らせてくれる
祈りなのです

どうぞやさしい人になって下さい
自分を労わり
他人を労わる
愛深い人であって下さい
          昭和62年3月7日