宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

いかされるよろこび

2012-07-31 07:58:26 | 祈り
いのち
というものの
朗らかさは
神様の
朗らかさ
神様は
子どものように
無邪気な
心と
純な魂
風のように
自由な
本心を
てらす
光を
もって
私たちの
いのちの
なかに
住んで
いらっしゃるのです
私たちは
みんな
その
子どもたちなのです

神様の
血を
わけた
子どもたち 
なのですよ
血をわけた
親子と
みんないう
けれど
正真正銘
私たちは
神様の
血がながれているのです

その血というのは
何だといえば
それは
思いやりで
あり
やさしさです
神様の
人間に対する思いが
やさしさが
どれほど
深く 
真実にみちた
ものであるか
それは
神様を
知れば知る程
わかってきます

全く
つきる
ことのない
愛で
私たちを
つつんで
下さっている
それが
神様です
永遠の
親の愛ですよ
しかも
その愛は
五十年
六十年といった
ちっぽけなものじゃない
何万年
何億年
いや
もっともっと
かぎりなく
つづいて
ゆくのです

こんなに深い
こんなにたしかな
愛は
世界中
どこを
さがしても
ないですよ
しかも
我々が
肉体を
脱いで
むこうへ
行けば
行ったで
益々の
その
愛の証を
我々は
この身にもこころにも
いや
その世界いっぱい
我々が
住む場所
住む場所
霊体が
神体が
余計な
ものを
そぎおとして
光の
ひとすじとなり
かみの
みこころの
一部と 
なるまで
なってもなお
いとし子への
この
親の
愛は
ずっとつづいて
ゆくのです

そりゃあ
親ですから
たまには 
きびしく
叱ることもあるでしょう
たたく
ことだって
あるかも
知れない
けれど
いつも
いつも
この親の愛は
人間を
さながらの
いのちに
かえし
ほがらかな
光そのものの
いのちへと
みちびく
ために
叱り
たたくので
あって
それ以外では
ないのです

なぜなら
私たち
一人一人の
なかに
神様から
さずけられた
それぞれが
果たすべき
天命が
大光明となって
かがやき
わたって
いるからです

一人の
天命を 
果たさせ
さらに
何十人
何百人
何千人
この
地球上に
生きる
すべての
人間の
天命と
宇宙人類の
天命とを
つないで
無限の
いのちの
光を
大神様の
もとに
かがやかせる
丁度
この
肉体界で
親と子が
情を
かよわせ
心をかよわせる
ように

それよりも
さらに
つよく
深い絆で
神(親)

人間(子)

二人ながらの
光の
交流が
ずっと
奥の
奥まで
なされて
十字交叉の
光と
愛の
世界を
完成させてゆくのです

我々
一人一人の存在は
そのための
いのちなのです
誰が
この事実に
気付き
誰が
気付かない
というんじゃ
ない
肉体を
もちながら
気付いている人も
いない人も
みんなのいのちを
そのために
用いられるのです
それと
気付かせずに
みんなを
いのちの
本道へと
みちびいてゆく
守護の神霊は
この永遠の
いのちの
親である 
神の愛を
身に
しみこませた
みつかいなのです

我々は
生まれながらに
いや
肉体界に
生まれる
ずっと
以前から
この
永遠の
神の愛に
育てられ
守られて

ここに
こうして
空気と
霊気とを
呼吸して
生きて
いるのです

空気は
肉体を
やしなう
いのちを
霊気は
我々の
霊体から
ずっと
奥の
からだにまで
神の
愛を
うけて
生かされている
よろこびを
与えつづけて
いるのです

いかされる
よろこび
これこそ
神から生まれた 
神の血を
わけられ
神の愛を
受けて
ここに 
生きている
生きている
我々の
いのちの
みなもとです

すべて
神様に
目をむけ
こころを
向ける者は
このいかされるよろこび
によって
生きています
それは
大神様から
たまわった
いのちに
畏れを
いだき
ながら
よろこびつつ
生きる
ということであり
そのよろこびも
心の奥底から
おのずと
湧いてくるものなのです

なぜなら
人間は
神の愛によって
おのずと生まれしめられた
さながらの
いのちだからです
じねんほうに
の存在なのです
義務で
存在してるんじゃない
神様と
いのちを
高らかに
うたい上げ
うたい合う
そういう
存在なのです

親と子
なのですもの
血の
つながりが
あるのですもの
遠慮なんて
ありゃしない
そうでしょ
自然な
自然な
間柄
自然な
自然な
ことなんです

いのちということは
言葉を
かえるなら
いのちというのは
すなお
ということ
単純というんじゃありませんよ
純では
あっても
単純じゃない
おのずと
よろこぶという
いのちの
相(すがた)の
なかには
すべてを
きよめ
濾過
しつくす
きよらかな
神様の
前に
まっすぐな
さがが
一本
徹っているのです
この一本の
性を
古代の
おおらかな心
の人々は
光の柱
とみたのです
それは
はなれて
光るんじゃない
自分の
からだのなかから
おのずと
光がみち
あふれて
天の私(自分自身)へと
通じるのです

天地の自分自身
人間の
相が
合体した 
瞬間を
古代には
ごく
あたりまえの
純な
人々が
目にしたのです

自分にも
人にも
かがやき
天と地とを
つなぐ
光の

その

一本の 
光の橋を
かけて
下さっているのが
大神様の
愛で
あることを
古代の
人々は
一人のこらず
知っていたのです

古代の
人々が
神様に
近かった
というより
神様の
ことを
本当に
自分の
親だと
感じ切って
くらして
いたのです
丁度
現代の
人間が
空気を
吸うことを
当然だと
思うように

それ以上に
神と
人間とは
親しい
親しい
間柄だったのです

さながらの
いのち
ほがらかな
神の光に
みたされた
人々の
心は
大きく
広く
寛やかで
まどいが
いつもありました 


私をはじめとする
救世の
大光明
霊団が
目ざして
いるのは
この広く
大きく
また
寛やかな
人間の
こころへと
現代に生きる
すべての人を
かえす
ことなのです
それも
むりやりに
かえそうというんじゃ
ありません
世界人類が
平和でありますようにと
いう
すべての
人の
心が
一つになり
ほんとうに
自由になる
祈りを
とおして
かって
人々が
日常茶飯に
みていた
天と地を
つなぐ
光の柱を
顕現させるのです

この眼で
肉体の眼で
みえる
みえないは
問題じゃ
ありません
そうじゃない
肉体という
不自由な
かせに
しばられた
人間の
真に自由な真性を
肉体を
もたせたまま
奥の奥を
よろこばせる
そうして
いつか
この肉の身のままに
生かされている
よろこびを
知る
それこそが
自由を
得る
ということなのです

今の
世界
肉体を
持った
人間を
否定するんじゃない
その
肉体人間を
生かしている
真実の
神の
愛を
知らしめ
心に
よびおこして
ゆくのです
それが
世界平和の
祈りの目ざす
平和と
愛と
大調和の
目的です
いのりの
光の
すすむ
神への
みちです

私たちは
光の
みちを
歩く
旅人
なのです
そのみちすじ
には
いくつもの
私たちを
きたえる
親の愛ゆえの
つまづきが
用意されているかも
知れない
けれども
神が
絶対の
愛であり
いつくしみ
深き方で
あることを
知っている
私は
心の底から
神は
愛であることを
つたえつづけて
やまないのです

神は愛
人はそのいとし子
永遠の神の
いとし子
なのです
          昭和62年1月30日

ただ 私はどんな時にも 神様に素直だった・・・

2012-07-30 09:12:28 | 祈り
    〇
光にみちた世界は
何も神殿や
社ばかりではないのです
もっといえば
いたる所に
神様の光は
みちているのです

自分のような人間は
まだまだ
なんて
思うのが
間違いの元
今は
そんな上品な
遠慮が
通る時じゃありません
みんな
神様の分霊 
分生命という
教義は
なぐさめでも
おかざりでも
ありません

みんなが
明るい
神の
いのちに
目覚めて
その
目覚めを
深くすればするほど
光は
増し加わり
強められていくのです
なぜなら
人間は
神様の
光を受けて
生まれた存在なのだから
元々が
明るいんですから

ただ
あんまり
明るすぎて
こんなに 
自分は明るいのかしらと
思わず
あたりをみまわしているのが
今の状況です
世界人類が
平和でありますように
という
祈りを
唱えながらでも
これでいいのかしら
私は明るいのかしら
本当に
明るいのかしらと
思っちゃう
こっちからみてると
もうどうしようもないなあと
思うほどだし
笑ってしまうけれど
みんな
明るいんです
五井先生が
保障します

私には
何がみえているかと
いうと
みなさんの
肉体の奥の
奥の奥の
光りかがやいている
さながらの
生命がみえてるんです
くらいくらい
想念や
業といった
幽界の世界じゃない
幽・霊・神界を
突き抜けて
どこまでも
明るい
さながらの
ほがらかな
生命が
みなさん
一人一人の
天命が
みえているんです

だから
五井先生
病気です
子どもが死にそうです
家の中が
引っくり返って
いますと
泣きながら
きてもね
そこで感情を
動かされないんじゃない
十分
みんな
大変だと
思うし
かわいそうだと
私の個性
神様が
守護の
神霊が
のこしてくれた
人間
五井昌久の
心は
おもうけれど
本心本体の
ずっと
神界に
つながって
いる
私自身は
奥の奥の
みんなの
天命を
一瞬に
して
みているし

みせられるんです

いのちというもの
いのちを
支えている
人間の
天命
神様から
与えられた
天命というものは
ずっとずっと
宇宙神の
みこころの
大奥の
奥底にまで
つらなっている
ものなのです
それを
私は
みているんです

だから
この世の中での
或る
一人の個人を
いやす
かしわ手を
打っているようでいて
実は
その人の
何十生
何百生
何千生後の
みちすじを
ばーっとみて
それで
その道筋は
誤りなく
保つことができるように
守護の
神霊が
その人の
魂を
みちびきやすいように
とりあえず

とりのぞいておいた方がいいものを
のぞくわけです
けれども
のぞくといったって
それが
その人の
願い通りの
ものを
とりのぞくとは
かぎらないんです

あくまでも
この世も
あの世もなく
ひとつづきに
ずーっと
つづいてゆく
いのちというもの
その人のその人らしさと
いうものが
真実に
発揮できるように
そのために 
のぞくわけなんで
今の今
とりのぞいてほしいと
思うものと
神様側で
とりのぞくものとは
ちがうんです

しかし
それじゃあ
人間の
現在の
苦しみを
かえりみないと
いうことになって
神様というのは
何て
不公平だというと
それは
やっぱり
ちがうんです
どう
ちがうかと
いいますとね
そこに祈りが
与えられている
これで
不公平じゃないんです

いつも
私が
申しますように
祈りというのは
光のはしごなんです
世界人類が平和でありますように
という
祈りの
エレベーターにのれば
そのまま
辛いまま
悲しいまま
肉体がいくら
辛がっていても
かなしがっていても
そのまま
光にみちる 
そういう
光の
エレベーターである
祈りを
私は
神様との
約束事で
いただいたんです
これは
私達みんなの
人類すべての
祈りです

誰をも
痛めず
誰をも
傷つけない
自己も
他己も
自分の心も
他人の心も
本心の奥の奥まで
てらして
そのままに
光にみちさせ
その人の肉体が
意識していようが
いまいが
光の世界に
つなげてゆく
祈りなんです

主の祈りも
南無阿弥陀仏も
聖者といわれる
人々が
説いた
祈りには
みなこの
力がこもっています
だから
どこから入っても
いいんですけれども
しかし
私が
神様から
いただいた
世界平和の祈りは 
この力の
源みたいな祈りなんです

主の祈りも
南無阿弥陀仏も
みんな
救世の
大光明が
かがやきわたっているのですが
世界平和の祈りは
さらに
救世の大光明の
本体そのものから
光を 
放射される
そういう
光の
本尊みたいな
祈りなんです

だから
この祈りを
してゆく内に
知らず知らずの
間に
みんなの心が
平和になり
平安に
なってくる
肉体ばかりではなく
霊体
神体まで
光がみちてゆくのです

そういうすごい力を
持った
祈りというものを
神様が
人間に
与えて下さっているのです
だから
何にも
心配することは
ないのです

もっと
いうと
みんな
厚かましく
五井先生に
荷物を
預けなきゃあ
みんな
遠慮して
こんなことを
五井先生に
頼んじゃわるい
こんな泣きごとを
ならべては
申しわけないと
思っちゃう

何が申しわけないんですか
預けて
任せて
スッキリした
いのちに
ならない方が
よっぽど
神様に
申しわけないんですよ

神様の 
前に
はだかになる
はだかの心で
祈るというのは
神様に
恥をさらす
ことじゃありません
人間の
おもいでは
はずかしいとか
何とか
あっても
そういう
色々なものが
まざっているのが
肉体人間の
おもいであり
おもいぐせなんですから
だから
それを
自分一人で
解決しようなんて
思うと
とんでもなくくるしいんです

そのまま一度
すっきりと
神様に返してしまう
返してしまって
もう一度
いのちの
明るい
朗らかな
光をいただく
自分の中に
かがやいている
天命に
気付いてゆく
天命の存在に
気付いてゆく

それが
日々の
新生ということであり
いただきなおす
生生
という
ことなの
です
そのことに
気付けば
おのずから
生命は
光に
みちるのです

あなた方の
生まれる以前から
守護の神霊は
あなた方の
いのちが
光にみちた
もので
あることを
知らせるために
あらゆる
手段を
使ってきて
そうして 
祈りの座に
あなた方を
みちびいてきたのです

この
守護霊
守護神
そうして
神様の愛を
おもうとき
私達は
自然に
暗い所から
明るい所へ
すなわち
闇から
光へと
場所を移され
いのちが
本来
その
かがやきを
放っている
世界
本心
本体
真実の
人間が
活きづいている
自由の
天地へと
永遠の住み家に
案内され
移されるのです

人間のいのちが
どんなに
自由で
明るく
無邪気な
神への愛と
人への愛に
みちたものであるか
この一点を
示されるために
神様は
五井昌久という
働きの
場所を
お使い下さったのです 

決して
私がとびぬけていた
わけではありません
私が
特別
とびぬけた
すぐれた人間で
あったわけではないのです
ただ
私は
どんな時にも
神様に
素直だった
神様の
前に
いのちを
投げ出して
完き
よろこびに
あふれこそすれ
それを
一度も
後悔したことのない
人間だった
ただ
それだけなのです
そして
これは
こういうことは
私一人に
おきることではないのです

実は
人間の
真性は
本来そういう
すなおな
光にみちた
ものなのです

人間というものを
考えるときに
みんな
どうしても
この
肉体界の
目に
みえる
範囲の
なかで
片づけて 
しまう

元々
肉体界と
いうところは
波動の
あらい
ところだし
肉体人間は
この眼で
たしかめられる
ものに
安心して
そこに
すがって
生きてきた
それが
ならい性なのです

けれど
それが
人間の
すべてではない
目にみえる世界
などという
せまい世界が
人間の
本来の
場所ではないんです

人間は
自由の天地の
住人です
神の
分生命
分霊として
縦横無尽に
神の光と
人にやどった
分生命
分霊としての
光を
交叉させて
働き
活きづいてゆく
その天地を
一人一人が
からだの
奥に持っている
そういう
存在なのです

神界は
あなた方の
なかにあるのです
一人として
神界の
住人でない
人はいないのです

みんな
神様の働き手
神様は
公平な
やとい主
みんなの個性を
みんなのいのちを
明るくして
明るく使って
自在な
天地を
つくって
ゆかれるのです

天地は自分自身
神は
あなた方の
なかに
住んで
光を
たえまなく
送っているのです

人間は
伸縮自在
どこにでも
誰のもとにでも
おもいを
とばしてゆける
だから
そのおもいを
すませれば
それは
祈りになり
光そのものに
なって
我々の心を
まわりを
この地球を
宇宙を
みたしてゆくのです

世界人類が
平和でありますように
という
祈り一念
その祈りのなかに
肉の身のかなしみ
この世での
やり切れなさも
すべて
放り込んで
ゆけば
光一元の
世界へと
みちびかれてゆくのです

我々が
やるんじゃない 
一人の
人間の
力はよわい
けれども
この肉体人間を
愛して愛して
愛し抜き
肉体人間の
奥の
天命を
いとしんで
やまぬ
宇宙神の
愛と智恵の心は
それぞれの
守護の
神霊を
動かさずには
おかない
力を
もっています

それは
まさに
きわみのない
愛であり
ゆるしの世界です
この世的な
おもわくや
利害などというものを
一切浄め切って
全く本来の
人間のすがたを
あらわさずにはおかない
神の愛なのです

よわい
人間には
かぎりがある
といったのは
肉体にとじこめられた
我々の
肉体世界で
おのずから
受ける
制約と
いおうか
限界を
さしているのです
けれども
決して
人間が
さながらに
持っている
ほがらかないのちを
指しているのではありません

おもいというものが
この肉体界に
渦まいて
いつか
とらわれとなり
業となり
それを放って
真実の
人間に
かえすために
神が私をつかわされたと
いうのは
度々
申し上げた
とおりです

おもいが
つくる世界には
限りがあるが
おもいを解き放った
真実
自由な
世界には
全く 
枠も
へだても
ありません
ただ
光かがやいて
いるばかりなのです

人間というものは
永遠の進化
こうした 
神様の
愛と
真理に
とけこむ
いのりとなるための
進化を
ずっとずっと
なしつづけてゆくものなのです

霊界も 
神界も
何百
何千という
向こうの
世界の
修行場も
そのために
存在している場所なのです

真実に
人間が
自由になること
つまり
神様の 
愛と光が
この地上に
そして
宇宙に
みちあふれて
大調和
という
大神様の
永遠の
いのちの 
ながれと
一体になること
その進化の
はじまりが

この時なのです 

みんな
こうした
人間本来の
相(すがた)をあらわし
すがたにかえる
時なのです
中心に
帰一し
老子のいう
無為のいのちに
遊ぶ
そのときなのです

祈りは

そうして

光は
我々とともにあり
光は
神様の
愛を
放射して
我々のいのち
をはげまし
久遠の
ながれへと
みちびいてゆくのであります
                昭和62年1月30日

あなたがたは 一人のいのちではない

2012-07-29 07:45:07 | 祈り
人間の
真実の
いのちの相(すがた)の
深さ
あかるさ
一点の
くもりもない
光の世界

  〇
光は
我等の
いのちを
みちびいて
すべての
闇から
くらき
心のおもいから
解き放つ
一人びとりが
神のいのち
神の
愛と
ゆるしに
支えられた
いのち
あかるい
あかるい
いのち

  〇
いのちよ
いのちよ
汝の
ながれは
永遠の神の
愛を
本源として
ずっとつづいて
ゆくのだ
私達を
神のもとへと
運んでゆくのだ
運ぶのも
運ばれるのも
それは
永遠の
ながれにそった
光輪の働き

いのちは
生きてゐることも
意識せず
ただ
神へ
宇宙神の
愛へと
みずからを
はこんでゆく
私達の
肉の身の
奥には
そうした
いのちが
活きづいているのだ

  〇
仰ぎみよ
神を
神のすがたを

天地自然ありと
あらゆるもののなかに
神の息吹きがあることを
おもうとき
ただ
生かされていることの
不思議と
天地の間に
呼吸することを
ゆるされた
恵みとが
迫ってくるでは
ないか

神の
不思議な
愛の働き
神の智恵
神のこころよ
仰ぎみよ
神のすがたを

  〇  
こころよ
惑うことなく
神の
愛のもとに
走れ

活かされている
この
私達のいのちは
光にみちて
天地
宇宙を
結んで
ゆくものなのだ

肉の身に
宿っている
いのちは
一人の
いのちでは
ないのだ

万人に
流れてゆく
一瞬にして
すべてを
結ぶ
いのちなのだ

世界人類が平和でありますように
という
祈り言のもとに
人々が
宇宙人類が
結集してゆく

あなたがたは
すべてを
結ぶ
いのちなのだ
          昭和62年1月18日

平和の祈りは易行道

2012-07-28 08:59:22 | 祈り
何物にも
とらわれぬ心を
神は
人に降ろして
光をこの地上に
ふりまかれた

神は
大愛
光の光
いつくしみと
ゆるしにみちて
何物にも
何事にも
動かされず
とらわれぬ
無為のいのち

すべてのながれは
この
神の
愛の元へと
流れて
光そのものへと
帰ってゆく
人間は
こうした
無為のいのちを
神から
分けられた
存在であったのだ 

粗い
波動の
なかを
生きるために
身にまとった
肉の身という
着物を
いつの間にか
人は
己れ自身と
思い込んで
守護の
神霊の
言葉も
神の
ひびきを
聴く
心耳も
働きを
とめたかのように
鈍くなり
肉の身を
生かす
いのちが尽きれば
それが
自身の果てであるかの
ように
思い込んでしまった

今まで
幾人の
聖者達が
この
人間の
思い間違いを
ただそうと
宇宙神の
光をおびて
地上におりきたったが
おもいに
とらわれた
人々の心は
なお
かたく
閉ざされた
まま今に到った

私は
無名の
青年
ただ
純一に
自分を
この世に生きる
人々のために
投げだし
みんなの
生命が
生き生きと
活かされるならと
日々
祈りつづけてゐた
その私に
神は
世界平和の祈り言を
伝えて
人間のおもいと
心とを
一つにし
愛と
光で
地上を満たして
天地に
肉の身のまま
往還する
真の
霊人を
つくれと
いわれた

いや
元々
人は
心霊一如の
存在
ただ
この地上の
生活に慣れた
人間の
肉体を
滅することは
神の本意ではない
だから
肉の身のまま
奥に隠れ
眠っている
霊そのもの
光明そのもの
ほがらかな
人間の本心を
神のいのちを
世界平和の祈り
によって
宣り出して
ゆくのだ
という
神の深い
愛の言葉を
きいたときの
私のよろこびと
感謝は
天地宇宙に
拡がった

平和の祈りは
易行道
自らの
心の奥の
愛と感謝を
呼びさます
祈り

人であれば
誰しもが
願う
世界平和を
この
地球に生きる
すべての
人類に
思いを馳せ
呼びかける
おもいで
なされる
祈り

自己を含み
利を放ち
我を溶かしてゆく
祈り

誰よりも
この
祈りの
光明のすばらしさを
知っているのは
五井先生

すべての
神霊が
聖者が
一人一人の
いのちの中に
働かれる

守護霊
守護神が
すぐれた
宇宙の
霊人達が
この祈りを
唱える時
光を結び
紡ぐ者となって
みんな
あつまってくるのだ

私達の
奥の奥の
本来身
自由自在な
いのちの光に照らされ
すべての
天地を
解き放って
霊人が
私達の
本心へと
降り給い
私達もまた
かがやく
神の
光となって
宇宙を
往還し
三界の
いのちを
浄めて
ゆくのである

その時
私達は
肉の身を
持ったまま
霊止へと
かえり
宇宙神の
朗らかな
愛と智恵の光のなかに
人間を活かしめている
中心へと
帰一しているのである

   〇
すべては
神の愛
守護の
神霊のはかりごと
心素直に
神をおもい
神に従えば
この身(肉身)は
消えて
霊そのもの
光そのものと
なっている
自分を
みることが
できる

   〇
私はすべてを
神に返して
朗らかになった
           昭和62年1月4日

かえし受けるいのち

2012-07-27 07:59:18 | 祈り
 私どものいのちは、日々神様からの光を
いただいて保たれているのでありますが
自分自身を絶えずあたらしくするために祈りが
あり、一瞬一瞬に、古い自分を返しつづけて
いるのだということを、考えてみたいと思う
のであります。

 一体自分とは何でありましょう。自分とは
肉体だと思う人があるかも知れない。あるいは
又、心だと思う人があるかも知れない。

 では、私は、何と思っているかをここで
申します。

 自分とはいのちであります。いのちそのもの
であります。神の光を受け、霊要素、霊気を
呼吸して生きるのが自分自身、人間そのもの
なのであります。

 人間というものは、こんなちっぽけな肉体の
中に閉じこめられているものではありません。
 人間の真性は、天地宇宙をつらぬいて、
神の愛と一体となっているものであります。

 神の光に抱かれ、宇宙神の愛とゆるしの
大光明の一筋となって永遠に生きゆく
相(すがた)、それが、いのちというものの
真実の相なのであります。

 昔々、まだ、人間が、空気のように霊気を
呼吸し、神の光を、よろこんで身に浴びて
おりました頃、人間と神との交流、人間と
守護の神霊との交流というものは、誠に畏れを
持ちながら、和に満ちていたのであります。

 いのちというものの朗らかさ、永遠に活きづく
本心そのもののかがやきが、神や守護の神霊
との交流のなかに、自らを突き動かして
いることを、人間達は知っていたのです。

 実に自然に、いのちというものが、つねに
あたらしくされ、日々瞬々いただきなおすもの
であることを、本心本体そして心が知って
いたのであります。

 祈りの言葉というものも、ひびきそのままの
交流であり、交歓でありましたが、つねに自らの
いのちのかえるべきところが神であることを
よろこびながらの祈りでありました。
 こうしたすがたは、人間本来のものであり、
今、宇宙の星々に宇宙神の愛をうけて生きて
いる私どものすぐれた先達、宇宙人類達は、
さながらこういう心なのであります。

 いのちの流れというものはとどまることを
知りません。そしてそれは、肉体などという
私ども肉体人間の眼を超えた、霊妙なひびきを
持つ光そのものの光体を貫き、遂に宇宙神の
みふところに流れ込んでいるものなのであります。

 つねに新しくされるということは、古い自分を
脱ぎ捨てているということでありますけれども、
これが、この現世における「死」とおなじように
とらえられるならば、それは全くことなった死
なのであります。

 本来、いのちというものは、ずっと、神の愛の
もとにみちびかれて絶えることのない流れ
でありますので、その節目節目における「死」は、
一つの仕事、修行をやりおえた私どもが、
さらに素直に神様の光のなかに生きるために、
また、より深くより広い人類の進化のために、
一区切りがついた、そして、次はここだという
本心本体への覚醒を指すのであります。

 私どもは、すきとおるような神の愛と神への
愛を受け、又ささげるために、この地上に、
また宇宙に連なる存在なのでありますが、
こうした光体から、遂に神の光の一筋と
なるために、永遠のいのちを受けて
いるのであり、祈り-世界平和の祈りは、
各自に分けられたこのいのちのかがやきを、
いやが上にもかがやかすのであります。

 こうした人間のいのち、自分自身は
かがやく神の光であり、いのちであると、
祈りのうちに、この宣言を神への最上の
そなえ物とする時、辺りはよろこびの光に
みちるのです。

 どうか、果てしなく円環しつづけるいのちを
みつめるためにも、一切を消えてゆく姿と
観じ切る、とらわれを放つ神への信をかためて
いただきたいものであります。

         昭和61年12月16日 夜
             五井 昌久