宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

平和行進について

2012-09-30 07:48:33 | 祈り
 (問)平和行進についてお伺い致します。
 最近、全国的にみて、若干低調になって
いるように思われます。一時会員参加者による
発声は止められ、五井先生のテープによる先導
ということで、心の中で祈り言を唱えて
おりましたが、最近は再び五井先生のお声の後に
唱和するようになりました。

 私達は、世界人類が平和でありますようにとの
街頭唱和でもって、あたりを光で浄め、祈りを
知らない一般の方々への啓蒙活動になることを
信じて実施しておりますが、最近、少し軽視
されているように感じるのですが、現在では、
その時代ではないのでしょうか。


 (答)自分の信じている宗教、南無阿弥陀仏
でもアーメンでも、一緒に唱えるということは、
気持ちがすがすがしくなるんですよね。
 キリスト教であれば、アーメンと言った時に、
五井先生であれば、世界人類が平和であります
ようにと皆で唱える、守護霊様守護神様
ありがとうございますと言うと、そこでピタッと
この生命が一緒になるという気持ちを言って
下さっているんだと思うんですよね。

 必要が無くなった、段々回数が少なくなって
きているというのは、二つばかり理由が
ありまして、一つにはステッカーが貼られ、
ピースポールが世界中に建立され、書物などが
広まったということ。
 結局、平和行進は何が目的だったかというと、
勿論、自分でこの祈りが世界中で一番素晴らしい
と思って、祈りを知らせて下さる、今言われた
啓蒙ですよね。それと全然これを知らない人でも、
あの言葉を聞くと本当に心が和むという以上に、
平和に満ちてきて、別に白光を知らなくても
五井昌久を知らなくても、その言葉だけが胸に
残って、いつの間にか自分の生活の中にその
言葉が入るということだけでも、すごいこと
なんですよね。 
 ところがさっきも言いましたように、色んな
ステッカー等が貼られて、浄めの場所が広く
なってきた。ということは、平和行進の一つの
奥の目的は、光をふりまいて行くということ
なんです。浄めをしてゆくということなん
ですよね。どんな所にでも歩いて行って
踏み分けて行って、昔役の小角が山野を跋渉して
ということがありますけれど、本当そうなんです。

 役の行者だった時に、何故山野を跋渉したか
というと、それこそ怪(もののけ)ね、生き霊、
悪霊というものを全部光に変えていくという
ことが必要だったんですね。本当に、まだ
そういうものが幽界という閉じ込められた世界
ではなくて、地上の中に堂々と姿を現わして
いたような世界でしたからね。それをどんどん
光に変えてゆくという意味があって、肉体を
滅する位までの行をしながらやっていかなきゃ
いけなかったの。で、その古い弟子が〇〇君
であり〇〇君であって、皆そうなんですよね。
 皆飛び歩いた仲間なんですよ。

 だけれども、そうやって飛び歩いて、自分の
生命を差し上げますという位にやっていた
そういう人が、段々文明が進んで行って、生活が
便利になって、世界が狭くなってくると、皆
それぞれ生活というものがあります、暮しという
ものがあります、経済もあります。そうなって
くると、そういう生命がけのことがどこまで可能
かといったら、なかなか出来ないんですよ。
 ですから、世界人類が平和でありますように
というあの言葉に全部集約して、このことを
唱えると、愛の神様の愛念が、愛の気が
流れてきてね、そんじょそこらの低級霊なんかは
全部浄化されて、あの言葉を聞くだけで
唱えるだけで、光に変わってゆくというそういう
祈り言でしょう。それを唱え伝えるということは、
それだけでもすごいことなんですよね。

 もう一つには、皆がみんな生命を捧げたら人間
生きていけませんからね。やっぱり生きて行って、
その生き通しの生命を次の世界へ持って行って、
宇宙の平和の中に入り込んでゆくというのが
人間の真性ですから、そこで今の現在の状況に
合わせていって、世界人類が平和であります
ようにという祈り言が出て来た。
 で、この祈り言も昔は〇〇さんが言ったように、
自分の自己啓発もある、啓蒙もある、そういう
意味で、色んな所を言って歩いた。確かに
そうなんです、自分たちが最初言っていくことは
恥ずかしいですよね。ステッカーを貼ること自体
恥ずかしいですし、五井先生の著書を上げること
でも、つっ返されたらどうしようという想いが皆
あって、そこを乗り越えて皆渡したりするん
ですよね、リーフレットを渡したりね。皆それで、
それぞれ強くなってゆくんですよね。

 それが今は、ピースポール等が出来てきた為に、
皆がみんな世界に行かなくても、今度は世界中に
ある程度ばらまかれたから、そこの国の人が
そこの国の言葉で感じて祈ってる。
 世界人類が平和でありますようにという言葉は、
世界語になってきてる訳ですね。世界語になって
宇宙語になっている訳です。元々宇宙人の全部の
人の言葉なんです。もっと言うと、宇宙人類が
平和でありますようにと言ってもいいんです。
 そういう言葉なんです。世界というのは
地球世界だけではないんですね。宇宙全体の
何億とある宇宙の全部の生命が、全体で体中で
祈っているのが、世界人類が平和であります
ようにという言葉なんですよ。この今の地球の
ここに話を戻すと、皆歩いてゆかなくても、
あちこちにピースポールが立った。

 そこでもし弊害が出てくるとすれば、
ピースポールやステッカーに頼っちゃって、
唱える力とか、唱えて感激するとか、あるいは、
大きな声で祈ることによる感動・感激とかを
通して、ああ神様というのは本当にいるんだな
というようなことが、段々回数が少なくなって
くるとそれは言わない訳ですから、そこで祈り
というものはいいもんだなあという、元初の感動
というものがなくなってくるんですよ。頼っ
ちゃうから。
 だから、皆がねみそぎなどに何故あんなに
集まるかというと、自分の言葉で自分の本心に
降りていって、五井先生に神様に大神様に挨拶
したい、あるいは、私はこういう風に思って
いるんですがどうなんでしょうかという想いを、
そのまま預けるというね。
 みそぎにあれだけ来るというのは、皆本当に
本心開発をやってゆきたい、霊性開発をやって
ゆきたいんです。とそういうことなんです。

 ですから、平和行進というものは、一つには、
祈り言葉が拡がっているから、そういう所でもう
しなくてもいいよという風に、とればとれるん
です。ですけど、〇〇さんが言ったみたいに、
自分の中の内奥の声というものを本当に
みつめて、そこから自分の内を努めてゆく。
 努めていって自分の人間の真性というものを
磨いてゆくという点から言えば、今これ程必要な
ものはないんですよ。平和行進位。それは自分の
為にもなる人の為にもなる。それは歩いている
だけで、人間は光なんですから浄まっている訳
ですからね。
 だから、一石三鳥も四鳥もなんですよ。そこに
それぞれの守護の神霊の加護がある訳ですからね。

 ですから本当に、祈りとは何ぞや、唱えるとは
何か。
 唱名念仏ということね、言いましたでしょう。
 あの親鸞も法然もね。唱名するということは
何かといったら、唱名している内に無になり空に
なって、永遠の生命の中に溶け込んでゆくという
ことなんですよ。自分もなく我もなく人もなく、
永遠の生命の中に溶け込んでいって、自分が
本当に朗らかな生命の光の一筋のその一部なんだ
というところで、三昧になるんです。三昧
というのは、原稿にも書きましたけど、単なる
法悦境ではないんですよね。自分だけの世界に
浸るということではないんですよ。ですから、
平和行進が単なる自己満足ですとか、良い言葉
だなあと酔いしれるというのですかね、その
程度で満足するのでしたらやらない方がまし
なんですよ。

 一時、平和行進の唱和を止めたというのは、
自己満足で自己顕示で酔いしれる人が
いますでしょう。これだけ大きな声で読んでます、
五井先生聞いて下さいと。しかし、本当の霊性
というのはそういうものじゃないよということを、
やっぱり磨かせる為に止めたんです。
 どんないい習慣でも、どんなに良い言葉でも、
それに人間が慣れてくると、その中にある光が
どんなに大きいか深いか広いかということに気が
つかないんですね。気がつき難くなるんです。で、
一回それをポンと突き放されて、例えば、
平和行進でも何でもね、はいじゃあ止めましょう
という形で止められてしまうと、その一人一人
にとって、どれ程大事でどれ程自分の中に
くい込んでいたかいないかということが分かる訳
なんですよね。あるいは、自分自身の意識の
上では、平和行進はそんなに必要ないと思って
いても、思いがけない人から、なぜ平和行進
しないんですかと、そんなことを他人から
言われたりして、他の人の中にそれ程くい込んで
いたかというようなことで知らされる。それが
その人の魂の開発になるというようなことが
あるんですよ。

 ですから、自己満足や自己顕示欲に終わるその
人達の魂の開発が、そろそろきちっとなって
ゆけばですね、魂が澄み清まって純度が高く
なれば、自ずから平和行進しましょうという風な、
つまり、集会の案内をもう一度出しましょう
と同じことなんです。

 やっぱりやらなきゃ駄目ですね、というように
実践の方へなってゆく筈なんですよね。だから、
平和行進をやって下さいという声を本当に高めて
下すって、やっぱりやって下さるということが
一番なんです。で、平和の祈りというものは、
本当は自分もない人もない、ただ神様の生命の
中に入り込むという大調和の祈りですから、
我というものを無くさせる祈りですから、
自分が自分がという我をとって、大我の中に
入れる祈りですから、やっていく内に、自分の
意識はとも角も、その奥の体の中には徳がずっと
積もってゆく訳ですよね。ですから大いにやって
いただいていいんです。
 本部が中心になるんじゃないんですよ。人間が
中心なんですよね。

授与された お浄めの印の効果について

2012-09-29 09:10:05 | 祈り
 (問)講師、(常任幹事)、フェローに
それぞれお浄めの印が授与されており、
皆さんから求められれば、積極的にお浄めして
お上げなさいと言われております。お浄めの印を
いただいたものは、神を信じ愛一筋に、その人に
かわって祈らせていただく限りにおいて、入信
10年の人も20年30年の古い先生方
であっても、そのお浄めの効果には軽重なし
というつもりでお浄めさせていただいて
よろしいですか。私如きがという気持ちはやめて。


 (答)それでいいんです。印というのは何か
というと、天から流れてくる神様の愛の気という
ものをですね、ある人にはいやしの形で、ある人
には法則の形、又ある人には違う形でその時々に
応じて流すものなんです。それが印なんです。

 今、白光が色々分けてる、フェロー印、
講師(常任幹事)の印、宇宙子科学の印と。何で
分けているかというと、人間というのは本来
一つの神様から流れてきている生命でして、今
あなたが言ったように。本当に真心こめて、神様
お願い致しますと言う時には、皆軽重はないん
ですよ。守護霊さん守護神さんが後ろで働いてね、
こう上にいくんです。それは間違いないんです。

 ただ、印というのは無心に使えば使う程
いいんですが、無心に使おうと思うと、例えば、
印というのはね、私が統一会でこうやってる、
昌美がやってる、あるいは村田さんが
やってるのを見ていると、何か特別なものに皆
思うんですよ。
 で、自分があんなに使えるかしらと思うから、
例えば、フェローの印などもらっても、あれは
基本形であって、フェローの変形なんか
あるんですよ本当はね。だけどもらっても、
自分はその印の形を組むだけで精一杯だと
思うから動かないだけでしてね、あれは
こちらから観ていると、肉体的には動かして
ないけれども、霊体はずっと全部動いちゃって、
すごく複雑な印を皆切るんですよ。みんな
動かしていない様に見えるけれど、皆それぞれ
個性個性に応じて、フェローならフェローの
800人居たら、800種類の印がその人の
個性に応じて切れるんです。それは何故切れる
かというと、守護霊守護神が付いていて、
その人の世界に合った、世界に合ったというのは
世界が皆違うというのではなくて、その人の霊界
というのかな、その人が帰る魂のふるさと、
そこに応じて、この人だったらこの天地の
住人だから、こういう印がこの人には一番
伝えやすいな流しやすいなと思うと、上から
その気が降りていって、それで全部が印を
切り出すんですよ。

 で、如来印を組んで私を呼んで下さっている
時でも、如来印からずっと如来印の変形が
出来てですね、100人居たら100種類の印で
皆五井先生を呼んで神様を呼んで、一つに流れて
いっているんですよ本当はね。だから、印を
組むも組まないもなくて、これが印ですよと、
はいっといって与えられたら、肉体は動かなく
ても、霊体神体はそれで自由自在に切って
いるんです。そう考えて下すっていいんです。

 ただそれがね、今みんな動かしてもらって
おりますけれど、あれなんていうのもね、今
本部で、ここでやっているようなことをやればね、
ものすごくパニックになりますよ。何故か
というと、生前五井先生や昌美とかね、その人達
だけしか切れないようなものが何で切れるか
ということになって、それだけで真偽
どうしようかということになって、くだらない
話になるんです。
 結局、先程〇〇さんが言った、とっても
自分にはまだまだ切れないという想いね、それが
一つ邪魔をしているということとね。霊体は
自由自在に切っているのに肉体の想いという
ものは、自分はまだまだとか、あの人は偉いとか、
とてもあの人には及ばないとか、そういう余計な
想いがあるもんだから、肉体と霊体が一致
しないんですよ。霊体は自由自在に動いて
いるのに、肉体は中々それについてゆかない。

 だから、肉体と霊体は、自分が本当に使わせて
いただく時というのは、例えば〇〇〇〇ではなく、
つまり神様の愛が流れ込んで、神様の一つの器に
なって、神づまりにつまって、自分が言うんじゃ
なくて、後ろで守護の神霊が言って下さって
いるんだ、五井先生が言って下さっているんだ、
神様が私に言わせて下さってるんだという想いに
なればですね、〇〇〇〇という肉体的な個性とか
肉体の生命とかいうものは越えてしまって、
素直に天から言葉が流れてくるんです。

 言葉というのは神様の光ですからね。本当に
言葉の中に生命があって光があるということに
気がついていれば、みんな喧嘩なんかしなく
なるんですよね。
 だけれども、言葉というものは容易に口から
出そうと思えば出てゆきますから、それほど皆
考えずに出していって争いになってゆく訳です。

 とに角、そういう印を組んで、はいやって
下さいという時には、積極的にやっていいんです。
 その積極的にやる時には、私がやるんじゃ
ないんだという想いでやれば、どんな人でも
やっていけるんですよね。講師あるいは
宇宙子科学が一本指だとか何だとか、そういう
ことに決して把われることはない訳で、皆一緒
なんです本当に。ただその人の住む世界、
その人の魂を支えている世界によって、霊人の
種類が違います。それから、霊人の応援の
種類が違います。ですから、ある人に弁財天が
ついてある人に寿老人がついているというのと
一緒でしてね。守護霊さんの格が上とか下とか
いうのではなくて、その人のこの世の中での
働き、向こうへ行っての働きの違いを現わす
意味で、皆それぞれに分かれているという区分
だけの意味ですよね。

 ですけど、違う働きが全部一つになって、
神様は愛である、神様というのは無限の愛の
ゆるしの方で、我々から見たらあの人に何か
役割があるんだろうかと思われるような人でも、
こちらからは分からないけれども、神様の方
から見れば、大いに用いてゆこうと思って
いらっしゃる訳で、人間が肉体の目から見て、
あの人は役立たずだなあと思っても、神様の側
から見たら、こんなに素晴らしい器はない
という人がある訳なんですよね。決して
印なんか切らなくても、宗教なんか入ら
なくっても、目がきれいな人でも口のきけない
人でも、何でもいいんです。何でもいいんです
と言ったらいけないけれども、とに角、
その人の想いが気持ちが心が光輝いているか
いないか、そこなんですよ。

 だから、印というのもいかに素直になるか
ということ。ただそれだけなんです。印を
切らせていただく時には、その辛い悲しみ
そういう想いを捨ててね、どうにも神様と
呼んでるだけでは駄目です。だから何とか柏手を
打ってお浄めをして下さいという時には、私が
中に入ってますから、その人の天命が完う
されますようにと祈って、そこで柏手を打って
お浄めをしてゆけば、その人自身も空っぽに
なる、打った人自身も浄められるという、両方
いいんです。ですから、軽重なし誰かれなし
と考えて下さればいいんです。たださっきも
言ったように区別はあります。

 しかし、区別というのは、大きな働きを、
大調和という一つの大きな目的の中に、その
流れの中に入れ込む為の仮の区別ですから、
あくまで仮の区別ですから、全く誰がどうの
誰がどう偉いとか、フェローは良くって幹事は
どうのこうのということはありません。全く
ありません。ただ人間というのは、やっぱり
一つずつ段階を踏んで、あなた七年来ましたよ、
この印を上げますよと言っていかないと、
誰も彼も平等ということになれば面白くないし、
人間の癖というか想い癖というか習慣というか、
そういうものを神様はよくご存じですからね。

 そういう人間の人間らしい良いところも悪い
ところもひっくるめて、それをとったら、とに角
人間は一所懸命にならないということをよく
御存じですから、七年経ったらフェローの印を
もらえるんだとかね、くだらないことですけど、
何かそういう目標というものを持たないと。
 実は休んでる時にも休んでいない時にも、
印なんて切り切りに切っているんですよね。
 切りっ放しなんだけど、そんなこと肉体人間は
判りませんからね。で、息をするのと同じように
印を切ってる、印を切ってるということは神様に
想いが流れていると。想いが流れているという
よりも、神様の方から人間に対する想いが来て、
そして、本心の奥の奥の方から神様ありがとう
ございますという流れが想いが、神様の方に
流れ込んでいって、それで生命というものは
成り立っている訳ですからね。

 だから、自分は意識するしないに関わらず、
神仏の光と人間は交流をして生きている
ものです。
 感謝しながら成り立っているもんですから、
その生命の成り立ちが判ってくると、自然に
祈り心が湧いてくるし、祈りが出てくるし、
あるいは印が組めるようになる。そうなって
ゆくんです。本当に何事にも無駄ということは
ないんです。

 例えば、フェロー印の七年目というのは、七
というのは完全数でしょう。一・三・五・七
というのは全部完全数なんですよ。七というのは
全部の一つのまとめなんです。東洋も西洋も
完全数は七なんですよね。元をたぐって
ゆけばね。七は一つの目標ではあるけれども、
それぞれの霊体幽体神体というものに対しても、
完全数に近づいた所で、一つの神界からのサイン
というんですか、気の流れというものを
受けとめる、あなた器になりましたよという
許可が出たことで、その人の霊位というのか、
そういうものを喜んで、私は一所懸命
やりましょうと、本当に輝いて一段二段と
昇るんです。

 そういうことで、神様には無駄がないん
ですよ。全くこんなのはくだらない事じゃ
ないかと思ってることでも、それは人間の
想念の方でくだらないと思うだけでして、
向こう側からすれば、全く人間というものを
深く深く考えて捉えて、人間がいかにしたら
深く愛し合えるようになるか、赦し合える
ようになるか、認め合えるようになるか、調和
できるようになるかという、そこだけを考えて
やっている。それがすべての現われなんです。
 ですから、不満や不平、不安や怒り、そういう
ものも一体どこから来ているものかということを、
一回考えてみて、とに角祈ってゆくということが
大事だと思います。

CWLP(宇宙子科学)セミナーの資格について(2)

2012-09-28 08:41:19 | 祈り
 (問)本部が招集した御修行を必ず
済まされる方というのは、そうすると、
職員の方くらいしか不可能で、地方の普通の
職を持っている人はほとんど参加できなく
なるのでは。


 (答)それはおかしいですね。人間というのは
ものすごく幅の広いものですからね。
 肉体だけではないし、幽体も霊体も神体も
持ってるから、行こうと思えば何処にでも
行けるんですよね。だから、肉体的に聖ヶ丘に
行かなくても富士に行かなくても、想いを
そこに飛ばせば、錬成会でも何でも皆全員
出てるということは、霊的にこっちから観れば
そうなんですが。

 実際に自分で肉体を運んで足を引きずって、
くたびれたけど良かった、あの人に会えたとか、
あの先生に会えるとか、ああいい話だったとか、
やっぱり自分の記憶にきっちり刻み込んで、感激
したとか感動したとかというのがあって初めて、
人間というのはね、ああ自分のものになったな
という気持ちになる訳でしてね。ですから、
本質的には皆そこへ行っているのと変わりは
ないんだけれども、ああいう枠をはめて
しまうと、第一寂しくなりますからね。あの
やり方というのは、何か宗教というものを
取り違えてるのが書いたんだと思いますけれど。

 まあでも今、白光はそういう風にちょっと
逸れて、逸れることで、本当に愛するとか
労わるとか優しくするということがどういう事
かを、これから学ぶんですよね。一回そういう
ことをガツンとやらないと、生みの苦しみを
やっておかないと、人間は本当にやさしく
なれないんですよ。やはり、あれだけの組織に
なっちゃうと難しいところもあるんだけれども、
それは集団であれ個人であれ、個人が個人に
対してだって、本当に優しさの極みまで愛して
ゆくということはとても難しいことで、
極みまで愛せるのは神様しかいないんですよ。
 神様しかいないんだけれど、人間の真実の姿
というのは、神様の姿を写した、神様の愛の
光を受けて生まれて来ているもんですからね、
神様のお姿ですから、神のように愛することは
出来る筈なんです。

 その自覚をもって覚悟をもって、自分を赦し
人を赦す、自分を愛し人を愛すという、
それが出来てゆくようになればですね、本当の
意味で出来てゆくようになれば、本部も地方も
何もかも無くなっちゃうんです。で、寂しい
ということから、皆が、自分達は何が出来るか、
自分達にもこれが出来る筈だという反発
だとかね、そういうものを下から突き上げて
いってくれて、その人達はその人達で、本部に
放ったらかされたから、もうあんな本部には
尽くすまいという形でね、自分と神様との
関係がおかしくなってゆくと、本末転倒に
なっちゃうんですよ。そうなっちゃあ
困るんです。

 自分と神様との関係というのは、原稿にも
書きましたけれども、人間はね面白くない
ことがあったり、くだらない事があったり
すると、止めたということが出来るけれど、
神様はいかに人間がくだらない行為をしても、
もう愛することを止めようかなというところ
までいっても、神様というのは、いつも
赦して愛して、赦しっ放し愛しっ放しの人
なんですよ。神様の方から人間を放たれた
ということは人間の誕生以来ないんですよね。
 だから、そういう愛情というものが神様から
注がれている人間であるんだから、少々の
ことで神様の愛から離れないようにしなくては
いけない。神様の愛から離れないようにする
ということはどういうことかというと、
そういう色々腹の立つことはあるだろうけれど、
その中で、じゃあ自分を大事にする、相手を
大事にするという基本的なところは、自分
にとってどこなんだというところを祈り心
でもってやっていってもらわないと
どうしようもないんですね。

CWLP(宇宙子科学)セミナーの資格について(1)

2012-09-27 08:31:51 | 祈り
 (問)もう一つ、CWLPセミナーの資格について
ですが、これは昌美先生のご指示だということ
でしたが、その中の一つに大学卒云々というのが
ありましたが、あれはちょっとおかしいのでは
ないか、又、昌美先生の御命令に素直に従える人
というのもどうかと思います。昌美先生を
とりまく人達の配慮が足らないのではないか
と思われますが・・・

 (答)あのね、例えば斉藤さんの霊験巡講記を
読んでもね、まだ私が生きている頃ですよ、
昌美が宇宙子科学の人達のあのメンバーの力を
使って、白光真宏会の力を使って、世界を平和
にしてゆきますというようなことを、
エンジェラスカラーさんを通して言わせた。
 そうすると、斉藤さんがすごく感激
しちゃってね、昌美先生の言葉は五井先生の
言葉と同じだと、古い会員は皆そう思っている
と書いている。確かにそうなんですけど、
斉藤さんがあの時点でああいう風に言った
ことと、今回のああいう風な出し方というのは、
内容というか本質が全然違うんですよね。

 大体、御命令というのは、あれは斉藤さんの
あのしきりで言えば、五井先生というのは
何かというと、五井先生というのは
場所でしょ。神様の場所ですよ。だから
五井先生というのは、空なんですよ。五井先生
というのは、皆から質問が来て、自分で考えて
どう答えようかなあとは一度も思ったことは
ないんですよ。要するに、天の気が流れてくる
ままに、そのまま答えてるんです。それが
五井昌久なんです。肉体の五井昌久と神体の
五井昌久と皆こうなっちゃうんですがね。
講話集にも書いてあるけれどね、生きてる間
私は便所にも行ったし散髪も行ったしね、
入れ物なんだからちょっと磨かなきゃと思って
行ったんだけれどね。
 要するにそうなんですよ。神様が必要な時に
私に宿る。何でかというと、五井先生になる
前の五井昌久という人間は、神様の方に生命を
返しちゃって、そこで自分を捧げたから、
世界人類が平和でありますようにという一念に
生きさせて下さいということになった。
 自分自身が素直になった為に、あの様な
現象になった訳です。

 だけど、それは誰もが出来ることなんですよ。
 本当の意味では、生命を投げ出したら、人間
というものは神様の子供ですから、誰だって
五井先生と同じになれるんですよね。そういう
人が増えてくれば私はすごく楽になる、昌美も
楽になる訳ですけど、本部がこの間言った
昌美先生の御命令にというのは、私自身の解釈
で言えば、要するに、昌美を通して五井先生
という人を通して、後ろにある神様に素直に
なれる人ということに結局なる訳です。
 ただ言葉が非常に不親切で不適切でね、
昌美先生の御命令というのは、肉体人間の
西園寺昌美という個性のきつい人間という風に
とってしまうと、人間に対してどうして
ということになりますからね。その辺が非常に
言葉が足りないんですよまだ。

 勿論、親衛隊みたいに昌美をとりまいている
人達がいるんですよ。それはいいとか悪いとか
じゃなくて、それはその人たちの役目なんですよ、
守るということが。それはどういうことか
というと、肉体的にも精神的にも非常に不安定
なんですよね、あの人は。今修行をやっていて、
瀬木さんとか高橋君とかががっちり守って
くれないと、本当にバラバラに
なっちゃうんです体が。疲労度もひどいん
ですよ。そういう意味で、守る立場の人も
いるんです。必要なんです。

 但し、それだけで固めちゃって、結局
昌美先生は底辺に降りてゆかないということ
になれば、これはとんでもないこと
なんですよね。本当に、一人一人の嘆きや
苦しみを自分のものにする為に、今
ああやって修行している訳ですから、
そこのところを間違えたらいけないのと、
大学卒業というのは、どこの誰がどうやって
決めたのか、いつの間にかポコンと出てきた
ことですが。
 要するに、あれは、世界中に白光の教えが
広がっていくから、どこの外国に行っても
大丈夫なようにというのが、そういう意味が
大学卒になっちゃったんでしょうが、それに
してもね、じゃあ大学を何かの事情で卒業
できなかった人とか、途中で止めた人とかね、
行かなかった人とかね、それでいて優れて
いる人。すごく音楽が上手だとかね。そういう
人はどうなるのかというのがあって、あれは
絶対書いてはいけない言葉なんですよね。
 あれは間違いなんです。但し、ああいう形で
集まって来た資格の中に入って、尚かつ純心で
という人はいるかも知れませんよね。それで
集められて鍛えられて人間はやっぱり育って
ゆくもんですから、そこでもうちょっと幅広く
活躍してもらう為に鍛えてゆこうと、
こちら側ではそう思っております。
 ただ、ああいう言葉使いというものは
するものじゃない。

白光誌の支部集会所案内掲載の有無について

2012-09-26 07:54:48 | 祈り
      註(平成2年当時)

 (問)白光誌に支部集会所の案内が無くなる
ということで、反対の声がかなりあるのですが。
 なくなると非常に不便になりますし、白光誌の
在り方からいうと、ちょっとおかしいのでは
ないかと思いますが、継続してもらいたい
という、それ位の意見は言っても
よいでしょうか。

 (答)言わなきゃ駄目。言わなきゃ駄目と
いうのは本部を痛めつけるとかいうのでは
なくて、いかに一人一人の心が大事かという
ことが分かってないんです。中央は分かり
難いんですよ。何故かと言ったら、皆人が
集まって来るでしょう。聖ヶ丘統一会、富士の
みそぎの会だというと皆来たいから、沢山の、
何百人何千人という人が来ますよ。だから、
あそこにいる人はみんな、ああ祈りの場所
だということで感激するんだけれど、実は
一人一人が個人にかえった時に、私はこんなに
病気で苦しんでいるとか、そういう苦しみ
というものがつい忘れてしまうんですよね。
見ようとしないのね。

 ところが、あの集会の連絡所という風にして
名前と電話番号を、昔は住所も書いていた
けれども、それを記載していると、そういう
声が届いてくるんです。支部集会というものを
通じて本部にも行くんです。こういう人がいる、
こういうケースがあるがどうしようかと。
 心ある自分の尊敬する講師の先生方に、実は
こういう人がいるんですけれど、こういう
時には先生どういう風にお浄めなさるん
でしょうか、どういう個人相談をと、こういう
ことはあったんです。ところが、あれを
無くしてしまうということになると、人間が
どういう風に悩んで生きて苦しんでという、
一番根本のところが分からなくなるんですよ。

 だから、一旦廃止させますけれど、廃止
させたら今度は本部の方が混乱
してしまうんです。何故かというと、
己れ尊しになっちゃって、そこのところで
人間の心が分からなくなるからね。そこで、
教科書通りの、五井先生はこう言って
いらっしゃいました、昌美先生はこう言って
らっしゃいますという、字句通りの解釈に
なってしまう。人間というものはそんなもの
じゃない。そんな単純なものじゃないから、
百の悲しみがあれば百の背景がある訳で、
そこのところを、もう一度、そんなものじゃ
ありませんよという風に、神様の方から言って
いただくには、一回あれを廃止して、不便
だとか不満だとかいう声を憤然と出させないと、
何が祈り心で何が宗教かということが
分からなくなっていますから、一回廃止
させないと駄目なんですよ。

 そういうお役目の人がいたんですよ。被害を
受けて何十万も持っていかれたとかね。毎日
毎晩いたずら電話がかかって迷惑だとかね。
 あったんです。あったんですけれど、そんな
ことではいけないんですけれどもね、でも
それは不心得だと言う前にやっぱり本部が
音痴になって、地方にいるものが音痴になって
いるというのを、今どうやって道路工事をして
直させようかなという結果が、ああいう一つの
荒療治に出た訳で、向こう側からみれば荒療治
なんですよね。
 中央の方で何も地方の声が分からない
というんじゃない。そのつもりではない訳で、
中央の方は汲みとろう汲みとろうとして、
自分で出来ていると思っているけれど、実は
汲みとってない訳だから、そこのところが
自主性がまだ弱いですよ、まだ出来てませんよ
というのを、こっち側からつつくという脚本
なんですね。


 (問)すぐに出した方が良い訳ですね。

 (答)幹事会や何かで言っていただいて
いいです。本部に支部から言ってもらっても
構いません。又、ブロック幹事会があるのなら、
そういう皆が集まる場所で、実はこういう
弊害があるだろうけれども、実際考えてみると、
これはとても不便で、一般に白光を知らない
人にも、五井昌久という人はどういう人間
だとか、神様というのは何だというのを
知りたいという人を増やしてゆくには、
支部集会の案内、電話の案内、名前の案内、
それを無くしてしまうということは
ものすごく不親切、一番不親切なんだという
ことを、そういう場所で堂々と出していただく
ことが一番いいことだと思います。どんどん
発言して下さい。


 (問)本部の理由づけの中で、五井先生が
個人のプライバシーを一番だと言われたと
どうのこうのとありますが。

 (答)そうでも言わなきゃどうしようも
ないでしょうね。
 今は居ないんだからね、死人に口なしだから
死人は弱いですよね。立場はね。