いのち
というものの
朗らかさは
神様の
朗らかさ
神様は
子どものように
無邪気な
心と
純な魂
風のように
自由な
本心を
てらす
光を
もって
私たちの
いのちの
なかに
住んで
いらっしゃるのです
私たちは
みんな
その
子どもたちなのです
神様の
血を
わけた
子どもたち
なのですよ
血をわけた
親子と
みんないう
けれど
正真正銘
私たちは
神様の
血がながれているのです
その血というのは
何だといえば
それは
思いやりで
あり
やさしさです
神様の
人間に対する思いが
やさしさが
どれほど
深く
真実にみちた
ものであるか
それは
神様を
知れば知る程
わかってきます
全く
つきる
ことのない
愛で
私たちを
つつんで
下さっている
それが
神様です
永遠の
親の愛ですよ
しかも
その愛は
五十年
六十年といった
ちっぽけなものじゃない
何万年
何億年
いや
もっともっと
かぎりなく
つづいて
ゆくのです
こんなに深い
こんなにたしかな
愛は
世界中
どこを
さがしても
ないですよ
しかも
我々が
肉体を
脱いで
むこうへ
行けば
行ったで
益々の
その
愛の証を
我々は
この身にもこころにも
いや
その世界いっぱい
我々が
住む場所
住む場所
霊体が
神体が
余計な
ものを
そぎおとして
光の
ひとすじとなり
かみの
みこころの
一部と
なるまで
なってもなお
いとし子への
この
親の
愛は
ずっとつづいて
ゆくのです
そりゃあ
親ですから
たまには
きびしく
叱ることもあるでしょう
たたく
ことだって
あるかも
知れない
けれど
いつも
いつも
この親の愛は
人間を
さながらの
いのちに
かえし
ほがらかな
光そのものの
いのちへと
みちびく
ために
叱り
たたくので
あって
それ以外では
ないのです
なぜなら
私たち
一人一人の
なかに
神様から
さずけられた
それぞれが
果たすべき
天命が
大光明となって
かがやき
わたって
いるからです
一人の
天命を
果たさせ
さらに
何十人
何百人
何千人
この
地球上に
生きる
すべての
人間の
天命と
宇宙人類の
天命とを
つないで
無限の
いのちの
光を
大神様の
もとに
かがやかせる
丁度
この
肉体界で
親と子が
情を
かよわせ
心をかよわせる
ように
否
それよりも
さらに
つよく
深い絆で
神(親)
と
人間(子)
の
二人ながらの
光の
交流が
ずっと
奥の
奥まで
なされて
十字交叉の
光と
愛の
世界を
完成させてゆくのです
我々
一人一人の存在は
そのための
いのちなのです
誰が
この事実に
気付き
誰が
気付かない
というんじゃ
ない
肉体を
もちながら
気付いている人も
いない人も
みんなのいのちを
そのために
用いられるのです
それと
気付かせずに
みんなを
いのちの
本道へと
みちびいてゆく
守護の神霊は
この永遠の
いのちの
親である
神の愛を
身に
しみこませた
みつかいなのです
我々は
生まれながらに
いや
肉体界に
生まれる
ずっと
以前から
この
永遠の
神の愛に
育てられ
守られて
今
ここに
こうして
空気と
霊気とを
呼吸して
生きて
いるのです
空気は
肉体を
やしなう
いのちを
霊気は
我々の
霊体から
ずっと
奥の
からだにまで
神の
愛を
うけて
生かされている
よろこびを
与えつづけて
いるのです
いかされる
よろこび
これこそ
神から生まれた
神の血を
わけられ
神の愛を
受けて
ここに
生きている
生きている
我々の
いのちの
みなもとです
すべて
神様に
目をむけ
こころを
向ける者は
このいかされるよろこび
によって
生きています
それは
大神様から
たまわった
いのちに
畏れを
いだき
ながら
よろこびつつ
生きる
ということであり
そのよろこびも
心の奥底から
おのずと
湧いてくるものなのです
なぜなら
人間は
神の愛によって
おのずと生まれしめられた
さながらの
いのちだからです
じねんほうに
の存在なのです
義務で
存在してるんじゃない
神様と
いのちを
高らかに
うたい上げ
うたい合う
そういう
存在なのです
親と子
なのですもの
血の
つながりが
あるのですもの
遠慮なんて
ありゃしない
そうでしょ
自然な
自然な
間柄
自然な
自然な
ことなんです
いのちということは
言葉を
かえるなら
いのちというのは
すなお
ということ
単純というんじゃありませんよ
純では
あっても
単純じゃない
おのずと
よろこぶという
いのちの
相(すがた)の
なかには
すべてを
きよめ
濾過
しつくす
きよらかな
神様の
前に
まっすぐな
さがが
一本
徹っているのです
この一本の
性を
古代の
おおらかな心
の人々は
光の柱
とみたのです
それは
はなれて
光るんじゃない
自分の
からだのなかから
おのずと
光がみち
あふれて
天の私(自分自身)へと
通じるのです
天地の自分自身
人間の
相が
合体した
瞬間を
古代には
ごく
あたりまえの
純な
人々が
目にしたのです
自分にも
人にも
かがやき
天と地とを
つなぐ
光の
柱
その
柱
一本の
光の橋を
かけて
下さっているのが
大神様の
愛で
あることを
古代の
人々は
一人のこらず
知っていたのです
古代の
人々が
神様に
近かった
というより
神様の
ことを
本当に
自分の
親だと
感じ切って
くらして
いたのです
丁度
現代の
人間が
空気を
吸うことを
当然だと
思うように
否
それ以上に
神と
人間とは
親しい
親しい
間柄だったのです
さながらの
いのち
ほがらかな
神の光に
みたされた
人々の
心は
大きく
広く
寛やかで
まどいが
いつもありました
今
私をはじめとする
救世の
大光明
霊団が
目ざして
いるのは
この広く
大きく
また
寛やかな
人間の
こころへと
現代に生きる
すべての人を
かえす
ことなのです
それも
むりやりに
かえそうというんじゃ
ありません
世界人類が
平和でありますようにと
いう
すべての
人の
心が
一つになり
ほんとうに
自由になる
祈りを
とおして
かって
人々が
日常茶飯に
みていた
天と地を
つなぐ
光の柱を
顕現させるのです
この眼で
肉体の眼で
みえる
みえないは
問題じゃ
ありません
そうじゃない
肉体という
不自由な
かせに
しばられた
人間の
真に自由な真性を
肉体を
もたせたまま
奥の奥を
よろこばせる
そうして
いつか
この肉の身のままに
生かされている
よろこびを
知る
それこそが
自由を
得る
ということなのです
今の
世界
肉体を
持った
人間を
否定するんじゃない
その
肉体人間を
生かしている
真実の
神の
愛を
知らしめ
心に
よびおこして
ゆくのです
それが
世界平和の
祈りの目ざす
平和と
愛と
大調和の
目的です
いのりの
光の
すすむ
神への
みちです
私たちは
光の
みちを
歩く
旅人
なのです
そのみちすじ
には
いくつもの
私たちを
きたえる
親の愛ゆえの
つまづきが
用意されているかも
知れない
けれども
神が
絶対の
愛であり
いつくしみ
深き方で
あることを
知っている
私は
心の底から
神は
愛であることを
つたえつづけて
やまないのです
神は愛
人はそのいとし子
永遠の神の
いとし子
なのです
昭和62年1月30日
というものの
朗らかさは
神様の
朗らかさ
神様は
子どものように
無邪気な
心と
純な魂
風のように
自由な
本心を
てらす
光を
もって
私たちの
いのちの
なかに
住んで
いらっしゃるのです
私たちは
みんな
その
子どもたちなのです
神様の
血を
わけた
子どもたち
なのですよ
血をわけた
親子と
みんないう
けれど
正真正銘
私たちは
神様の
血がながれているのです
その血というのは
何だといえば
それは
思いやりで
あり
やさしさです
神様の
人間に対する思いが
やさしさが
どれほど
深く
真実にみちた
ものであるか
それは
神様を
知れば知る程
わかってきます
全く
つきる
ことのない
愛で
私たちを
つつんで
下さっている
それが
神様です
永遠の
親の愛ですよ
しかも
その愛は
五十年
六十年といった
ちっぽけなものじゃない
何万年
何億年
いや
もっともっと
かぎりなく
つづいて
ゆくのです
こんなに深い
こんなにたしかな
愛は
世界中
どこを
さがしても
ないですよ
しかも
我々が
肉体を
脱いで
むこうへ
行けば
行ったで
益々の
その
愛の証を
我々は
この身にもこころにも
いや
その世界いっぱい
我々が
住む場所
住む場所
霊体が
神体が
余計な
ものを
そぎおとして
光の
ひとすじとなり
かみの
みこころの
一部と
なるまで
なってもなお
いとし子への
この
親の
愛は
ずっとつづいて
ゆくのです
そりゃあ
親ですから
たまには
きびしく
叱ることもあるでしょう
たたく
ことだって
あるかも
知れない
けれど
いつも
いつも
この親の愛は
人間を
さながらの
いのちに
かえし
ほがらかな
光そのものの
いのちへと
みちびく
ために
叱り
たたくので
あって
それ以外では
ないのです
なぜなら
私たち
一人一人の
なかに
神様から
さずけられた
それぞれが
果たすべき
天命が
大光明となって
かがやき
わたって
いるからです
一人の
天命を
果たさせ
さらに
何十人
何百人
何千人
この
地球上に
生きる
すべての
人間の
天命と
宇宙人類の
天命とを
つないで
無限の
いのちの
光を
大神様の
もとに
かがやかせる
丁度
この
肉体界で
親と子が
情を
かよわせ
心をかよわせる
ように
否
それよりも
さらに
つよく
深い絆で
神(親)
と
人間(子)
の
二人ながらの
光の
交流が
ずっと
奥の
奥まで
なされて
十字交叉の
光と
愛の
世界を
完成させてゆくのです
我々
一人一人の存在は
そのための
いのちなのです
誰が
この事実に
気付き
誰が
気付かない
というんじゃ
ない
肉体を
もちながら
気付いている人も
いない人も
みんなのいのちを
そのために
用いられるのです
それと
気付かせずに
みんなを
いのちの
本道へと
みちびいてゆく
守護の神霊は
この永遠の
いのちの
親である
神の愛を
身に
しみこませた
みつかいなのです
我々は
生まれながらに
いや
肉体界に
生まれる
ずっと
以前から
この
永遠の
神の愛に
育てられ
守られて
今
ここに
こうして
空気と
霊気とを
呼吸して
生きて
いるのです
空気は
肉体を
やしなう
いのちを
霊気は
我々の
霊体から
ずっと
奥の
からだにまで
神の
愛を
うけて
生かされている
よろこびを
与えつづけて
いるのです
いかされる
よろこび
これこそ
神から生まれた
神の血を
わけられ
神の愛を
受けて
ここに
生きている
生きている
我々の
いのちの
みなもとです
すべて
神様に
目をむけ
こころを
向ける者は
このいかされるよろこび
によって
生きています
それは
大神様から
たまわった
いのちに
畏れを
いだき
ながら
よろこびつつ
生きる
ということであり
そのよろこびも
心の奥底から
おのずと
湧いてくるものなのです
なぜなら
人間は
神の愛によって
おのずと生まれしめられた
さながらの
いのちだからです
じねんほうに
の存在なのです
義務で
存在してるんじゃない
神様と
いのちを
高らかに
うたい上げ
うたい合う
そういう
存在なのです
親と子
なのですもの
血の
つながりが
あるのですもの
遠慮なんて
ありゃしない
そうでしょ
自然な
自然な
間柄
自然な
自然な
ことなんです
いのちということは
言葉を
かえるなら
いのちというのは
すなお
ということ
単純というんじゃありませんよ
純では
あっても
単純じゃない
おのずと
よろこぶという
いのちの
相(すがた)の
なかには
すべてを
きよめ
濾過
しつくす
きよらかな
神様の
前に
まっすぐな
さがが
一本
徹っているのです
この一本の
性を
古代の
おおらかな心
の人々は
光の柱
とみたのです
それは
はなれて
光るんじゃない
自分の
からだのなかから
おのずと
光がみち
あふれて
天の私(自分自身)へと
通じるのです
天地の自分自身
人間の
相が
合体した
瞬間を
古代には
ごく
あたりまえの
純な
人々が
目にしたのです
自分にも
人にも
かがやき
天と地とを
つなぐ
光の
柱
その
柱
一本の
光の橋を
かけて
下さっているのが
大神様の
愛で
あることを
古代の
人々は
一人のこらず
知っていたのです
古代の
人々が
神様に
近かった
というより
神様の
ことを
本当に
自分の
親だと
感じ切って
くらして
いたのです
丁度
現代の
人間が
空気を
吸うことを
当然だと
思うように
否
それ以上に
神と
人間とは
親しい
親しい
間柄だったのです
さながらの
いのち
ほがらかな
神の光に
みたされた
人々の
心は
大きく
広く
寛やかで
まどいが
いつもありました
今
私をはじめとする
救世の
大光明
霊団が
目ざして
いるのは
この広く
大きく
また
寛やかな
人間の
こころへと
現代に生きる
すべての人を
かえす
ことなのです
それも
むりやりに
かえそうというんじゃ
ありません
世界人類が
平和でありますようにと
いう
すべての
人の
心が
一つになり
ほんとうに
自由になる
祈りを
とおして
かって
人々が
日常茶飯に
みていた
天と地を
つなぐ
光の柱を
顕現させるのです
この眼で
肉体の眼で
みえる
みえないは
問題じゃ
ありません
そうじゃない
肉体という
不自由な
かせに
しばられた
人間の
真に自由な真性を
肉体を
もたせたまま
奥の奥を
よろこばせる
そうして
いつか
この肉の身のままに
生かされている
よろこびを
知る
それこそが
自由を
得る
ということなのです
今の
世界
肉体を
持った
人間を
否定するんじゃない
その
肉体人間を
生かしている
真実の
神の
愛を
知らしめ
心に
よびおこして
ゆくのです
それが
世界平和の
祈りの目ざす
平和と
愛と
大調和の
目的です
いのりの
光の
すすむ
神への
みちです
私たちは
光の
みちを
歩く
旅人
なのです
そのみちすじ
には
いくつもの
私たちを
きたえる
親の愛ゆえの
つまづきが
用意されているかも
知れない
けれども
神が
絶対の
愛であり
いつくしみ
深き方で
あることを
知っている
私は
心の底から
神は
愛であることを
つたえつづけて
やまないのです
神は愛
人はそのいとし子
永遠の神の
いとし子
なのです
昭和62年1月30日