宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

言葉を超えた心(2)

2023-11-28 15:08:49 | 祈り
     (前日からの続き)
目は口ほどにものをいうということは、我々が
日常に経験していることであります。
こういうときには、我々は、言葉よりも、
直接に、相手の心にじかに、自分の心を
ぶつけてゆくことになるのです。

無言であっても、その無言であることが、
百万言をついやすよりも、その人の心を
あらわしているということです。

私ども、宗教にたずさわります者は、
こうした心、言葉を超えた人間の心
というものに敏感でなければなりません。

心というものを言葉でおおうことは
出来ません。
言葉を心でおおうことを、むしろ、
私たちは心がけるべきであります。
そして、自分の心と、人の心を大事にして、
ともに祈りの座につきながら、愛という、
人間の言葉を超えた神の心に、すなおに
溶け込んで参りましょう。
      昭和61年8月29日
         五井 昌久

言葉を超えた心(1)

2023-11-27 08:22:58 | 祈り
言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、
人間には沢山あります。
よく、あの人は論客だという言葉を耳にします。
たしかに雄弁な人の言葉は、ちょっときくと
耳にさわやかなものです。

しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた
思想や哲学でも、たとえば、人間やいのちという
ものを突きつめてゆくと、どうしても答えが出て
こなくなってしまうのです。

なぜかと申しますと、これは、私たちのいのちや、
人間の存在というものを科学的に説明しようと
するからであって、究極まで参りますと、
おのずから言葉にならない世界に突きあたる
のであります。

そこで、ここからが宗教の領域ということに
なるのでありますが、シュヴァイツァーが、
生命への畏敬といったあの言葉は、科学者として、
また、一人の人間として、実に真理の的を得た
言葉だと思うのであります。

人が、科学の究極まで人間というもの、いのち
というものを、それぞれの分野で追いつめた
その時に、生まれるものは、畏れをもった沈黙
でありますが、生命の畏敬という彼の言葉は、
この沈黙の前に、人間が発した尊い言葉である
と思うのであります。

ところで、ここまでのことではなくても、
人間には、いわくいいがたい想いというものが
ありまして、それは言葉では表わせない
ということがいくらもあるのであります。
            (つづく)

愛について

2023-11-26 06:23:54 | 祈り
皆さんおはようございます。
今日は、愛ということについてお話したい
と思います。

人間が生きてゆくなかで、欠かすことの
できないものは、いくつかあります。
水、空気、その他考えればいろいろある。
これらは、私たちの肉体が生命を保つ上で、
欠かせないものです。
よく、山道に迷って、一週間、水だけで
生きのびたなんていう記事がありますが、
水は、本当に、我々の生命の源なんですね。

ところで、この生命の源ということも、
ずっと考えてゆきますと、最終的には、愛に、
神様の愛にたどり着くわけです。

空気や、水は、我々の肉体の生命を
生かしめるために、是非とも必要な、欠かす
ことのできないものでありますが、その肉体を
養い、またかたちづくっている根元は、愛
という神の心なのであります。

我々一人一人の生命は、神の愛、神の光を
受けなければ、とても生きつづけられるもの
ではありません。

人間は、神の愛によって生かされている。
そしてまた、神の愛が、この身に、心に、
喰い込んでいる存在なのであります。

このことを忘れて、本当に生き生きと生きる
ことはむずかしいのであります。
思いやりを持つこと、人をおもうこと、
愛深くあること。
神の愛は、私たちの中に、光となって
宿っているのです。

一人が一人に、やさしく接する時、そこに
神様の光はかがやくのであります。
私どもの心も平和になるのであります。

愛というものがあって、はじめて生きることが
できる。
人間とはそういう存在なのであります。

愛すること、愛されることを知り、祈ること、
祈られることのなかに、真のよろこびを見出して
ゆく、私たちはそこにこそ存在のよろこびを
見出してゆくのであります。
       昭和61年8月27日 記
           五井 昌久