砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

犬は吠えるがキャラバンは進む

2017-04-27 09:53:18 | 日本の音楽

記念すべき初回、ということで今更ながら小沢健二について語ってみたい。


小沢健二氏は今年2月に突然新聞に広告を出し、新曲をリリースし、あまつさえいくつかのTV番組に出て今年のフェスに出演することを告知していた。
私はそれを知って言葉を失った。きっと精力的に活動する彼はもう戻ってこないと思っていたから。
数年前からライブをやっていたのは知っていた。何度かチケットを取ろうと思ったがすべて撃沈し、いたく落胆したのをまだおぼえている。ただそういったライブは、あくまでオマケというか、物語のエピローグのようなもの、今まで活動してきたことの残滓程度にしか考えていなかった、と言えば失礼になるだろうか?
だってろくにCDをリリースしていなかったし、まだ南米あたりのフィールドワークに入れあげているものだと思っていた。

個人情報がつまびらかになることに若干の抵抗があるが、ざっくり言って私は現在アラサーである。
なので小沢健二が第一線で活躍していた頃、1990年代前半から半ばにかけて小学生だった。
当時のわたしは米米クラブが好きで、オザケンの魅力などまったく知る由もなく、野をかけ山を走りまわっていた。要するに子どもだったのである(米米クラブのことをディスっているつもりはないので、関係者の方は悪しからずご了承いただきたい)。

曲自体はたぶん耳にしていただろう。「カローラⅡに乗って」はCMで使われていたし、歌番組も時々見ていたからきっとどこかで聞くことはあったと思う。だけど私がオザケンを意識的に聴くようになったのはもっとずっと後のことで、大学生になってからだった。彼が第一線で活躍していたときから10年以上経っていた。だから自分が彼の曲を聴き始めたとき、彼の曲が好きになり始めた頃には、彼はもうほとんど活動していなかった。

はじめに聴いたのはもっともメジャーなアルバムである『Life』だった。このCDが何万枚売れたかは知らないけれど、おそらく彼のアルバムでは一番売れたのだろう。それくらいポップなアルバムだし、全体的に前向きだし、シングル曲も多い。要するに「売れ線」のアルバムなのだ。
そこからflipper's guitar時代までさかのぼったり、後期のアルバム(『球体の奏でる音楽』『eclectic』)を聴いたりしたけれど、自分に一番しっくりきたのは、というか一生聴き続けるだろうな、と感じているのは表題の『犬は吠えるがキャラバンは進む』である(とても長くなったがここまでが前置きである、自分が好きなものについて語るときはどうしても長くなってしまう)。


『犬は吠えるがキャラバンは進む』というタイトルは、彼がライナーノーツで説明しているようにアラビアの諺らしい。その意味を本人もよく知らないようだが、いくつか仮説のようなものが挙げられていて、「犬たちが吠えているなかでも僕たちはおびえずにまっすぐに進んでいこう」だったか「犬が吠えていても無関係にキャラバンは進んでいく」だったか、残念ながら私の記憶もあいまいなので詳しく知りたい人はネットで調べるなりこのCDを買うなりしてほしい。
よくわからないがこのタイトルからしてもうすでに「良い」のである(全然説明になっていない)。
オザケンのアルバムのタイトルは、複数の読み方ができることが多い。このアルバムでも然り、『Life』にしても「命」、営みとしての「生活」、そして「人生」と様々な読み方ができるタイトルだ。
聴く者の受け取り方に任せているのかもしれないし、ただ曖昧にしておきたかったのかもしれない。どういう意図でこのタイトルにしたかはわからないが、何とも遊びのあるタイトルではないかと個人的に思っている。


曲は一体どうなのかというと、flipper's時代の雰囲気はどこへやら、シンプルというか飾り気が少ないというか、線の細いけれどどこか無骨なサウンドである。そして全体的に意味深な歌詞が多い。
もちろんそれも彼の魅力のひとつなのだが。ここでは私が気に入っている箇所を取り上げてみたい。

M2「天気読み」
「雨のよく降るこの星では 神様を待つこの場所では 木も草も眠れる夜が過ぎるから」
この部分が特に好きである。何がどう好きかうまく説明は出来ないが、「人智の及ばない力があるとして、その前で私たちはただ眠り待つしかない」というような、人間の限界性のようなものを感じさせる部分だ。だけどその後に続く歌詞は「君にいつも 電話をかけて眠りたいよ」と、前の部分と比べてずいぶんミニマムな世界、その前が「神と私」の話だったけれどここでは「君と僕」の話である。ここの対比が素晴らしいと思う。

M8「ローラースケート・パーク」
「誰かが髪を切っていつか別れを知って 太陽の光は降り注ぐ」
これは人が成長し、大人になることを表しているのだろう。別れとは恋人であり友達であり、親であるかもしれない。それでも太陽の光は私たちの生活を照らし続ける、これは表題の『犬は~』に通ずるものがある。
「ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ」
心地よいリズムにのって流れてくる歌詞なので、普通に聴いているとそのまま通り過ぎてしまうのだが、よく考えるとわからない部分である。言葉を知らない⇒何も言えない、という理屈は理解できるのだが、言葉を知る⇒何も言えない、という関係はいったいどういうことなのだろう。

本人が歌っているようにそれが「バカな過ち」なのだとして、実際私たちはよくそういった状況に陥っていると思う。自分の話で申し訳ないけれど、私は小学校の頃から読書が好きだったものだから、本で覚えた少し難しい言葉を得意がってよく使っていた。小学生低学年の時には「弱肉強食なんだよなぁ」と(たぶん)遠い目をして言っていた。どういう意味かちゃんと理解していたとは到底思えない。今思うとものすごく痛い子どもだった。

若干(?)話が逸れた気がするが、成長するにつれて、そして言葉を覚えていくにつれて私たちは表現の幅が広がる。子どもの頃は「うれしい」で一括して表されていたものが、「楽しい」「喜ばしい」「心地よい」「感動した」と表現の選択肢が増えていく。だけれども表現が増えることで、それだけ私たちの感情が豊かに表されるかというと、どうもそうではないようである。
ここで私が言いたいのは「言葉の持つ意味に引きずられる」場合もあるということだ。大人になるにつれて難しい言葉を使う機会も増えるけれど、複雑な言葉を使うことに拘泥するよりも、「うれしい」というシンプルな言葉と、表情や身振りの方がよっぽど率直に相手に思いを伝えられることがある。犬や猫だってあれだけ立派に情緒を表現しているではないか。人間のエモーショナルな部分は、もっと本能的なものなのだろう。
妙に理屈っぽくなってしまった。話を歌詞に戻すと、「言葉を知ることで何も言えなくなる」のは「バカな過ち」かもしれないけれど、私たちが時として陥っていることだなのだろう。言葉を知り過ぎるとかえって窮屈になることもある、自分の思いを正確に伝えようとするあまり、却ってうまく伝わらないこともある、そんな風に解釈できる部分ではないだろうか。
日々の暮らしのなかで、私たちは自分の思いを率直に表現できているだろうか?


もちろん、言葉に表せないものだって世の中にたくさんあるのだ。
そういうものがぎっしり詰まっているのが、このアルバムだと思う。
『Life』のみずみずしい生のエネルギーも、『球体の奏でる音楽』の落ち着いた視点も好きだけれど、やはり私は思春期の名残りのようなものが感じられる、「苦悩の果てに見えてきた光」のようなこのアルバムが彼の作品のなかでは一番好きである。


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