11

11

新しい朝。

2011年03月23日 | 1
 父が3月6日に亡くなりました。

 亨年83歳。老衰が原因で、寝入るような穏やかな死でした。亡くなった日は、小雨の降り続く一日でしたが、お通夜、葬儀の日は晴れ渡り、自宅前の海は穏やかで春の陽に波がきらめき、いつものように漁船がエンジン音を響かせて入り江を行き来しておりました。

 父の魂は最後のひと時を、いつも釣り糸を垂れていた岸壁で名残惜しそうに過ごしていたのでしょうか、時間が来たのを知ると青い空に煙のようにすっと消えて行きました。



 先日の日曜日、妹が遺品を整理していると、父の若かりし頃の写真が出て来ました。上の一枚は父が20歳の正月の写真。昭和2年産まれなので昭和22年の頃の写真です。地元の青年団か何かの記念写真でしょう。



 もう一枚は父が24歳、昭和26年の写真。やはり地元の青年団の記念写真です。いずれも父は少し緊張した顔付きで写真に収まっています。

 父の青春はまさに戦争の真っただ中。16か、17歳そこらで戦争に駆り出され、戦争末期、鹿児島にいた父は、制空権はすでにアメリカに押さえられ、相手の戦闘機の遊び半分、気まぐれな空襲に逃げ回っていたそうです。すでに沖縄は陥落寸前、いよいよ米軍の本土上陸、鹿児島でそれを迎え撃つのがまだ20に満たない年頃の父達だったそうです。

 ようやく敗戦で、やせ細り幽霊のようにして故郷に帰還した父。その頃の日本は、今からはとても想像もできない状況だったと思われます。多くの人が戦争で死に、長崎、広島には原爆が落とされ、アメリカとソビエトに国家が分断寸前、食うものも着る物もない、生きるだけで精一杯の時代だったと思われます。しかし、写真を眺めるに、集まった人々の表情を見ると何故か明るく感じるのは私だけでしょうか。

 何もかも失くし、失うものも何もないから明るいのか。戦争の死の恐怖から解放されたからか、どんなにつらくても、こうして仲間が集まって安心したからなのか。みんなの表情に生きる力を感じるのです。

 私の自宅からは長崎に原爆が落とされた時(一瞬で14万人が亡くなった!)海をはさんでキノコ雲がよく見えたそうです。写真が撮られた頃は、まだ長崎は焼け野原だったはずです。それなのに、このみんなのしっかりとした顔。何にしても、このエネルギーが戦後の日本の復興の基になったのでしょう。

 現在、この写真に写っていた人達はほとんどいません。町の人口も激減しました。地区別で陸上記録会もありません。高齢化と並行して国の形も衰弱していくのでしょうか。

 父が亡くなって5日後、東北・関東大地震襲来。

 相手がいて戦うのが戦争ですが、災害は相手の姿はありません。今後、日本が戦う相手は自分自身なのでしょう。

 先人の労苦の上で国は成り立って来たわけで、何にしても残された者達が生きる力をふりしぼるしかないようです。

それでも朝はやってくる。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。