三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

「やらせ」と「演出」の狭間で

2014-03-05 16:24:24 | 文章・取材・メディア論
 ドキュメンタリー映画「ガレキとラジオ」(2012年/70分)の中に「やらせ」があった、ということが判明した。

 この映画は、東日本大震災(2011年3月)直後に宮城県南三陸町に開設された「災害ラジオ局」に密着し、制作されたものだ。ラジオ放送と局スタッフらに励まされる被災者を中心に描かれている。

 この映画の中で、津波で娘と孫を失った70代女性が「災害ラジオ局」の放送に励まされる場面があるが、実際はこの女性はラジオを聴いていなかった。撮影では、この女性は制作者側の指示に従い、演技をしていた。

 同映画は、大手広告会社の博報堂が企画・制作。同社社員の梅村太郎氏(他1名)が監督を務めた。

 「朝日新聞」2014.3.5(朝刊)「震災記録映画でやらせ 「ガレキとラジオ」 ラジオ聴くふり」

 上記「web無料版」では途中までしか読めないが、大筋のことは分かるはずだ。この中の写真キャプションによれば、同映画の中で他にも「やらせ」があったようだ。

 同映画の公式ホームページを開くとまず、<「感動した!」92% 「他人に勧めたい!」95%>なる「試写会アンケート結果」がでかでかと映し出される。

 興業的なことを考えれば、企画・制作側が「人々を感動させる」ことを重要視するのは、当然のことだろう。しかし問題は、「ドキュメンタリー映画」と名乗っていることだ。

 この「朝日新聞」の報道に基づけば、これは「やらせ」に基づいた映画であり、「ドキュメンタリー映画」と言ってはいけない、と思う。
  *私はこの映画を観ていないのだが。

 私はこれまで映像の仕事をしたことはないが、同じように取材に基づくルポルタージュの記事を執筆してきた。ルポルタージュとドキュメンタリーやノンフィクションの違いはよく分からないが、全て「非小説」であり、現実に基づく描写・表現で構成されるものだ(*そうでない場合は、その旨を知らせる必要がある)。

 「やらせ」と「演出」の違いも微妙だ。テレビのドキュメンタリー番組を観ていて、よく思うことがある。ある人物を中心に描くことが多いのだが、この人が何十年かぶりに故郷に戻ったり、意を決して事件・事故の関係者を遠路はるばる訪れる、というような設定だ。そして、そこで再会があり、葛藤があり、落胆がある・・・。つまり、「ドラマ」があり、「感動」が生まれるのだ。

 しかし、その取材がなければ、果して「この人」は故郷に戻り、また目的の人に会いに行っていたのか? 交通費などは、どうしたのだろうか? そんなことを考えてしまうのだ。

 私は、「取材がなければ、遠路はるばる行かなかったのではないか」と思うことがしばしばある。つまり、取材行為自体が「取材対象」「取材事実」を作り(創り)出すことがある、ということだ。

 また、私が取材していて感じるのは、「サービス精神の旺盛な人」や「自己顕示力の強い人」には注意が必要だ、ということだ。別にそのこと自体は「悪い」ことではないのだが、「取材する側にとっての注意」ということだ。

 そのことを逆に言えば、「感動」「ドラマ」を求める制作者側にとっては、そういった取材対象は「ありがたい存在」ということになる。だから、賢い「受け手」(視聴者・読者など)となるためには、そのことも念頭に置いてメディアに接した方が良い、と思うのだ。

 私はそういった目でいつもドキュメンタリー番組(記事)を観る(読む)ので、「感動」が半減してしまうのだ。「感動する」ことが最上の目的の人は、以上のようなことは考えない方が良いのかもしれないが。

 話を元に戻そう。私には、映画「ガレキとラジオ」の制作者側の「気持ち」がよく分かる。そういった「誘惑」といつも闘っているからだ。それは、組織内の人間であろうと組織外であろうと、記者・編集者・監督(ディレクター)であれば「同じ」とは言わないが、「同種の問題を抱えている」と思うのだ。

 テレビ局なら視聴率、雑誌なら販売部数、そして映画なら観客数・興業成績が、「できる人間」と思われるための非常に大きな基準となるからだ。

 私は多くの場合、あらかじめルポ(記事)の構成・ストーリーを頭の中に描き、それから取材を始める。これを「先入観」と言うのであれば、「先入観を持って」取材を始める、ということになる。もしこの「先入観」がなければ、街中を歩きまわって「何かありませんか?」と1人ひとりに聞いて回るしかなくなる。

 しかし、この「先入観」はあくまでも「仮説」なのであり、取材を進めていきながら柔軟に軌道修正して行く必要がある。これは、科学における研究者のあり方と共通するのだと思う。

 しかし、興業成績・視聴率・部数が至上目的となり、そのために「感動」やスクープが不可欠となれば、ドキュメンタリーの中に「都合の良いストーリー」を入れたくなってくる。

 映画「ガレキとラジオ」の場合、「震災で家族を失ったが、災害ラジオに勇気づけられた人」の実写を入れたかったのだろう。そういった思惑で探した結果、「震災で家族を失った」女性はいたが、「災害ラジオ」は聴いていなかった。「何とかしたい」という思いから、「演出」的な発想でこの「やらせ」に至ったのではないか。

 先に述べた「軌道修正」ができなかった、ということだ。誰がその判断を主導したのか? 企画・制作企業(博報堂)の上層部なのか、(組織内の)監督なのか、それ以外なのか・・・。

 私自身も取材を進めていて、つい「おしいなあ」と思ってしまうことがある。自らの思い描く状況(ストーリー)とズレが生じてくる時だ。しかし、「いや、そうじゃない。事実こそが重要なんだ」といつも自戒することになる。

 私は、雑誌に掲載する記事(ルポ)を執筆して、「編集者の期待」を裏切ることが時々あるのかもしれない。A氏が「悪者」になるはずだったが、どうもそうとは限らない、その証拠が出て来ない、というような・・・。「使い勝手の悪いライター」と思われているのではないか。

 まあ、それならそれで良い。「感動」や「受け狙い」を最上の目的にすれば、いつも誘惑が待っている。そのことを自覚する必要があるのだ。

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