宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

宇宙神と同格ということについて(3)

2021-06-30 08:27:05 | 祈り
     (前日からの続き)
普段は、自分が光明体であるということを
皆忘れて生きているんです。
何故かというと、この世の中というのは、
忙しいんですね。
仕事しなきゃなんない、連絡しなきゃ
なんない、子供の面倒はみなきゃなんない、
夫婦の中で解決しなきゃいけない問題がある、
親子の中で解決しなきゃいけない問題がある、
家庭はある・・・。
そのことで自分が光明身だとか、そういう
体を持ってるとかということは、なかなか
肉体のこの意識からはのぼって来ない
訳なんです。

で、心を鎮めて、皆で統一して
さあ祈りましょうという時には、それは
スーッと出て来やすい訳ね。
それは、何も祈ったと同時に自分自身が
変わるんじゃないんです。
自分自身というものは本人が意識するしない、
あなた自身が意識するしないに関わらず、
光なんです。
何故かというと、神様から分かれて来ている
生命だから、分生命(わけいのち)だから
光なんです。
それはどんなにその人が何を表面的に
どうしようと、奥にその光明があって、その
光明が出たがってる。
そして、その人本人のその余分なものを
取っ払っていったら、その人自身も光になる。
で、その光は愛とゆるしと平和である。
ということにおいて皆平等なんです。
同じなんです。

その愛とゆるしと平等の元の元、平和の
元、それが宇宙神なんですね。
だから、あなた方は宇宙神と同格である
というのは、そういうもともとあなた方の
中の生命を生かしめている想いだけじゃ
なくて、肉体も全部含めてね、我々からすると
煩わしいものも全部含めて、この世の中に
生かしめられて働かしめられてるその元の元が
愛とゆるしと平和だから、その大元を
辿って行けば、何度も言うけれども、つまり
宇宙神だから、それは本人が意識するしない
じゃないんですね。

昌美があの時あれを言ったというのは、
もともと宇宙神と同格であるというのは、
そういう分かれてきた生命の末、元と末
ですから、で、その末というのは萎びるん
じゃなくて、これからもずっと続いていく
末だから、ずっと連らなってるものだから、
もうそろそろあなた方が光明なんですよ
ということを、あそこであの子は
言いたかった筈なんですね。
そうして、それぞれに分けられている光明身
というものをずっと繋いでいって、祈りに
していって、そうして、世界人類が─
とやっていけばね、そうしたらつまり、
それは宇宙神のみ心になる訳。
宇宙神のみ心と一つになる訳です。
そこに入っちゃう訳ね。
             (つづく)

宇宙神と同格ということについて(2)

2021-06-29 09:04:15 | 祈り
    (前日からの続き)
同格だというのは、何において同格か
というと、皆さんの奥の奥の悟ってる本体、
神体ね、肉体じゃないですよ。
神体、本来心というものがね、何によって
できているかというと、宇宙神からの
光明と(光と)ですね、愛と、そういう
ものによって生きてる訳なんです。
宇宙神の愛というのは、これはもう極まりの
ない愛なんですね。
すべてのものを生かそう、すべてのものを
より良くもって行こう、敵も無いんです。
味方も無いんです。
あるがままなんですね。

そういうものが、我々のこの肉体、我の強い
肉体を通して光になって、そして、我々は
肉体の生命を養ってもらってる訳なんですね。
そして、自分の内の奥の奥にもそれと同じ
ものがある。
そういうことを考えますとね、つまり、
我々というのは意識するしないに関わらず、
愛したいと思う、仲良くやりたいと思う、
平和にやりたいと思う、喧嘩をしたくない
と思う、砕いて言えばですね、そういう
気持ちね。
つまり、世界人類が平和でありますように
という気持ち。
何処にも戦争がなくって無事に平穏に、
皆がそれぞれに、それぞれの家庭で
生きていけたらと思う。
その祈りの気持ち。

それは何かというと、ずっとつき詰めて
いくと、宇宙神があるがままの生命を認めて
そのままにありのままに生かしていく。
それが自分の望みであり願いであり祈り
であるんだと。
その本来心の祈りを受けて、世界人類が
平和でありますようにというあの文句が
出来た訳ですから。

ということは、自分の中にも、ものすごく
素朴だけれども、そういうふうに祈る、自分の
家族のこと自分のことまわりのこと、そこから
ずっといって世界人類のこと、本当に平和で
あればいいなと祈る。
そういう何ともしれない想いが湧き起こる。
湧き起こる時には、人間というのは、
その時には我には満たされてないんですね。
やっぱりその時には光になってるわけ。
その光というのは、祈る時にもちろん
強められるし深められるし、こっちから
見ていると光明そのものになるけれども、
祈る時だけが光明かというとそうじゃない。
          (つづく)

宇宙神と同格ということについて(1)

2021-06-28 08:30:09 | 祈り
今まで何度か説いてきましたように、人間の
生命の流れというものは、本来、宇宙神の
ずっと深いところまで繋がっているんだという
ところまでお話ししたかと思います。
それでこの間、直線的に昌美(現会長)が
宇宙神と皆さんとは同格であると、そういう
ことを言ったかと思います。
それで今聞いていると、諸説紛々だというので、
じゃあちょっとこちらからのメッセージを
言ってみようかと思うんですけれど。

同格というと、同格という言葉にまた把われる
のが人間なんですね。
じゃあ同格というと宇宙神とまるで同じ
ということになると、じゃあ宇宙神というのは
何かというと、すべてのすべてなんですね。
生命の元の元。
人間の生命だけじゃなくって、この宇宙
全体を造った、もう造ったも何も造る
前からいた。
それと同じかということになると
仰天しちゃう訳なんです。

何故かというと、人間というのは、この肉体
という不自由なものを持ってまして、一日の
内でも、何度も何度も言うように、気分が変わる
喜怒哀楽が出てくる。
そういうものと宇宙神が同じだと言われて
しまうと、とんでもないという気持ちが
まず出て来る。
それでなくったって我々は凡夫なんだから、
いただき直しの生命なんだからといって
ずっと説いて来て、そして皆さんも祈っている。
そういう中で、そういうふうに言われてしまうと
わあ─と思う。
思うけれども、昌美が言ったのはね、その
生命の現われとしての宇宙神と一緒なんだ
というふうに捉えてしまうと、つまり、
全体の存在と同格だというふうに捉えて
しまうと、皆困るんですね。
そうじゃない。
じゃあ昌美は嘘を言ったのか、そうじゃあ
ないですね。
        (つづく)

心のながれについて(4)

2021-06-27 07:21:37 | 祈り
   (前日からの続き)
私に言わせれば、さっき言ったように、
人間の生命というのは神様の分生命(わけ
いのち)ですから、神様の光を一瞬でも
滞らせちゃったら、これは生きて
いけないんです。
人間というのは。

だから、器としてどういう風に用いら
れるか分からないけれども、その用い方は
皆違うんだけれども、しかし、この人間は
まだこの世に用があるという場合は絶対に
御用済みにならない。
今日目覚めて、そして生きてるという
ことがわかったら、あーこれは生かして
下さってるんだ、生きてるんじゃない、
生かして下すってるんだと。

だから、自分がどういうふうに器となって
いくか分からないけれども、全身でですね、
お任せします、よろしくお願いしますと
言って、守護霊さん守護神さんに
言い続けてごらんなさい。
あるいは、五井先生に言い続けて
ごらんなさい。
そうすると、実際に、食べるために
着るために、あるいは住むためにね、
仕事でもお金でも入ってきますよ。
肉体を養うにはね。

何故かといったら、霊の生命だけじゃ
この世の中はやっていけないから、この
世の中で、神様のために働かせるために、
神様が必要であれば生かしていくという
ことは、肉体を養っていかないと生かして
ゆけない訳だから。
そうすると、この人間には何が必要で
あるか何が必要でないかというのは、
向こうの方でよくご存知ですから、そこで、
絶対に自分が生かされていくんだという、
そういうことですね。

私は何にも取柄がなかったけれども、
とに角任せてしまったね。
そうして、何もかもゼロ以下になって、
それでも、人間というのは神様が養なって
下さるから生きてゆけると、そのくらいの
素直さだけ持てた。
そうしたら、貧乏にもならずに何とか
この世の中生きて、子供も授かって孫も
授かってゆけた。
その時その時、私はこうして下さいと言って
望みはしなかったんですね。
いろんな夢とか希望とかいうのは別にして、
是非ともこうならなくては困ります
というふうには望まなかった。
そうすると、自分が想い描くよりも
もっと以上のものを神様は与えて下すった。
そういうことなんです。

つまり、自分の本心の中へ、自分の
本心の中へというのは、神様の心の中へ
ですね。
その心の中に一致して、一致させて祈り言を
いってゆくと、世界人類が平和であります
ようにとずっと祈りつづけてゆくと、そこで
神様というのは、その一人一人の人間にとって
一番大事なものを下さる訳なんです。
ですから、そこを信じて私どもは
世界平和の祈りを成し続けてゆきたいと
思いますし、また成し続けていらっしゃる
ように、私はこちらから光を送り続けて
まいりたいと思っています。
     昭和63年6月13日(月)
         五井 昌久

心のながれについて(3)

2021-06-26 10:27:30 | 祈り
             (前日からの続き)
人間の生命というのは、神様の霊的な
そういう健やかなところからの流れが
来ないと止まっちゃうんです。
生命というのはね、神様の分かれだから。
だから、神様の方で、この人間を
何かの形でまだまだ生かして、器として
動かしてゆかなきゃと思うかぎり、
我々は死にたいと想ったって生きて
いかなきゃいけない。
死ぬことを許されないわけなんですね。
霊界移行をかってにできないように
なっている。

例えば、お金がない、明日からどう
しようという所までいっても、そこで、
あれっと思うところで道が開けてくる。
神様なんだから、お金でも何でも自分の
思うままに湧かせることが出来るんじゃ
ないかとか、いろいろあるんですけれどもね。
ただ人間の生命というものは前生も
前々生も生きてここにこうして存在して
おりますから、いろんな借金返しが
ありますね。
その借金返しを済ませるというのは
大変なことなんです。
何が大変かといったら、人間にはまず
欲があるんですね。
欲が絡んで人間関係が拗れるとか
というのは、これは一番やっかいな訳ね。

例えば、前の世の中で喧嘩別れして、
もう絶交だとかあるいは生命のやりとりを
やったとかね。
あんまり穏やかではない話だけれども、
そういう相手ともう一回、守護の神霊が
後でくっつけて、それで何とか
この世の中でしようと思ったって、相手が
猛烈な金持ちでこっちがそれほどお金
持ってないなんていう、そういう極端な
環境の中で合わせたとしたら、これは
なかなかねー。
僻み根性というんですかね。
例えば、片っぽが一千万持ってる、
片っぽは五十万位しか持ってない。
五十万対一千万じゃね。
この世の中でパッと見はですね、一千万の
方が多いから、五十万の方は萎縮しちゃう
わけね。

ですけれど、その五十万をどう生かすか
なんですね。
今手許にあるものをどう生かすか、自分の
生命をどう生かすか、ね。
それによってお金というのは増えもするし
減りもするんです。
その一千万というのは、私から言わせ
ますとね、つまり、その人の努力の賜物
でもあるかもしれないけれども、前の
世の中からずっと積善をしましてね、
陰徳積んで貯金を増やして来て、それで
現われてきた環境の中の一千万かも
しれない。
そうしますと、その一千万の上に
あぐらをかくと、一千万なんてお金は
たちまちに消えてなくなる。

なくなった時にどうするかというのは、
その人の心の現われになる訳なんです。
そこで本心を輝き出させるということが
これは並大抵の事じゃないんです。
人間生きていかなきゃいけませんので、
なかなかそれが大変なんですけれども、
でも出来るだけ素直にね、任せ切るなんて
いうことはなかなか出来ることじゃない
けれども、でも、「すいませんよろしく
お願いします」と言ってしまって、祈って
祈って祈っていきますとね、そうすると
いつの間にか、ああこういうお金が
入ってきたなあとか、ああこういう人に
会って助けられることになったなあとか、
そういう何か援助がね、まわりについて
くるんですよね。
その辺が、自分には一千万あるから大丈夫
だと思ってあぐらをかいてしまって
何にもしない人。
しない人というのは、いわゆる心やさしく
まわりに対しても自分に対しても気配りを
しない人。
それでこの世の中を渡ろうとしてしまう。
欲で渡ろうとしてしまうと、これが一番
駄目なことなんですね。
          (つづく)