臓器移植が良いか悪いかということはね、今
日本の中で問題になって議論されている訳ですね。
問題になってるというのは何が根元かというと
愛するものと別れたくない、愛するものの体に
傷をつけたくない、という風なことねえ。つまり
臓器を移植される側の人達の悲しみですよね。
五体満足のまま焼いてあげたいとかですね。何か
そういう気持ちが日本人には非常に強いんです。
これは、何の宗教を信仰しているとか何とか
じゃなくって、日本人の精神性といいましょうかね
国民性といった方がいいかしら、そういうもの
なんですね。だから、自分の愛するものの臓器が
例えば肝臓や心臓、腎臓というものが、何かの為
であるにせよ、ぼんぼん持ってゆかれる、傷がつく
ということは耐えられない気持ちがする。
それと今は、人工的な、肉体の臓器じゃない
ものが発達を致しましてね、それが働きをする
ようになる。そういうもの二つからめて考えて
いかないと、つまり、人工の臓器移植と、肉体の
人間の臓器移植と両方考えていかないと、いいか
悪いかという問題は駄目なんだということです。
人間の生命というものは、我々から観れば
ずっと生き通しのものなので、たとえこの世で
区切られても、次の世の中で、又次の世の中で
ずっと神様の世界へ入り込むまで生命というのは
永世なものなんですけれども。しかし、まだ
そのことについて迷いをもったりね、この世の中で
死んでしまえば終わりだとか、色々な悲しみや
嘆きをもってる人達の想いがある訳なんですね。
そういう人達からみれば、もうこの世で生命が
終わりになるのに、そこで臓器移植をされてしまう
ねえ、受ける方じゃなくて、されてしまうという
悲しみがある。その空気がなかなかあって、受ける
側はそれで生命が何とか助かるんだからいいけども
される側の身になってほしいという気持ちが
拭えない訳なんですね。
そして一方では、先っきも申しましたように
臓器が人工的に出来るようになると、なかなか
これはね、肉体じゃないものが便利になった
という問題だけじゃなくて、我々のような立場
から申しますとね、つまり、人間の内臓、心臓
であれ肝臓であれ腎臓であれ、あるいは脾臓
であれ何であれね、内臓にまで霊要素という
ものは入ってる訳なんです。だから、その霊要素
というものが微妙に働いて、我々の生命を助けてね
そうして、向こうの世界と交流をして、神様の光を
いただいて、色々なものが合わさって、ついに
光体が我々の奥の体に入りこんで、それでもって
我々の生命が成り立ってる訳なんですよ。だから
人工的な臓器移植がどんどん発達して行った時に
何かそれさえすれば生命が助かるとか生き伸びる
とかと、簡単に生命というものを考えてしまい
かねないという怖(おそ)れが一方には確かにある
訳なんです。
じゃあ、臓器移植は絶対駄目かというと、そう
じゃないんですよ。例えばね、交通事故なんかでね
誰にも働いて欲しい、もう50や60でこんな事故
なんかで向こうの世界へもっていかれるのは、皆の
為にも個人としてのその人の運命を考えてもね
とてもたまらないという場合には、守護霊様
守護神様よろしくお願いしますと言ってですね
そして、臓器移植でも何でもやって、何とか
この人の運命も、この人に関わる色んな人達の
運命修正も、この人を通してこの器を通してさせて
下さいと、皆やっぱり祈ると思うんです。そういう
臓器移植がね、やっぱりないとはいわない。
ただ私が申しますのは、それが一人や二人ならば
いいんですよ。一人や二人ならば、そういう祈りに
満ちた、皆の祈りに支えられて、たとえ肉体の
臓器移植であろうと人工の臓器移植であろうと
そこに霊要素的なものが加わって、本当の意味で
その人が真実に生きるというところへ持って
いかされるし、又そうなってるから
いいんだけれども、これが本当に今のようにね
イギリスに行かなきゃならない、オーストラリアに
行かなきゃなんないという風な形で、皆が病んで
病んで、たとえそれが解決され進んでいったとした
ところで、本当の意味で、生命への畏れが
なくなって来た時に、それがこわいという問題が
一つある訳です。そうして、我々の立場からすれば
我々の生命の元が何処にあるかということを、その
大元を考えることを忘れたら、これは、臓器移植
是か非かという問題と同じ次元で議論しなきゃ
ならなくなる訳です。
我々の生命というのは、絶対な神様の愛、生命
から分かれてきてるものなんですね。神様以外から
この生命というものは出て来てないんです。
世界人類どの人一人とってもね。例え、世の中に
とても貢献をしてる人も、あんな人がと思うような
人の生命であってもね、裡(うち)の本心本体
というものは、皆神様から分かれて来ている。
だからそういう意味で言えば、皆神の子供
でしょう。そういう分け隔てのない公平な
本心本体をもってる、生命をもってる、我々の
大元、それは何から来てるか、それは神様
からなんだ、神様の愛なんだと。何度もくり返して
申しますけど、我々は神の分生命(わけいのち)
であって、我々はこの地球世界の運命修正
というものを、それぞれの持ち場持ち場で
さりげなくやっていかなきゃなんない。そういう
大きな大使命みたいなものをおびて、この肉体を
まとって、ここへ生きて存在してる訳ですよ。
だから、そういう大使命といいますか、何で
この世の中に、人間が何処から分かれて何の為に
生きてきたか、何の為に分かれて来たか、その
根っこは何なのか、というところをね本当に謙虚に
見つめ直した時には、そこに怖れ畏みが
出てくるんです。慎みが出て来て、祈り心が
出てくる訳なんです。
ところが、今の臓器移植の是か非かという
問題はね、そりゃあ色んな宗教家とか、日本人の
倫理観とか生命観とか、風土の違いとかね、色々
議論しておりますけれども、良いか悪いかの問題
だけでこれは決められる問題じゃない訳なんです。
良いか悪いかから出発して、いけないとは
言いません。何故かというと、人間というのは
良いか悪いかから出発しないと、悲しいことに
深いところへはなかなか行けないものでして
そこから何か侃々諤々(かんかんがくがく)の
議論が始まって、随分曲がりくねって、やっと
深いところへそれぞれが到達するんです。だから
今の議論が悪いとは言いませんけど、今の議論
というのはイエスかノーかなんですね。良いか
悪いかだけで片づく問題ではないのに、良いか
悪いかの次元でやってる空気では困るんですね。
実は、臓器移植がどうのこうのというよりも前に
我々はこういうもっともっと深いところを見つめて
その上で自分の存在の根元を何処に求めるか
それは神に求めるんだ、神様の愛に求めるんだ
という、その深いところを見つめた人たちが
こういう是か非かだけで侃々諤々やってる空気の
流れをね、もっと愛のある光のある平和に満ちた
空気の流れに変えていかなきゃならない。本当の
ところを言えば、我々のなすべき仕事というのは
それなんですよ。臓器移植というものは、本当に
必要があって、その人の運命、生命に、あるいは
器にとってそれがその時必要であれば、神様
というのは何が何でも臓器移植をさせると思うね。
あるいは、させられる人もする人も決まってる
かもわからない。だけども、私がここで
言いますのは、そういうことによって人間という
尊厳に満ちたこの存在がね、つまり、神様という
もの、その根っこのところ親のところ大元の
ところを忘れ果てて、何か品物を交換するみたいに
生命というものがただ単純に連らなっているんだ
という風に思ってしまったら考えてしまったら
非常に恐いことになる。だから、そういう風潮に
なるのをくい止めていくというか、くい止めるその
空気をつくる、それが我々祈りの同士のやはり役目
なのではないかと。
本当に世界が平和に調和した時には、臓器移植を
例えすることがありましてもね、する方も
される方も、本当にありがとうございますと
受けとってね、それから、された人の方の記憶
というのもね、した方の記憶というのも
それぞれの子孫につながって行きますよ。今は
どうしても我々は、健康になった人の方の生命
生活という方をやっぱり覚えていきましょ。ね、
心臓や肝臓の提供を受けたあの人のおかげで、私の
夫、子供の生命が助かったんだと最初は
思いますよ。で、忘れにくいとは思うけれども
しかし、それで元気になってる我子や主人とか娘や
息子とか見てゆく内に、やっぱり、その人の為に
その臓器を提供してくれた人の、それまで生きた
生命の過ぎゆきとかなどは何処かにいっちゃって
目の前の人が元気になっていく、それだけの人間に
なっていく訳なんですよ。そうじゃない、やっぱり
それを提供してくれた人達への感謝尊敬、怖れ慎み
祈り、そういうものがあって、その人の天命を祈る
という広い気持ちがあって、それでこそ本当に
臓器移植というものが完成される。それがちゃんと
なっていけばですよ。そんな空気がちゃんとなって
いけばね、なるんでしょうけれども、今はまだ
そんな深いところまでの議論になって
いないんです。
だから、この問題というのは全く是か非かの問題
じゃなくってね、何かそういう人間の深い生命の
根元というところを見極めるところまで、人間の
眼差しがですね、本心がですね、そこへ到達した
時に初めて解決が出来る問題であって、我々は
じゃあ何をすればいいかと言えば、そういう空気に
なるように、我々の祈りの光を、世界人類が平和で
ありますようにという光をですね、そこへ持って
いかせる。そこへ届くように、守護霊様守護神様
神様お願いします。ね、調和のある平和な世界に
して下さい。その為に、我々の生命も、今死んで
いこうとしている人も生まれて来る人も、死に行く
人、生きようとしている人、ありとあらゆる色んな
人の生命が、それぞれの場所において、その
根っこの深いところでちゃんと役に
立ちますように。そういう祈りをですね、やっぱり
我々は、世界人類が平和でありますようにという
あの真言の中で、祈りの中でね、光明真言の中で
ちゃんと果たされていくように、おもいを集めて
祈りを集めてやっていかなきゃいけない。それが
我々の努めなんでありまして、これは良いか悪いか
の問題ではない。そういう次元で解決するべき問題
ではない。
我々人間というのは、野蛮時代は過ぎて
おりますからね。その過ぎていってるというのは
確かなんです。だからこそ皆、世界平和の運動が
どんどん世界へ広がって行って、今、国連で
ピースセレモニーをやろうというところまで
来ている訳ね。それは実現してゆくでしょう。段々
運動だけが宗教色を抜いて広まっていくというのも
つまり、人類のね、人間の本心というものを
呼び醒ます為の先駆(さきが)けなんですから。
で、先駆けというのは、私はここで一言
申しますけど、我々は祈りの先兵ではあっても
だから我々が世界人類の中で選ばれたものなんだと
思っちゃうと、これはいけないんですよ。
これはちょうどね、ユダヤ教が言ってます
けれども、メシア思想というのがあって、我々は
神に選ばれた、父なる神に選ばれた、世界中で
たった一つのイエスの民族だという選民思想が
あって、彼らが驕(おご)り高ぶった為に、彼らは
色んな苦労をなめますね。色んな禍とみえるものを
神様が下して、そうして、キリストをおつかわしに
なって、神様がというところまでものすごく時間が
かかってましょ。随分時間がかかってますよ。
愛なる神の本来の姿を出すまでにものすごく
苦労されたわけ。だけども、我々は祈りの先駆け
であるというのは、そういう意味で驕り
高ぶっちゃったら、あれと一緒になっちゃう
訳なんです。人間が驕り高ぶったら、神性がね
神様の性質真実の性質、それが自分たちの中に
ちゃんとあるのに、それが輝かないで、私が私が
我が我がと我の世界が固まって、そうしてそれが
業をつくっちゃって、どうにもならなく
なっちゃうわけ。動けなくなっちゃうわけ。そう
じゃなくってね、我々はそういう空気をつくらせて
いただく。そういう、おまえ先にちょっとやれと
言われて、それで、ハイと言って神様に仕えて
人に仕えてやっていく。謙虚に自分を見つめ人を
見つめ、人の心を見つめ本心を見つめ、本心を
掘り下げてね、そうして、真理を喜んでね、光明
というものを喜んで、神様の愛、み心というものを
喜んで、そうして働いていく。そういう意味の先兵
なんです。
だから、我々に今一番必要なことは、私をはじめ
として、みんな神様の前に、神様のみ心の前にね
謙虚にならなきゃいけないということなんですね。
神様、どうぞあなたの前に私を使って下さい。
私は生きてる時に何のとりえもなかった。だが
神様に素直になって、神様あなたに私の生命を
差し上げます。だからあなたの思うようにして
下さいという風に私はあげちゃった。だから、私は
磔(はりつけ)になったのと一緒ですよ。キリストの
磔と一緒なのね。だから皆の、五井先生
どうしましょう、五井先生なんてことして
くれたんですか、こんなことがあるじゃないですか
といって皆の苦を私は受けとめて、今、法身に
なってますから、今、肉体を離れてますからね。
光になってますから。
だから、それをちゃんと光にかえて、前よりは
もっともっと流しやすくなってます、光を皆の
ところへね。だからといって、じゃあ私のように
しなさいと言ったって、そんなになかなか
捨てられませんよ。皆仕事を捨てて家族を捨てて
何ものも捨ててただ一つの為にやって
いきますなんて、そりゃあ出来ないです。ね
なかなかそりゃあ生活というのは大事なんです。
だから、捨てるということはなかなか皆
出来ない。しかし、その空気をつくるということは
出来る。私の愛する者から私を離れさせないで
下さい。それは人間の真実の叫びなんだけれども
そこだけに執着しちゃうと、本当の意味で皆の
人類の天命が完う出来なくなっちゃう。空気が
清らかになって、そういう想いも慰めて励まして
そうしてさらに浄めてね、是か非かだけの問題
ではなく、我々だけが救われるとか、あの人だけが
救われるとか、その問題だけじゃなく、あの教義の
中にあるように、個も救われ人類も救われるね。
そうして、皆の想いを消してゆく。大きな光明体
なんだから我々は。そういう自分が自分の中へ
本体の中に眠ってるということ。この肉体の奥に
そういう自由な体が心があって、我々の
その気持ちを励ましているということ。神様の愛が
我々を励ましているということを
おもい知ってですね、そしてそこで、祈りを
ちゃんと心を込めてやっていけばなるんですね。
信じなきゃ駄目。信じてやっぱりやって
いかなきゃ駄目なんです。どうしても皆信じる
気持ちがねえ。私なんかが信じたって
私一人が・・・と、あの先生のあの信仰は素晴らしい
けれど、私なんかの信心はとね。そうじゃ
ないのね。法然に、ある時ある人が、その辺の
おじさんかおばさんかだったと思いますね、
法然さん、私は南無阿弥陀仏言ってる時に雑念が
出てしょうがないんだけれど、こんなんでも
阿弥陀さんの浄土に通じてるだろうかと
言いますよ。そしたら、おまえもそうか
わしもそうだと言ったというじゃないのね。皆そう
なんです。皆肉体が苦しみながら悩みながら、祈る
時にね、やっぱりそれはそのままでいいんです。
その肉体だけが祈ってる訳じゃない。あなた方の
霊体、神体、神界に満ちる全部、本来の自己、真実
の自己というものがそこで合体してね、真実の
祈りを宣り出して一緒になって、見えないけれど
一緒になって、光になって光明体になって
祈ってるわけ。だから、そのことを信じないと
いけない。
で、人間というのは、本当はそういう存在が
人間なんですよ。この肉体をかぶって生きてる
飲んで食べて眠ってというのは、それが人間だ
というのじゃないわけ。我々は、地球世界に降りて
きたのは、そういう空気を早くこの地球世界に
造らないといけないという、神様のみ心で我々は
ここへ降りて来てやってる訳なんです。でも
そんな大きなこと言ったってね、そんな深いこと
言ったって、皆ぴんときませんよ。だから今
そこまで考えなくてもいいから、皆がそれぞれの
持ち場でね、誠実に真実に私の小さな祈りを
受けて下さい、そういうつもりで、世界人類が
平和でありますようにと祈ってごらん。そうしたら
皆が世界人類の中へ入っちゃうんですよ。
あなた方が、自分の体で心で感じなくったってね
本当に祈りの光明体の中に自分が入って、霊団の
中に入って、あなた方が光の一筋になって
ちゃんとやっていくんです。
それは、私はこっちから見てるんです。
あなた方の光が皆かけ回って、そういう屈折した
色んな人の想いだとか、悲しみだとかを浄めてね
そうして、その空気を清らかにしていくのは
こっちから見えてるんです。だから、皆が
私なんか私なんかというのはね、それは私は
卑下高慢というのね。私はちゃんとうたにも詠んだ
と思うけれども、ああいう卑下高慢は
いけないんですよ。肉体の私を私と思ってる間
私は出来ないんです。だけども、肉体の私は私じゃ
ない。本当は、その真実の奥に、つき動かしてる
神様の生命に輝いてる自分自身がある訳だから。
そして、それは何の我も苦しみもない自分がある
訳なんですよ。それを自分の中に、我々は一つずつ
皆奥に持ってるわけ。
だから、それを眠らせちゃあもったいないのね。
みんな、自分が働けないと思っても、自分が
眠ってる間に、その真実の体はね、あなた方の
肉体を抜け出して霊界へ行って、その持ち場で
みんな働いて帰って来るということを眠ってる間に
やる訳なんですよ。何故眠ってる間にやるか
というとね、色んな理由があるけれど、第一に
自分の中の私なんか私なんかという、そういう我を
取り除けるんですよ。眠ってる間、そういう意識が
働かないから、自由になって自在身になっていける
わけ、それが目覚めてる時でも、私でも
そうなるんだなと素直に思ってしまえればね
それは見えるとか見えないの問題じゃなくって
本当にあなた方が光になって、私たちが光に
なってやっていけるんです。
そうすれば、人間が肉体を持ったまま霊人になる
時が来ますよという、私の言葉があるけれども
あの通りなんです。我々は今でも肉体を持った
ままで霊人なんです。立派な霊人なんです。ただ
その自覚をどこまで深めて、そうしてその自覚をね
把われにしないで我にしないで、それじゃよろしく
お願いしますという、そのお任せの心でしていくか
いただき直しの生命にしていくか
それなんですよ。
だから、臓器移植の問題とか色々言うけれど
ヨブ記にあるように、神様がとろうと思えば、この
瞬間でもあなた方の生命はとれる。霊界移行
させようと思えばいつでも出来るんです。向こうで
働くことになる。それが本当に神様のみ心ならば
そうなるんですよ。
だけども、今ここで生きてね、何か働いて、存在
してるということは、この世の中であなた方が
やらなきゃいけないことが一杯ある訳ね。まだある
訳なんです。だから、色んな苦しみがあるだろう
けれども、しかし、そこであなた方がしなきゃ
いけないと言うのは、とに角、私も含めて、我々の
まわりの空気を清浄にして下さい、世界人類を平和
にして下さいといって、本心から祈っていく時に
本当にこの世の中は浄められていくんです。その
浄められた空気が宇宙全体にまで広まって、宇宙の
平和にも貢献してゆくんです。愛と美と真と秩序と
平和による秩序が宇宙の秩序なんですから、そこへ
皆、その大河の流れの中へ皆入っていく訳
なんです。
だから、そのことをちゃんと信じて、それだけを
祈っていけば、臓器移植は本当になるべくして
なる時にはなるでしょうし、臓器移植なんか
しなくても、本当の意味で、肉体の生命も
伸びていく、天命も伸びていく、ね、この世の中で
執着するという訳ではなく、この世の中で果たして
いかなきゃいけない事があって、あるいは愛情が
あって、神様もうちょっと生かして下さい
と言ったら、向こうの神霊方が、あそうか
それじゃあ半年向こうの霊界へ移行するのを
止めようかといって、半年伸びるかもしれない。
そういう期間が必ず平和裡にやって来るんです、
ただ、今はそこへ行くまでに皆もがいて
いますからね。もがいているから、その苦しみを
皆分かち合ってそれを取るように、取り除くように
それが苦にならないようにしていかないと
いけない。淀んだ空気になってしまっては駄目
なんですよ。それになったら、本当に把われに
なって我になって苦になるから。だから、そう
ならないように、我々は本当に一筋に、世界人類が
平和でありますようにという、それをお題目の
ように唱えて唱えて唱えきって、光になって下さい。
そうすれば、もうこの問題は是か非かを
乗りこえてしまって、人間の本来の生命への尊敬
ね、色んなところへ、この肉体を持ったまま我々は
霊人になるべく、それぞれの意識が働いていくと
思います。その為に皆働いて下さい。
昭和63年7月22日
日本の中で問題になって議論されている訳ですね。
問題になってるというのは何が根元かというと
愛するものと別れたくない、愛するものの体に
傷をつけたくない、という風なことねえ。つまり
臓器を移植される側の人達の悲しみですよね。
五体満足のまま焼いてあげたいとかですね。何か
そういう気持ちが日本人には非常に強いんです。
これは、何の宗教を信仰しているとか何とか
じゃなくって、日本人の精神性といいましょうかね
国民性といった方がいいかしら、そういうもの
なんですね。だから、自分の愛するものの臓器が
例えば肝臓や心臓、腎臓というものが、何かの為
であるにせよ、ぼんぼん持ってゆかれる、傷がつく
ということは耐えられない気持ちがする。
それと今は、人工的な、肉体の臓器じゃない
ものが発達を致しましてね、それが働きをする
ようになる。そういうもの二つからめて考えて
いかないと、つまり、人工の臓器移植と、肉体の
人間の臓器移植と両方考えていかないと、いいか
悪いかという問題は駄目なんだということです。
人間の生命というものは、我々から観れば
ずっと生き通しのものなので、たとえこの世で
区切られても、次の世の中で、又次の世の中で
ずっと神様の世界へ入り込むまで生命というのは
永世なものなんですけれども。しかし、まだ
そのことについて迷いをもったりね、この世の中で
死んでしまえば終わりだとか、色々な悲しみや
嘆きをもってる人達の想いがある訳なんですね。
そういう人達からみれば、もうこの世で生命が
終わりになるのに、そこで臓器移植をされてしまう
ねえ、受ける方じゃなくて、されてしまうという
悲しみがある。その空気がなかなかあって、受ける
側はそれで生命が何とか助かるんだからいいけども
される側の身になってほしいという気持ちが
拭えない訳なんですね。
そして一方では、先っきも申しましたように
臓器が人工的に出来るようになると、なかなか
これはね、肉体じゃないものが便利になった
という問題だけじゃなくて、我々のような立場
から申しますとね、つまり、人間の内臓、心臓
であれ肝臓であれ腎臓であれ、あるいは脾臓
であれ何であれね、内臓にまで霊要素という
ものは入ってる訳なんです。だから、その霊要素
というものが微妙に働いて、我々の生命を助けてね
そうして、向こうの世界と交流をして、神様の光を
いただいて、色々なものが合わさって、ついに
光体が我々の奥の体に入りこんで、それでもって
我々の生命が成り立ってる訳なんですよ。だから
人工的な臓器移植がどんどん発達して行った時に
何かそれさえすれば生命が助かるとか生き伸びる
とかと、簡単に生命というものを考えてしまい
かねないという怖(おそ)れが一方には確かにある
訳なんです。
じゃあ、臓器移植は絶対駄目かというと、そう
じゃないんですよ。例えばね、交通事故なんかでね
誰にも働いて欲しい、もう50や60でこんな事故
なんかで向こうの世界へもっていかれるのは、皆の
為にも個人としてのその人の運命を考えてもね
とてもたまらないという場合には、守護霊様
守護神様よろしくお願いしますと言ってですね
そして、臓器移植でも何でもやって、何とか
この人の運命も、この人に関わる色んな人達の
運命修正も、この人を通してこの器を通してさせて
下さいと、皆やっぱり祈ると思うんです。そういう
臓器移植がね、やっぱりないとはいわない。
ただ私が申しますのは、それが一人や二人ならば
いいんですよ。一人や二人ならば、そういう祈りに
満ちた、皆の祈りに支えられて、たとえ肉体の
臓器移植であろうと人工の臓器移植であろうと
そこに霊要素的なものが加わって、本当の意味で
その人が真実に生きるというところへ持って
いかされるし、又そうなってるから
いいんだけれども、これが本当に今のようにね
イギリスに行かなきゃならない、オーストラリアに
行かなきゃなんないという風な形で、皆が病んで
病んで、たとえそれが解決され進んでいったとした
ところで、本当の意味で、生命への畏れが
なくなって来た時に、それがこわいという問題が
一つある訳です。そうして、我々の立場からすれば
我々の生命の元が何処にあるかということを、その
大元を考えることを忘れたら、これは、臓器移植
是か非かという問題と同じ次元で議論しなきゃ
ならなくなる訳です。
我々の生命というのは、絶対な神様の愛、生命
から分かれてきてるものなんですね。神様以外から
この生命というものは出て来てないんです。
世界人類どの人一人とってもね。例え、世の中に
とても貢献をしてる人も、あんな人がと思うような
人の生命であってもね、裡(うち)の本心本体
というものは、皆神様から分かれて来ている。
だからそういう意味で言えば、皆神の子供
でしょう。そういう分け隔てのない公平な
本心本体をもってる、生命をもってる、我々の
大元、それは何から来てるか、それは神様
からなんだ、神様の愛なんだと。何度もくり返して
申しますけど、我々は神の分生命(わけいのち)
であって、我々はこの地球世界の運命修正
というものを、それぞれの持ち場持ち場で
さりげなくやっていかなきゃなんない。そういう
大きな大使命みたいなものをおびて、この肉体を
まとって、ここへ生きて存在してる訳ですよ。
だから、そういう大使命といいますか、何で
この世の中に、人間が何処から分かれて何の為に
生きてきたか、何の為に分かれて来たか、その
根っこは何なのか、というところをね本当に謙虚に
見つめ直した時には、そこに怖れ畏みが
出てくるんです。慎みが出て来て、祈り心が
出てくる訳なんです。
ところが、今の臓器移植の是か非かという
問題はね、そりゃあ色んな宗教家とか、日本人の
倫理観とか生命観とか、風土の違いとかね、色々
議論しておりますけれども、良いか悪いかの問題
だけでこれは決められる問題じゃない訳なんです。
良いか悪いかから出発して、いけないとは
言いません。何故かというと、人間というのは
良いか悪いかから出発しないと、悲しいことに
深いところへはなかなか行けないものでして
そこから何か侃々諤々(かんかんがくがく)の
議論が始まって、随分曲がりくねって、やっと
深いところへそれぞれが到達するんです。だから
今の議論が悪いとは言いませんけど、今の議論
というのはイエスかノーかなんですね。良いか
悪いかだけで片づく問題ではないのに、良いか
悪いかの次元でやってる空気では困るんですね。
実は、臓器移植がどうのこうのというよりも前に
我々はこういうもっともっと深いところを見つめて
その上で自分の存在の根元を何処に求めるか
それは神に求めるんだ、神様の愛に求めるんだ
という、その深いところを見つめた人たちが
こういう是か非かだけで侃々諤々やってる空気の
流れをね、もっと愛のある光のある平和に満ちた
空気の流れに変えていかなきゃならない。本当の
ところを言えば、我々のなすべき仕事というのは
それなんですよ。臓器移植というものは、本当に
必要があって、その人の運命、生命に、あるいは
器にとってそれがその時必要であれば、神様
というのは何が何でも臓器移植をさせると思うね。
あるいは、させられる人もする人も決まってる
かもわからない。だけども、私がここで
言いますのは、そういうことによって人間という
尊厳に満ちたこの存在がね、つまり、神様という
もの、その根っこのところ親のところ大元の
ところを忘れ果てて、何か品物を交換するみたいに
生命というものがただ単純に連らなっているんだ
という風に思ってしまったら考えてしまったら
非常に恐いことになる。だから、そういう風潮に
なるのをくい止めていくというか、くい止めるその
空気をつくる、それが我々祈りの同士のやはり役目
なのではないかと。
本当に世界が平和に調和した時には、臓器移植を
例えすることがありましてもね、する方も
される方も、本当にありがとうございますと
受けとってね、それから、された人の方の記憶
というのもね、した方の記憶というのも
それぞれの子孫につながって行きますよ。今は
どうしても我々は、健康になった人の方の生命
生活という方をやっぱり覚えていきましょ。ね、
心臓や肝臓の提供を受けたあの人のおかげで、私の
夫、子供の生命が助かったんだと最初は
思いますよ。で、忘れにくいとは思うけれども
しかし、それで元気になってる我子や主人とか娘や
息子とか見てゆく内に、やっぱり、その人の為に
その臓器を提供してくれた人の、それまで生きた
生命の過ぎゆきとかなどは何処かにいっちゃって
目の前の人が元気になっていく、それだけの人間に
なっていく訳なんですよ。そうじゃない、やっぱり
それを提供してくれた人達への感謝尊敬、怖れ慎み
祈り、そういうものがあって、その人の天命を祈る
という広い気持ちがあって、それでこそ本当に
臓器移植というものが完成される。それがちゃんと
なっていけばですよ。そんな空気がちゃんとなって
いけばね、なるんでしょうけれども、今はまだ
そんな深いところまでの議論になって
いないんです。
だから、この問題というのは全く是か非かの問題
じゃなくってね、何かそういう人間の深い生命の
根元というところを見極めるところまで、人間の
眼差しがですね、本心がですね、そこへ到達した
時に初めて解決が出来る問題であって、我々は
じゃあ何をすればいいかと言えば、そういう空気に
なるように、我々の祈りの光を、世界人類が平和で
ありますようにという光をですね、そこへ持って
いかせる。そこへ届くように、守護霊様守護神様
神様お願いします。ね、調和のある平和な世界に
して下さい。その為に、我々の生命も、今死んで
いこうとしている人も生まれて来る人も、死に行く
人、生きようとしている人、ありとあらゆる色んな
人の生命が、それぞれの場所において、その
根っこの深いところでちゃんと役に
立ちますように。そういう祈りをですね、やっぱり
我々は、世界人類が平和でありますようにという
あの真言の中で、祈りの中でね、光明真言の中で
ちゃんと果たされていくように、おもいを集めて
祈りを集めてやっていかなきゃいけない。それが
我々の努めなんでありまして、これは良いか悪いか
の問題ではない。そういう次元で解決するべき問題
ではない。
我々人間というのは、野蛮時代は過ぎて
おりますからね。その過ぎていってるというのは
確かなんです。だからこそ皆、世界平和の運動が
どんどん世界へ広がって行って、今、国連で
ピースセレモニーをやろうというところまで
来ている訳ね。それは実現してゆくでしょう。段々
運動だけが宗教色を抜いて広まっていくというのも
つまり、人類のね、人間の本心というものを
呼び醒ます為の先駆(さきが)けなんですから。
で、先駆けというのは、私はここで一言
申しますけど、我々は祈りの先兵ではあっても
だから我々が世界人類の中で選ばれたものなんだと
思っちゃうと、これはいけないんですよ。
これはちょうどね、ユダヤ教が言ってます
けれども、メシア思想というのがあって、我々は
神に選ばれた、父なる神に選ばれた、世界中で
たった一つのイエスの民族だという選民思想が
あって、彼らが驕(おご)り高ぶった為に、彼らは
色んな苦労をなめますね。色んな禍とみえるものを
神様が下して、そうして、キリストをおつかわしに
なって、神様がというところまでものすごく時間が
かかってましょ。随分時間がかかってますよ。
愛なる神の本来の姿を出すまでにものすごく
苦労されたわけ。だけども、我々は祈りの先駆け
であるというのは、そういう意味で驕り
高ぶっちゃったら、あれと一緒になっちゃう
訳なんです。人間が驕り高ぶったら、神性がね
神様の性質真実の性質、それが自分たちの中に
ちゃんとあるのに、それが輝かないで、私が私が
我が我がと我の世界が固まって、そうしてそれが
業をつくっちゃって、どうにもならなく
なっちゃうわけ。動けなくなっちゃうわけ。そう
じゃなくってね、我々はそういう空気をつくらせて
いただく。そういう、おまえ先にちょっとやれと
言われて、それで、ハイと言って神様に仕えて
人に仕えてやっていく。謙虚に自分を見つめ人を
見つめ、人の心を見つめ本心を見つめ、本心を
掘り下げてね、そうして、真理を喜んでね、光明
というものを喜んで、神様の愛、み心というものを
喜んで、そうして働いていく。そういう意味の先兵
なんです。
だから、我々に今一番必要なことは、私をはじめ
として、みんな神様の前に、神様のみ心の前にね
謙虚にならなきゃいけないということなんですね。
神様、どうぞあなたの前に私を使って下さい。
私は生きてる時に何のとりえもなかった。だが
神様に素直になって、神様あなたに私の生命を
差し上げます。だからあなたの思うようにして
下さいという風に私はあげちゃった。だから、私は
磔(はりつけ)になったのと一緒ですよ。キリストの
磔と一緒なのね。だから皆の、五井先生
どうしましょう、五井先生なんてことして
くれたんですか、こんなことがあるじゃないですか
といって皆の苦を私は受けとめて、今、法身に
なってますから、今、肉体を離れてますからね。
光になってますから。
だから、それをちゃんと光にかえて、前よりは
もっともっと流しやすくなってます、光を皆の
ところへね。だからといって、じゃあ私のように
しなさいと言ったって、そんなになかなか
捨てられませんよ。皆仕事を捨てて家族を捨てて
何ものも捨ててただ一つの為にやって
いきますなんて、そりゃあ出来ないです。ね
なかなかそりゃあ生活というのは大事なんです。
だから、捨てるということはなかなか皆
出来ない。しかし、その空気をつくるということは
出来る。私の愛する者から私を離れさせないで
下さい。それは人間の真実の叫びなんだけれども
そこだけに執着しちゃうと、本当の意味で皆の
人類の天命が完う出来なくなっちゃう。空気が
清らかになって、そういう想いも慰めて励まして
そうしてさらに浄めてね、是か非かだけの問題
ではなく、我々だけが救われるとか、あの人だけが
救われるとか、その問題だけじゃなく、あの教義の
中にあるように、個も救われ人類も救われるね。
そうして、皆の想いを消してゆく。大きな光明体
なんだから我々は。そういう自分が自分の中へ
本体の中に眠ってるということ。この肉体の奥に
そういう自由な体が心があって、我々の
その気持ちを励ましているということ。神様の愛が
我々を励ましているということを
おもい知ってですね、そしてそこで、祈りを
ちゃんと心を込めてやっていけばなるんですね。
信じなきゃ駄目。信じてやっぱりやって
いかなきゃ駄目なんです。どうしても皆信じる
気持ちがねえ。私なんかが信じたって
私一人が・・・と、あの先生のあの信仰は素晴らしい
けれど、私なんかの信心はとね。そうじゃ
ないのね。法然に、ある時ある人が、その辺の
おじさんかおばさんかだったと思いますね、
法然さん、私は南無阿弥陀仏言ってる時に雑念が
出てしょうがないんだけれど、こんなんでも
阿弥陀さんの浄土に通じてるだろうかと
言いますよ。そしたら、おまえもそうか
わしもそうだと言ったというじゃないのね。皆そう
なんです。皆肉体が苦しみながら悩みながら、祈る
時にね、やっぱりそれはそのままでいいんです。
その肉体だけが祈ってる訳じゃない。あなた方の
霊体、神体、神界に満ちる全部、本来の自己、真実
の自己というものがそこで合体してね、真実の
祈りを宣り出して一緒になって、見えないけれど
一緒になって、光になって光明体になって
祈ってるわけ。だから、そのことを信じないと
いけない。
で、人間というのは、本当はそういう存在が
人間なんですよ。この肉体をかぶって生きてる
飲んで食べて眠ってというのは、それが人間だ
というのじゃないわけ。我々は、地球世界に降りて
きたのは、そういう空気を早くこの地球世界に
造らないといけないという、神様のみ心で我々は
ここへ降りて来てやってる訳なんです。でも
そんな大きなこと言ったってね、そんな深いこと
言ったって、皆ぴんときませんよ。だから今
そこまで考えなくてもいいから、皆がそれぞれの
持ち場でね、誠実に真実に私の小さな祈りを
受けて下さい、そういうつもりで、世界人類が
平和でありますようにと祈ってごらん。そうしたら
皆が世界人類の中へ入っちゃうんですよ。
あなた方が、自分の体で心で感じなくったってね
本当に祈りの光明体の中に自分が入って、霊団の
中に入って、あなた方が光の一筋になって
ちゃんとやっていくんです。
それは、私はこっちから見てるんです。
あなた方の光が皆かけ回って、そういう屈折した
色んな人の想いだとか、悲しみだとかを浄めてね
そうして、その空気を清らかにしていくのは
こっちから見えてるんです。だから、皆が
私なんか私なんかというのはね、それは私は
卑下高慢というのね。私はちゃんとうたにも詠んだ
と思うけれども、ああいう卑下高慢は
いけないんですよ。肉体の私を私と思ってる間
私は出来ないんです。だけども、肉体の私は私じゃ
ない。本当は、その真実の奥に、つき動かしてる
神様の生命に輝いてる自分自身がある訳だから。
そして、それは何の我も苦しみもない自分がある
訳なんですよ。それを自分の中に、我々は一つずつ
皆奥に持ってるわけ。
だから、それを眠らせちゃあもったいないのね。
みんな、自分が働けないと思っても、自分が
眠ってる間に、その真実の体はね、あなた方の
肉体を抜け出して霊界へ行って、その持ち場で
みんな働いて帰って来るということを眠ってる間に
やる訳なんですよ。何故眠ってる間にやるか
というとね、色んな理由があるけれど、第一に
自分の中の私なんか私なんかという、そういう我を
取り除けるんですよ。眠ってる間、そういう意識が
働かないから、自由になって自在身になっていける
わけ、それが目覚めてる時でも、私でも
そうなるんだなと素直に思ってしまえればね
それは見えるとか見えないの問題じゃなくって
本当にあなた方が光になって、私たちが光に
なってやっていけるんです。
そうすれば、人間が肉体を持ったまま霊人になる
時が来ますよという、私の言葉があるけれども
あの通りなんです。我々は今でも肉体を持った
ままで霊人なんです。立派な霊人なんです。ただ
その自覚をどこまで深めて、そうしてその自覚をね
把われにしないで我にしないで、それじゃよろしく
お願いしますという、そのお任せの心でしていくか
いただき直しの生命にしていくか
それなんですよ。
だから、臓器移植の問題とか色々言うけれど
ヨブ記にあるように、神様がとろうと思えば、この
瞬間でもあなた方の生命はとれる。霊界移行
させようと思えばいつでも出来るんです。向こうで
働くことになる。それが本当に神様のみ心ならば
そうなるんですよ。
だけども、今ここで生きてね、何か働いて、存在
してるということは、この世の中であなた方が
やらなきゃいけないことが一杯ある訳ね。まだある
訳なんです。だから、色んな苦しみがあるだろう
けれども、しかし、そこであなた方がしなきゃ
いけないと言うのは、とに角、私も含めて、我々の
まわりの空気を清浄にして下さい、世界人類を平和
にして下さいといって、本心から祈っていく時に
本当にこの世の中は浄められていくんです。その
浄められた空気が宇宙全体にまで広まって、宇宙の
平和にも貢献してゆくんです。愛と美と真と秩序と
平和による秩序が宇宙の秩序なんですから、そこへ
皆、その大河の流れの中へ皆入っていく訳
なんです。
だから、そのことをちゃんと信じて、それだけを
祈っていけば、臓器移植は本当になるべくして
なる時にはなるでしょうし、臓器移植なんか
しなくても、本当の意味で、肉体の生命も
伸びていく、天命も伸びていく、ね、この世の中で
執着するという訳ではなく、この世の中で果たして
いかなきゃいけない事があって、あるいは愛情が
あって、神様もうちょっと生かして下さい
と言ったら、向こうの神霊方が、あそうか
それじゃあ半年向こうの霊界へ移行するのを
止めようかといって、半年伸びるかもしれない。
そういう期間が必ず平和裡にやって来るんです、
ただ、今はそこへ行くまでに皆もがいて
いますからね。もがいているから、その苦しみを
皆分かち合ってそれを取るように、取り除くように
それが苦にならないようにしていかないと
いけない。淀んだ空気になってしまっては駄目
なんですよ。それになったら、本当に把われに
なって我になって苦になるから。だから、そう
ならないように、我々は本当に一筋に、世界人類が
平和でありますようにという、それをお題目の
ように唱えて唱えて唱えきって、光になって下さい。
そうすれば、もうこの問題は是か非かを
乗りこえてしまって、人間の本来の生命への尊敬
ね、色んなところへ、この肉体を持ったまま我々は
霊人になるべく、それぞれの意識が働いていくと
思います。その為に皆働いて下さい。
昭和63年7月22日