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宮台真司とレヴィナス-〈世界〉の奇跡性、〈社会〉の奇跡性。

2009年12月29日 | 宗教・スピリチュアル
社会学者の宮台真司氏の「世界」と「社会」を巡る思索は、
人間の宗教性や霊性について考える上でも参考になる。

宮台氏は問う。「脱社会的存在」である者が、人を殺したりせず、自殺もせずに生きていけるのはなぜか。
暫定的な解答-世界という「奇跡へと開かれた感受性」があるから。

作家の田口ランディ氏との対談で、宮台氏はレヴィ・ストロースの『野生の思考』を引き合いに出し、三色スミレの花を見ていてその構造の「ありそうもなさ」に貫かれること、そのような感受性が「脱社会的存在」をこの世に押しとどめるのではないか、と言う。

それに答えて田口ランディ氏は、「世界」というより、人間が作る「社会」のありそうもなさに触れるという感受性があることに言及する。「それは透明な層のようにお互いに浸透しあっている」ので区別できない、と言う。

田口ランディ氏の「人間の社会が成立していること自体の奇跡性」への目の開かれ、のようなものについて、レヴィナスの『全体性と無限』の文章が参考になるかもしれない。レヴィナスの文章の「無限なものが社会性の端緒となる」「神とのあいだの社会性」「安息日における生活の可能性」といった表現は、社会性というものが宗教性とほとんどイコールになるような地点で紡がれる言葉が存在することを示唆している。

田口ランディ氏と宮台真司氏の対談「〈世界〉を経由して〈社会〉に戻る」 -田口ランディ『生きる意味を教えてください』(2008年)より

宮台真司 殺したいと思えば殺せるし、犯そうと思えば犯せるのに、それはしたくないと思う「脱社会的存在」がいるのは、なぜか。…連載では暫定的に答えを出しました。「奇跡へと開かれた感受性」です。レヴィ・ストロースが『野生の思考』(原題:三色スミレ)の中で、寝ころがって三色スミレの花を見ていて構造の「ありそうもなさ」に貫かれるくだりがあります。…彼は花に奇跡を見たけど、人やその営みに奇跡を見出す感受性が「脱社会的存在」を押し留めるんじゃないか。…
…よく言う話だけど、百の偶然、千の偶然が重なって、僕が今ここにいる。今ここに僕がいるのは不思議です。…生まれてからも、事故や事件を含めて、何度も首の皮一枚でつながってきたという不思議もあります。その意味では〈社会〉の中に〈世界〉を見ることもできます。あるいは〈社会〉を〈世界〉として-レヴィ・ストロース的まなざしで-眺めることもできます。

田口ランディ 作品ではあえて〈世界〉と〈社会〉を使い分けていて、〈世界〉について語っているものが比較的多いんです。超越系だからなんでしょうけどね(笑)。でも、やっぱり自分のなかではすごく〈社会〉に触れることによってしか得られない〈世界〉の手触りみたいなものを感じてるんですよね。〈社会〉をぶっとばして〈世界〉を触れないんです。それは透明な層のようにお互いに浸透しあっているものだから。


「社会性」と「宗教性」について-レヴィナス『全体性と無限』 熊野純彦 訳より 

「最後に、幸福と渇望を分離する隔たりによって、政治と宗教が分割される。政治は相互承認を目ざし、言い換えれば平等を目ざす。政治が保証しようとするのは幸福である。政治の法がそれを完了させ、聖化するものは、承認のための闘争である。宗教はこれに対して、〈渇望〉であって、承認のための闘争などではいささかもない。宗教とは、平等な者たちが形成する社会において可能な剰余である。栄えある卑小さ、責任と犠牲という剰余なのであって、それこそが平等そのものの条件なのである。」(上111p)

「〈無限なもの〉が生起するのは、分離された存在に場所を残す一箇の収縮において、全体性への侵入が放棄される場合である。…分離された存在に場所を残すような一箇の無限なものは、神的なもののように存在する。全体性を超えて、無限なものが社会性の端緒となるのである。」

「分離された存在と〈無限なもの〉とのあいだで設立される関係によって、〈無限なもの〉による創造的な収縮にあって存在した減少があがなわれる。人間が創造をあがなうのである。神とのあいだの社会性は、神になにかをつけくわえるものではなく、神を被造物から分け隔てる間隔がその社会性によって消失するわけでもない。全体化との対立において、その社会性は宗教となづけられた。創造者としての〈無限なもの〉が制限されること、したがって多元的なものが存在することは、〈無限なもの〉の完全性と両立する。」

「全体性を超えて、無限なものが社会性の端緒となるのである。」

「全体化との対立において、その社会性は宗教と名づけられた。」

「無限なものは〈善さ〉の秩序をみずからに開く。」

「〈渇望〉の秩序-たがいにたがいを欠いているわけではない、異邦人のあいだの関係の秩序―…そのとき、…安息日における生活の可能性が創設される。安息日において存在は、生活の必要と必然性をいっとき宙づりにするのである。」(上200p~204p)

「他者との社会性が、あるという無意味なざわめきのおわりをしるすのであって…。」(下180p)

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す 2009年11月30日
(→私が宮台氏の「宗教的感受性」について関心を持っていることに触れている箇所があります。…そういえば、宮台氏の過去の著作でわたしが一番傑作だと思ったのは、『サイファ覚醒せよ』だった。桜を見て脱魂状態になってしまうという宮台氏のトランス体質には大いに共感したものだ。『日本の難点』は小説や随筆でも読むような気持ちで読んだが、いちばん印象に残ったのは娘の話とシュタイナー教育の話を語っているところで、ほかの政治的な話についてはほとんど記憶に残っていないのだ。…)

関連記事:安息日のためのベーシック・インカム 2009年12月13日
(→ちょっとだけ、レヴィナスからの引用があります。…内省したり祈る時間としての「安息日」のために、ベーッシック・インカムが必要なのだ、という主張はどこかに存在しないのだろうか。…「安息日において存在は、生活の必要と必然性をいっとき宙づりにするのである。」(レヴィナス『全体性と無限』)…いずれにせよ、「生活の必要と必然性をいっとき宙づりにする」時間は、人類にとって必要な時間なのではないか。…)