(前日からの続き)
例えば、いろいろな問題が・・・。
皆様方の集会や支部や、あるいは、全国を
巡講なさる場合に、いろいろな問題が皆様方の
ところへ山積みのようにくると思います。
その時に、こんな大きな問題は今まで私は
経験したことがない。
そんなことは私の手にあまる。
そういう想いに皆把われると思います。
それは把われて当然でございます。
けれども、事の本質は、本当に大事なつかま
なければならないことは、いろいろな起こって
きている現象というものは二つあって、一つは、
今私が申しました、皆様のそれぞれの想いに
よってつくられていく世界が現象に
なっていく。
前にも申しましたように、天変地異というものは、
皆様の業想念というものが、ある時ある一定の
限度を越えて破れて、そして、また、ある調和を
取り戻そうとする時に、大水になったり、
大地震になったり、この世の中には不幸と
見える事柄でもって大調和へ還ろうと
する時の運動であります。
その元の元の元を正してゆくと、我々自身の
恐怖であるとかいろいろな不安であるとか、
明日の生活への恐れであるとか悲しみ
であるとか、大丈夫だろうかという心
であるとか、そういうものが一人二人の間は
何でもございませんけれども、まだ小さい
ものですけれども、何百人何千人何万人何億
という人のその想いが積み重なった時に、
うっと爆発をしまして、それがどっと
大洪水になり、あるいは、地震になり、大火事
になり、あるいは、今、南極の氷が解けている
とか、そういう現象になっている。
あれは決してフロンガスだけの問題ではありません。
あれは業のそういう積み重なりもございます。
そういう想いの世界からつくられている場合と、
それから、守護の神霊がわざと置くつまずきの石、
修行へのための石という場合と両方ございます。
これは非常に難しいものでございまして、これを
見分けるということは、とても人間わざでは
なかなか出来ません。
その時に何が一番大事になってくるか。
いろいろな問題を皆様がお聞きになる時に、
あるいは、どうしても持ち込まれた時に、
判断をあおられた時に、何を基準にしてそれに
答えてゆくか、浄めてゆくか祈ってゆくか
というか、これは、神様の御心というものを
やはり大基盤においてしていただかない
ことには、やはり道をまちがってしまうことに
なるのであります。
例えて申しますと、私の手にあまるくらいの
苦であっても、神様の側から見れば、この人の
この時点での修行の為に置かれたつまずきの
石、つまずきの石ではあるけれども、さらに
この人の光が輝いて、そうして、この人の
人生が深くなって、ついに天命に全く
とけ入ってしまう。
そういう導きのためのつまずきの石という
ことがございます。
そこで、ただとにかく、それを見分ける。
あるいは、そういう深い智恵の言葉を
出させていただく。
そこへいきますためには、とにかくお任せ
するんだ、私がその時に判断をしてしまうと
非常な苦になります。
例えば、どちらへ行った方がいいでしょうか。
右へ行った方がいいでしょうか、左へ行った
方がいいでしょうか、というような質問。
進学のことにしても就職のことにしても、
あるいは、思うようにならない人生という
ふうなことにしても、いろいろなことが
持ち込まれて、そして、自分の一言で
その人の人生がある程度、方向方針が
決まってしまうというような場合に、自分の
言葉でもってというふうに思ってしまいますと、
責任も重くなりますし、とても引き受けられる
ものではございません。
そうではなくて、そういういろいろなことと
いうのは、現象から来ている場合もあります。
つまり、想いの世界からそれが起こってくる場合も、
つまずきの石の場合も両方ございますけれども、
しかし、いずれにしても、それが神様の御心
によって、いただき直しの生命をさらに深く
いただくためのものであるという信仰の上に
立って、そうして任せきってですね、印をきり、
あるいは、祈っていただき統一をしていただき
柏手を打っていただきますと、おのずから
深いところからの言葉というものが、守護の
神霊によって支えられて、皆様方の唇から
その言葉が出てまいります。
このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうと
これはえらいことなので、そんなことは思う
必要はありません。
つまり、おろおろする自分も、頼りない
と思う自分も、いろいろな自分があって
よろしい訳です。
その一つ一つの自分というものをしりぞける
のではなく、いとおしんで、ああこういう
自分があるんだなあということを見つめて、
そうしてその上で、あなた方なりにあなた方の
立場で、無理をせずに背伸びをせずに、
その信仰を深めていっていただきたい。
ただ、物事の本質と申しますか、神様の本心
といいますか、本体と申しますか、そういう
一番はずしてはならない御心の深いところ
というのは、先程から申しておりますような
ところにございます。
ですから、ここのところだけは、データを
まちがえて頭のすみにおいてしまいますと、
とんでもない苦になりますので、そこの
ところだけをやはり自分の肝に銘じて、
そして、祈って、出来ることはできる、
出来ないことはできない、出来ないところは
助けていただこう、つまり、他力と自力を
融合させて、そうして、皆がそういう難しい
ことばかりではなしに、私も光の国の住人
ならばあなたも光の国の住人なのだという
つもりで暮していっていただいたら、
随分とこの世の中は平和になっていくと
思いますし、光明波動というものは益々
広がってまいることであると存じます。
昭和63年8月26日
例えば、いろいろな問題が・・・。
皆様方の集会や支部や、あるいは、全国を
巡講なさる場合に、いろいろな問題が皆様方の
ところへ山積みのようにくると思います。
その時に、こんな大きな問題は今まで私は
経験したことがない。
そんなことは私の手にあまる。
そういう想いに皆把われると思います。
それは把われて当然でございます。
けれども、事の本質は、本当に大事なつかま
なければならないことは、いろいろな起こって
きている現象というものは二つあって、一つは、
今私が申しました、皆様のそれぞれの想いに
よってつくられていく世界が現象に
なっていく。
前にも申しましたように、天変地異というものは、
皆様の業想念というものが、ある時ある一定の
限度を越えて破れて、そして、また、ある調和を
取り戻そうとする時に、大水になったり、
大地震になったり、この世の中には不幸と
見える事柄でもって大調和へ還ろうと
する時の運動であります。
その元の元の元を正してゆくと、我々自身の
恐怖であるとかいろいろな不安であるとか、
明日の生活への恐れであるとか悲しみ
であるとか、大丈夫だろうかという心
であるとか、そういうものが一人二人の間は
何でもございませんけれども、まだ小さい
ものですけれども、何百人何千人何万人何億
という人のその想いが積み重なった時に、
うっと爆発をしまして、それがどっと
大洪水になり、あるいは、地震になり、大火事
になり、あるいは、今、南極の氷が解けている
とか、そういう現象になっている。
あれは決してフロンガスだけの問題ではありません。
あれは業のそういう積み重なりもございます。
そういう想いの世界からつくられている場合と、
それから、守護の神霊がわざと置くつまずきの石、
修行へのための石という場合と両方ございます。
これは非常に難しいものでございまして、これを
見分けるということは、とても人間わざでは
なかなか出来ません。
その時に何が一番大事になってくるか。
いろいろな問題を皆様がお聞きになる時に、
あるいは、どうしても持ち込まれた時に、
判断をあおられた時に、何を基準にしてそれに
答えてゆくか、浄めてゆくか祈ってゆくか
というか、これは、神様の御心というものを
やはり大基盤においてしていただかない
ことには、やはり道をまちがってしまうことに
なるのであります。
例えて申しますと、私の手にあまるくらいの
苦であっても、神様の側から見れば、この人の
この時点での修行の為に置かれたつまずきの
石、つまずきの石ではあるけれども、さらに
この人の光が輝いて、そうして、この人の
人生が深くなって、ついに天命に全く
とけ入ってしまう。
そういう導きのためのつまずきの石という
ことがございます。
そこで、ただとにかく、それを見分ける。
あるいは、そういう深い智恵の言葉を
出させていただく。
そこへいきますためには、とにかくお任せ
するんだ、私がその時に判断をしてしまうと
非常な苦になります。
例えば、どちらへ行った方がいいでしょうか。
右へ行った方がいいでしょうか、左へ行った
方がいいでしょうか、というような質問。
進学のことにしても就職のことにしても、
あるいは、思うようにならない人生という
ふうなことにしても、いろいろなことが
持ち込まれて、そして、自分の一言で
その人の人生がある程度、方向方針が
決まってしまうというような場合に、自分の
言葉でもってというふうに思ってしまいますと、
責任も重くなりますし、とても引き受けられる
ものではございません。
そうではなくて、そういういろいろなことと
いうのは、現象から来ている場合もあります。
つまり、想いの世界からそれが起こってくる場合も、
つまずきの石の場合も両方ございますけれども、
しかし、いずれにしても、それが神様の御心
によって、いただき直しの生命をさらに深く
いただくためのものであるという信仰の上に
立って、そうして任せきってですね、印をきり、
あるいは、祈っていただき統一をしていただき
柏手を打っていただきますと、おのずから
深いところからの言葉というものが、守護の
神霊によって支えられて、皆様方の唇から
その言葉が出てまいります。
このことは一朝一夕に出来ることでは
ございませんので、大変だと思ってしまうと
これはえらいことなので、そんなことは思う
必要はありません。
つまり、おろおろする自分も、頼りない
と思う自分も、いろいろな自分があって
よろしい訳です。
その一つ一つの自分というものをしりぞける
のではなく、いとおしんで、ああこういう
自分があるんだなあということを見つめて、
そうしてその上で、あなた方なりにあなた方の
立場で、無理をせずに背伸びをせずに、
その信仰を深めていっていただきたい。
ただ、物事の本質と申しますか、神様の本心
といいますか、本体と申しますか、そういう
一番はずしてはならない御心の深いところ
というのは、先程から申しておりますような
ところにございます。
ですから、ここのところだけは、データを
まちがえて頭のすみにおいてしまいますと、
とんでもない苦になりますので、そこの
ところだけをやはり自分の肝に銘じて、
そして、祈って、出来ることはできる、
出来ないことはできない、出来ないところは
助けていただこう、つまり、他力と自力を
融合させて、そうして、皆がそういう難しい
ことばかりではなしに、私も光の国の住人
ならばあなたも光の国の住人なのだという
つもりで暮していっていただいたら、
随分とこの世の中は平和になっていくと
思いますし、光明波動というものは益々
広がってまいることであると存じます。
昭和63年8月26日