宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

続 さやけき生命(2)

2021-02-28 05:37:34 | 祈り
      (前日からの続き)
この一番必要なものというのは、イエスも
“なくてかなわぬものは一つだけだ”と
言いましたけれども、あのマルタとマリアの
話の中で、妹のマリアは、イエスが来た時に
じっと座って、イエスの話ばかり聞いていて、
姉のマルタは、一生懸命イエスをもてなそうと
いろいろ用意していて話も聞けない、それで
マルタがイエスに訴える場面がありますが、
そこでイエスが言ったのは、マルタよマルタよ、
そんなに心を騒がせないがいい、なくて
かなわぬものはただ一つだ。
マリアはそのよい方を選んだのだと。
これをそのままにとったらね、マルタは
無駄働きをしているように思うけれど、
そうではなくて、そのせわしく人間が
追い求めてるものが必ずしも全部人間に
必要なものじゃなくて、本当に静かなもの
というのが人間を養う。
その人間を養う静かなるもの、なくてかなわぬ
もの、つまり、神様に向かっての誠心が
私たちの生命を養っているものだということ
なんです。
これこそが、自分たちの生きる元です。
          (つづく)

続 さやけき生命(1)

2021-02-27 06:45:06 | 祈り
引っ掛(かか)らず生きてゆくということは
非常にむつかしいんですね。
何もうまくゆかないとか、どうしたらうまく
ゆくだろうとか、そういうことばかり
考えるように人間というのは出来てる。
というか、そういう想いの習慣で
来てしまっている。
そうですね。
ところが、神様の世界の中では、うまく
ゆくもゆかないも、ちゃんともう備わって
いて、そのままゆくようになって
いるんですよ。
人間の方が、あれやこれや思い悩んで、
奥のものを見るということがだんだん
なくなって来てる。
そういう習慣をつけるということが、昔は
あったんだけれど、今は少なくなって来た。

そういうことで、なんかこう静か心という
ものが無くなって来た。
静かに自分の裡(うち)を省(かえり)みる
とか、自分という存在は何だろう
というようなことを見つめることが、
少なくなって来てるんですね。

ところが、そういうことが、人間の生命を
養うんです。
つまり、祈りというものが人間の生命を
養ってゆく。
静かに自分を省みて、静かに目を閉じてみる。
そういう時間が本当は自分を養ってゆく。
ところが今世の中はせわしくなっていて、
セカセカ動いている。
セカセカ動かないと、自分が置いて行かれる
ようなスピードで皆んなが動いている
ものだから、自分も動かないと置いて
行かれると感じる。
その繰り返しで、追い付け追い越せですよね。
ところが、神様の世界というのは、何も
しなくても必要なものは全部与えてもらえる。
その代わりに何が一番必要かというと、
神様に向かって素直に神様よろしくお願い
しますという心、それが一番必要なことに
なる訳です。
        (つづく)

さやけき生命(11)

2021-02-26 10:19:14 | 祈り
      (前日からの続き)
しかし、人間がスーパーマンで、何でも
出来て、それで人間万才(ばんざい)に
終わってしまったら、本当の科学でもないし、
本当の宗教でもない。
本当の宗教というのは、神様への謙虚な
畏(おそ)れをもった祈り心というものを
基盤にしてやっていかなきゃいけない。
地位を争うとか、自分の立場や偉大さを
顕示するとか、そんなものはないんですよ。
本当は、光と光が口を利(き)いてる
だけなんです。
人間というのはそういうものなんです。

そこで、相手に腹立つことも我だし、それに
腹立つ相手も我ですよね。
肉体の想いぐせでいろいろと出てくる感情想念、
これらは消えてゆく姿だと思って、人間の
真実の姿に近づいてゆく。
そのために日々を祈りましょうと申し上げ
てるわけです。
        「さやけき生命」前半 了

さやけき生命(10)

2021-02-25 07:16:20 | 祈り
      (前日からの続き)
“永久(とわ)なる生命、祈りて行かん世界平和”
でしょう。
つまり、自分が自分がで行くと、力んで自分が
頑張ってやろうとすると、そこで限られて
しまうんです。
自分の限界だとかね。
この世の生命が70年80年だろうと、人間の
本当の生命というのは、これはもうずっと
あるんですから。
永久なる生命につながるもつながらないも、
我々はずっとつながっているんですからね。
そのことを思いながら生きて行くとすれば、
自分のなかにある光、神様から来るみ光、それを
自分の生命として宣り出して、世界平和の祈りを
祈り、神様ありがとうございますと言える。
そういう信仰を深くもつことですね。

しかし、信仰も力まなくていいんです。
自分でやろうとか、頑張って自分がやらねばとか、
そうなると不自由になるんですね。
信仰、宗教というのは、自分を不自由にさせる
ものではないのです。
自分が自由になるためのものです。
自分が自由自在に動けるためのものですよね。
人間は本来自由自在なんだからね。
神様に守られて支えられて、何でも出来る
存在なんだからね。
我々が五感に感じているこの私自身は、
ほんの一部の働きでしかないんです。
あとは氷山のように隠れているんですが、今、
少しずつ皆んなが知らされて来ていて、科学の
力でも知らされて来る。
もう少し経つと、宇宙子科学など結果が
現われて来て、いろんなことが出来てゆく。
知らされてくる。
そういう時代になるでしょう。
               (つづく)

さやけき生命(9)

2021-02-24 06:40:14 | 祈り
      (前日からの続き)
それだけの話ではなくて、神様、今一生懸命
乗り越えています、乗り越えようとしています。
つまり、持ち場で一生懸命やっていますという
時には、やっぱり光が入って、そこから確実に、
神様というのは、よしこれでいいと思えば、
ちゃんと卒業させて下すって次の場所に行く。
ところがそこで迷うと、そのぶんだけ遅れて
しまう。
そこへしがみつくことになるから遅れてしまう。
もうどうでもいいです、どうにでもして下さい、
と皆んな言うんですが、どうにでもして下さい
と言うのは、ヤケで言っちゃ駄目。
気持ちを開いて言わなきゃだめね。
ヤケだというのは自分がまだ残っているから
ヤケになる。
神様と一緒になれば、ヤケも何も無いんですよ。
神様が動くのだから、神様が働くのだから、
多少どこかが痛かろうが苦しかろうが、神様が
させるのだったら文句は言えない。
そういうものなんです、人間というのはね。

神様というのは、母親であり父親であり、親
なんですね。
親がピタッと寄り添っていて、それで世界平和の
祈りの中に神様が詰まっていて、神づまりの
人間がこっちにもいてね。
我々一人一人の中に神様が詰まっていて、
小宇宙と大宇宙が握手して合体している。
そういうことが本当に思えた時に、人間は
一段階も二段階も上がるんです。

だから、力んじゃだめ、気負っちゃだめ。
自分でやれることなんてたかが知れている。
自分が負わなきゃならないものなんて、たかが
知れている。
どんな地位にある人であっても、その地位を
もって、お金をもって死ねるわけじゃないから、
そんなもの持って霊界には行けないんですよ。
裸で生まれて裸で死ぬ。
その時に、神様の愛だけをもって向こうへ
行けばいい。
それだけをもって行けば、ものすごく楽ですよ、
ということを私は教えて来たんですね。
        (つづく)