宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

短 信(19)

2014-03-31 08:19:29 | 祈り
 祈りについてのおたずねですが、祈り
というものは、かたちではないのです。
 本当のところはかたちではない。

 じゃあなぜ、手を合わせたり、如来印を
組んだり、目を閉じたり、そういうことをして
祈るのかと申しますと、そういうかたちを
とることで、本心本体、本来の自分、いのち
そのものの自分のなかにかえってゆきやすい
からなのです。
 
 こころをあつめて、おもいをすまして、
神をおもい、神様のなかに入ってゆく方法
として、我々はみな、かたちを持っている
ということなのです。ですから、このかたち、
つまり、目を閉じて合掌したり、印を組む
ということは、単なる形式ではない
のであります。魂というものが、心という
ものが、神をたずねてゆくその準備運動
なのであります。

 そこで、こういう風にして、みんな
祈ってゆくわけですが、実は、もう
からだ中で、年がら年中祈っている
というのが、本当のところなのでして、
人間というものは真実は自在に、
神様の愛のなかに溶け込んでいる存在
なのであります。

 で、このかたちから入って、段々に、
素直に神様を呼び、世界平和の祈りを
かさねてまいりますうちに、自在な、ほがらかな
いのちを持った自分自身があらわれて
くるのであります。

 印を組み、祈りながら、さながらの、
光そのままの、自分自身というものに
出会ってゆく。真実の自分と対面する。これを、
私は、自分自身のいのちを宣り出すと
申し上げたのであります。

 ですから、多少の迷いや、これで
いいのかしらというおもいが出たら、
消えてゆく姿として、祈りのなかに放り込んで、
ただただ祈ってごらんなさい。

 そうしているうちに、心もからだも朗らかに
なって参ります。ただ、心のなかに、
世界人類が平和でありますように
とおもいうかべるだけでいいのです。私を
呼んで下さるだけでいいのであります。

 どうぞ、そのままのおもいを祈りのなかに
お預け下さい。
         昭和62年2月19日
             昌 久

短 信(18)

2014-03-30 05:52:29 | 祈り
 祈りは、(統一は)あらゆるものの
なかにあります。すばらしい絵や音楽に
感動し、一体になっているとき、心を
うるわせる書物に出会って、夢中に
その本のなかに入りこんでいる時、
我々は、気高い魂に、本心の光に統一し、
祈り心となっているのであります。

 ただ統一会に出て、世界人類が平和で
ありますようにとやっている時だけが、
祈りだ、統一だというんじゃないんです。

 ここのところを間違えますと、苦しく
なるのです。我々のいのちを、
守護霊さんがねてもさめても守って
くれている、それとおなじように、実は、
私どもの本心は、本体は、もうずっと
祈りっ放し、感謝しっ放しなのです。
 道を歩いていても、台所でおねぎを
刻んでいても、何をしていてもずっと
祈ってるんです。統一してるんです。

 ですから、どんな場所にいても、
ありがとうございますとおもいつづけてね、
感謝して、生きてゆくことが、それこそが
祈りであり、統一であるんだということを、
理解して下さったらとおもいます。

 世界人類が平和でありますように
           昌 久

短 信(17)

2014-03-29 09:28:42 | 祈り
 人間にとって、また神を説く者にとって、何が
一番大切かと申しますと、それは人を容れる心
であります。

 この世には、実にさまざまな人が生きて
おります。価値観も、人生に対する おもいも、
まるで自分とはちがった、 正反対の人々が
いるものです。

 そういう人々に出会った時、ただ
おどろきつづけるばかりではなく、その人の
心のなかに入って、共鳴板を探してゆくこと。
 これが大事なのであります。

 なぜなら、神様は、本当に、ひとりひとりを
愛し切って、我々のいのちを、日々瞬々
生かしめて下さっているからなのであります。

 世界平和の祈りは、あの人この人という
小さないれものではなく、世界人類が
平和でありますようにというウンと大きな
いれものなのであります。
 この容れ物は、神様の私どもに対する愛に
他なりません。どうぞ力むことなく、ふんわりと、
世界平和の祈りのなかにとけ込まれて、
ただ世界人類が平和でありますようにと
祈ってごらんなさい。

 あの人を愛さなければ、何とかこの人を
という苦しい気持ちは、いつの間にか、
守護霊守護神が消して下さるでしょう。
 そうしてさらに祈っていって下さると、
自分の心が、いつのまにかおおらかに人を
容れる心にかわっていることに、気付かれる
ことだとおもいます。

 ともあれ、まず、御自分を、祈りのなかに
投げ込んで、毎日祈ってごらんなさい。

 あとは神様がそなえて下さると信じることです。
                  合 掌
                    昌 久

短 信(16)

2014-03-28 05:55:57 | 祈り
 一生を神様にささげたいというお心のよう
ですが、それには先ず、自分というもの、
自分の人生というものを愛するところから
始めていただきたいのであります。

 そうして、人生のさまざまな雑事とみえる
ことをも、よろこんで行なっていただきたい
のであります。人は、生活者なのですから、
あなたのお心が神様のみこころのために
用いられるのであれば、もっともよい時期に、
召命なさるでしょう。ただし、人を離れて、
ただ神の愛のなかに生きるということは、
それはナルシシズムというものであります。

 あなたのお心を神様がどのようにお用いに
なるかは判りません。小事に忠実な人は
大事にも忠実であるという聖書のことばにも
ありますように御自分と御自分のまわりを
大事になさって下さい。御自分のまわりを
尊敬することから始めて、何事にも感じる
心を深くして下さい。すべてはそこから
始まって参ります。どうぞあせらずに、
祈りつづけて、あなた自身をかがやかせる
努力をなさって下さいますように。
             合 掌
               昌 久
               

短 信(15)

2014-03-27 08:21:51 | 祈り
 久しくごぶさたしました。お元気の
御様子何よりと存知ます。

 こちら(神界)にも、ゆたかな自然が
あります。

 毎日、教会の鐘の音をききながら、
道場に通った頃を、市川の、あの雑木林を
何ということもなしに歩いて、神の恵みの
すこやかさに、おもわず空を見上げ、
青空のなかに神のこころをみて感動した
ことなどをなつかしくおもい出しています。

 そして、音楽に情熱を傾けていた時、
ただひたすらに音を追っていた私に、
一つ一つの音にも、人間の心のひびきが
こもっているということを教えて下さった
ことを、今もなお、深い感謝とともに
思い出すのです。

 私は宗教家になってしまいましたが、
神の愛の調べを人の心のひびきに
通わせながら、よくあなたの言葉を
思い出します。五井は相かわらずだなと
お笑い下さい。

 それではまた。    
              合 掌
               五井 昌久