砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

東畑開人『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』

2020-07-14 17:52:13 | 


蒸し暑すぎる。
南国原産の観葉植物が元気になってくれるのは嬉しいけど、それにしても不快指数がヤバい、バリヤバい。
この調子で盛夏を迎えたらどうなるのか。道端で人間が液状化する日も遠くないだろう、そして湿度が上がってまた不快指数が跳ね上がる未来が見える。うろろん。
例の感染症、せっかくなら夏に流行ってくれた方が在宅勤務の恩恵を受けやすかったのに…と不謹慎なことばかり考えていたら、また感染者数が増えてきている。本当は一日も早く収束してほしいし、一刻も早くテラス席でビールを飲んで焼き鳥に七味を振って食べたいけどね。これはかなりマジ。


さて今日は以前紹介した『暇と退屈の倫理学』で触れた、東畑開人氏の『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』を。2019年2月出版、私が持っているのはその年5月に出た第4版だ。これだけで、学術書にしてはとても売れていることがよくわかる。なんと昨年12月に紀伊国屋じんぶん大賞、大佛次郎賞も受賞している。オソロシイ本である。

とはいえ内容はオソロシイものでなく、エッセイ調で書かれており非常に読みやすい。基本的はデイケアに出てくる人物との交流をもとに、なぜそれが起きたのかを考察していく。ときに精神分析やユング派の概念、文化人類学、社会学からの引用もあるが、筆者のユーモアあふれる比喩でわかりやすく、この領域になじみのない読者にも咀嚼しやすいかたちで紹介されている。
以前書かれた『野の医者は笑う』に引き続き、舞台は沖縄。ただ今回は精神科デイケアの体験がメインテーマである。そこでの体験を通じ、筆者は「ただ居ることの意味」「ケアとセラピーは何が違うのか」ということを考えていく。そして読者にその問いを投げかけてくる。


最初読んだときは「ウワァー面白い!!」と思った。目から鱗が勢いよく落ちる思いだった。そうだよね、「ただ、いる、だけ」ってつらいよね、ケアとセラピーの差ってそういうところだよね、でもどちらも大事だよね、と何度も膝を打った。青あざができるくらい強く打った。
今年のはじめに2回目を読んだ。そのときは「そうだけど…あれ、こんな感じの内容だったかしら」と、どこか腑に落ちない気持ちになった。はじめて読んだときの感動は、前の前に付き合っていた女性くらい遠い存在になっていた。
そして今が3回目だ。今のところの感想は「なんか違うな…」である。私が抱いたこの「違和感」はなんだったのだろう。今日はそれを考えてみたい。


この本では精神科デイケアで「ただ、いる、だけ」を命じられ、戸惑って混乱し、ときに傷つき、そして何とか生き延びようとする主人公の姿が描かれている。物語のなかでは『居るのはつらいよ』というタイトルが表すように「ただ、いる、だけ」というのがつらいこと、苦痛なこと、耐えがたいこととして繰り返し語られる。そもそも、このこと―居るのはつらいよということーにすぐピンとくる人がどのくらいいるだろう。

それを理解するために少し脱線する。
ひところ世の中で「窓際族」という言葉が流行った。会社にいて名ばかりの肩書を持ち、大した仕事もなく窓際に座るおじさんを表すものである。某ウィキペディアによると、この言葉が登場したのは1970年代のことらしい。
やがて1990年頃になると「追い出し部屋」という言葉が登場した。法律上、労働者の解雇が困難で自主的に退職してもらうため、他部署から隔離してひたすらつまらない作業を与えられる、または仕事を与えられなくなることである。企業にとってはしょうがないのかもしれないが、やられた側としてはたまったものではない。とても残酷なことだ。

そういった言葉を聞いて、「何もしなくても給料がもらえるなんてラッキーじゃん、今月のラッキーアイテムは窓!」と思う人もいるかもしれない。でもそれが長期にわたると、「俺がいる意味ってなんだろう」「自分が何の役にも立っていない」という観念にまとわりつかれ、苦しみ抜いた末に退職を選択する人がいる。あたかも「お前には価値がないんだよ」とじわじわ烙印を押されるようなものだ。私のように仕事中にブログ書くくらいふてぶてしかったら、辞めなくて済むのかもしれないけど…大きなお世話か。

それくらい人間は価値のないこと、意味のないことに耐えがたい存在なのである。昔の拷問のなかには、穴を掘っては埋めさせ、穴を掘っては埋めさせるのを繰り返すものがある。なかなか機知に富んだ拷問だ。直接的な痛みを与えるわけではないが、意味のない行動が人間に耐えがたい苦痛を与えるのをよく理解してのことなのだろう。


話をこの本に戻そう。
本来的に人間は「ただ、いる、だけ」に苦痛を感じる。ここまでの前提はいいだろう。
しかし精神科の、とりわけ居場所型デイケアでは、メンバーにもスタッフにも「いる」が求められる。何かを「する」ことよりもただ「いる」ことが重視される、「変化」よりも「安定」や「均衡」が求められる。
でもそれでいいんだろうか、本当にこれでいいんだろうか。そこに生じる葛藤に持ちこたえ、「いる」こと自体に価値を見出すまでのプロセス、そして「ただ、いる、だけ」のなかでも生じてくるささやかな変化。さらに言えば、変化が生じたとしてもすぐに何もない日常がやってくる反復性、その苦痛。その運動をひとつの物語にしているのが本書だと言える。この物語はとてもわかりやすく、面白い。

しかしだ。
私が腑に落ちないのは最後の箇所である。若干ネタバレになるが、最後の最後で、この居心地の悪さの根本にあるのは「お会計の声」、そしてそれをもろに浴びた結果生じる「お金にならないことは価値が無いこと」という「内なるニヒリズム」に端を発することが暴かれる。
お会計の声は、いまや世界をうずまく巨大な市場原理に飲み込まれた結果として派生すると説明されている。しかし「内なるニヒリズム」がどういう経緯で生じてきたのか、それについて考察や説明が、私が読んでいる限り十分なものが見当たらなかった。私の理解力の問題かもしれないが、あくまで市場原理にケアという行為が飲み込まれた結果、としてしか言葉にされていない。


「それお金になるんですか?」
「どのくらい効果があるんですか?」
「なんの意味があるんですか?」
「費用対効果を示してください!」


そういった残酷なまでに強力な「お会計の声」「エビデンスを求める風潮」を浴び続けた結果生じるのだ、そうして人間に本質的に不可欠であるケアの営みは頽落するのだ、と言われればわかる気もするけど…本当にそれだけなのだろうか?一気呵成に書かれているのでクライマックスはさっと読めてしまうのだが、再読したときには筆者の出した結論に同意するのに、すこし二の足を踏んでしまう。


そもそも「人間の価値」ってなんだろう。
根本に残るのはその問いである。本書はその問いに踏み込んだ議論は展開していない。ここが私にとって一番納得いっていない点だと思う。ただそれを問い始めると、心理学ではなくほとんど哲学、あるいは宗教の領域に足を踏み入れることになるのだろう。でも、そういったことに対してもう少し触れてくれたら、それに対して筆者がどう思うか記してくれたら親切だったようにも思う。
もしかしたら、そういったことは個々人で考えるように、と促しているのかもしれないが。それを考えるのも、「ただ、いる、だけ」と同様に、とてもつらいことなのかもしれない。だからこそ、市場原理に飲み込まれて「価値のあること」ばかり考える方がわかりやすく、楽なのかもしれない。だとすればなかなか苦しい世の中である。助けてラスコーリニコフ。