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大阪で芝居を見てきた。(その1)

2017年11月29日 | Weblog

11月26日に劇団「遊劇体」の公演を見た。「のたり、のたり」というタイトルで作は深津篤史氏、友人のキタモト氏が演出だ。深津氏作の芝居を見るのは今回が初めてだ。遊劇体は1998年に一度、この作品を初演していて、今回の上演は19年ぶりとの事。

深津氏はすでに故人だが、僕は氏と京都の芝居小屋、無門館のアルバイトで数回一緒になった思い出がある。氏が桃園会という劇団を旗揚げした時期の前後、まさにスタートラインに立たれたばかりの頃か。二人で無門館の主、遠藤寿美子さんの業突く張りに愚痴をこぼし、深津氏がいない時には遠藤さんから、深津氏のそのいい加減さ(しょっちゅう遅刻していた)についての愚痴を聞いた。遠藤さんもすでにこの世にはいないわけだが。僕はその後、熊本に帰り、要するにそれからの深津氏、遠藤さんの活躍ぶりを身近に感じることはなかった。僕も京都に居れば、いろんな縁があったのだろうが、自分から芝居の世界からは離れて行ったわけで、今更悔やんでも仕方あるまい。

さて今回の芝居の感想だが、ストーリーについては、意外とシンプルに感じた。阪神大震災の後、ひび割れたマンションの一室の中で若い男女が薬におぼれ、酒におぼれ、無くした何かを手探りで探そうとするが、何か暖かいものを感じることは出来るのに、つかむことが出来ない哀しさを淡々と表現したものだ。(こんな要約をしたって誰も分らんだろうけど)

演出については、最後の肝心な場面で、主人公の男女二人が舞台に立たずに、舞台の上手にある階段の上で、延々と会話をするシーンが主題になるのだろう。客は頭の上から降ってくる言葉を聞くことになる。下手の窓の下の暗がりでは、存在しているかいないか不明の男が、ト書きのようなセリフを時折二人の言葉の間で吐く。基本、観客は芝居のクライマックスを誰もいない舞台を眺め続けることとなる。「そこには居ない」二人の会話を頭上で聞きながら。

この演出はある意味、不親切というか、演出を放棄したという誤解を受ける危険性もある。本来の狙いは、客にあえて「そこには居ない二人の存在を想像させること」で客の心に「二人を存在させる」ことなのだろうが。この演出の成功の可否は観客の感受性により異なるのだろう。役者の力量も問われる芝居でもあるわけで、舞台に存在せず、もちろん身振り手振りもなく、言葉だけで存在しなければいけないことは、どこにも逃げ道はないと言うことなのだ。

一点だけ気になるのは、阪神大震災後という時代性か。正直、関西以外の人で震災の起こった年が西暦何年か即答できる人が何人いるのだろうか。(僕も答えられない)残酷な事だけど風化の速度は凄まじく、「震災後」というテーマの扱いは難しいものになっていくのではないだろうか。

芝居が終わり、深津氏の作品集を一冊買って帰る。「ああ、こんな芝居を書いてはったわけやな」ページをめくると、自分にとっては新鮮で素直で、すぐに読んでしまうのももったいないので、途中でページを閉じてしまった。

深津作品について、キタモト氏の深い思いも今回の芝居で感じることが出来たし、キタモトさん、役者、スタッフの皆さん、ホントにお疲れさまでした。

2 コメント

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Unknown (キタモト)
2017-11-30 17:27:39
ご来場ありがとうございました。キレイなガラス瓶に入ったハチミツも。もっと話したかったですよ。
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Unknown (takeda)
2017-12-01 15:46:00
お疲れ様でした。今回は時間の都合で、お話出来ず、残念でしたが、また見に行きます!蜂蜜は栄養補給に役立ててください!
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