ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』を読んでみた

2009年12月17日 | 思想地図vol.4
『思想地図vol.4』に関連して、数日前、宇野常寛氏の『ゼロ年代の想像力』(2008年)という本を読んだ。

関連記事:『思想地図 vol.4』を読む②-クワガタ虫・テレビ・ファスト風土 2009年11月30日

自分には合わないのではないか、「たぶん今の私には関係ないだろう」と思っていて、しばらく自分の関心の範囲から遠ざけていた。

最近のサブカルチャー事情に疎い私にとって、恐怖だったのは自分の知らない固有名詞の羅列に圧倒されて最後まで読めない、ということだったのだが、そこはそれ、スピード感のある宇野氏の文章のリズムについ引き込まれ、結局最終行までほとんど巻を措くことなく、一日とかからず読了した。

久しぶりの爽快感があった。

自分がこれまで、一度くらいは熱中した覚えのある、漫画やアニメやドラマの名前が、宇野氏の文章のもとにかき集められ、裁断され、区分けされ、関連づけられていく。自分の中でバラバラだった記憶や経験の断片が、思わぬ形で結びついた。「これとこれとは関係あるでしょ」と時にはかなり強引に、靴ひものような「きつめ」の文体で、次々と断片たちがまとめあげられ、しばりつけられ、締め上げられていった。サブカルチャー体験の背後に、自分がこれまで気がついていなかった、長いスパンに渡る物語が存在していることを、思わず「そうか・・・あれは、そういうことだったのか…」という「納得」みたいなものを可能にする大きな物語が存在していることを、この本は知らせようとしていた。

ただ、この本を読んでたぶん多くの人が感じたことだと思うけど、「そこまでサブカルチャーと『われわれの生き方』を結び付けなくてもいいんじゃないか・・・」という感想も同時に抱いた。

「生き方」と結び付けてしまうと、どんな話題だって対象範囲に入ってくるんじゃないかと思った。

サブカルチャーに生き方を学んでいるように見えるけど・・・

たとえば私は、NHKの『ダーウィンが来た』などの動物番組をテレビで見るのが好きだが、カメレオンの擬態など、あれこれの方法を使ってたくましく生きる動物たちを見て、「動物たちも生きるのに大変なんだなぁ。おれも頑張らないと」という気分になることがある。

つまり、テレビの動物番組からも知らず知らず「自分が生きていくのにヒントになりそうなもの」を探している自分がいる。

さらには、お笑い芸人が出演しているバラエティ番組を見ていても、芸人たちの人間関係、各人がスベった時の仲間のフォローの仕方、空気の読み方、などなど、芸人たちの流動的なコミュニケーション状況が如実に画面にあらわれていて「きついなぁ」というか、思わず現実社会に生きているわが身にひきつけて鑑賞してしまう。

マンガやドラマやアニメなどのサブカルチャーが、(若い)人間たちの生き方がそこに映し出される「鏡」のようなものになるというのなら、動物番組だってバラエティ番組だって「鏡」になることがあるだろう。そういうふうに話を広げてみると、「ゼロ年代の想像力」で取り上げる対象が、サブカルチャーの分野に限定されている必然性がよくわからなくなってしまう。残る感想は、人間は、何に対しても「自分たちの生き方にヒントとなるようなもの」を読み取ってしまうような動物なんだな、ということである。

大人が楽しめるサブカルチャーってないんだろうか・・・

『ゼロ年代の想像力』の内容を要約する力は私にはない。
自分の興味を引いたところ、今回通読してみて、自分の記憶に「かすった」ところをいくつか断片的に拾っておく。

この本で分析されている近年の映画作品の中で、私がかろうじて「そういえば見たことあるなー」と思えたのは、『ウォーターボーイズ』や、宮藤官九郎『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』くらいだった。

『ウォーターボーイズ』という青春映画を昔DVDで見た時は、私もうるうると感動してしまったけど、見終わって少し冷静になってみると、日本のよくできた、面白い映画というのは、いつも青春映画ばかりであるように思われてきて、「日本映画で人生の楽しかったことを描こうとしたら、高校時代の思い出しかないんか! 日本の大人たちには楽しいこと、幸せがないんか!」と腹立たしい気持ちにかられたことを思い出す。「これからどんな映画を見て、どんな音楽を聴いて楽しんだらいいんだろう」と思った。

『思想地図vol.4』の座談会で、「日本のアニメは主人公が思春期の少年少女ばかり。アメリカの『スタートレック』は登場人物が大人だったり、人種的マイノリティだったりする。アメリカは『中年』を描いてサブカルチャーとして成立しているのに、日本はこれができていない」という指摘があった。

大人の居場所がない日本の文化って、いったいなんなの、と思う。
しかしこのことは十分気づかれているみたいで、この本『ゼロ年代の想像力』でも「成熟」というのが大きなテーマの一つとなっている。

私がこの本で最初に面白いと思ったのは、宮藤官九郎のドラマや映画が、「郊外型の中間共同体の再構成」をテーマをしていると指摘するくだりだ。
そ、そうだったのか、そういう風に見ることができるのか…、と、私は感心した。

やっぱり私にとっては阪神大震災とオウム事件が大きかった・・・

90年代のサブカルチャーも扱っていて、鶴見済の『完全自殺マニュアル』や、岡崎京子の「平坦な戦場」という言葉が文章に出てきて、私は懐かしかった。

90年代の後半の一時期、確かに私も『完全自殺マニュアル』をはじめとする鶴見済の諸著作を愛読していたことがあったなぁと思い出した。岡崎京子の『リバーズ・エッジ』も繰り返し読んだ記憶がある。いわゆるサブカルチャーの世界に、私がいちばん深く漬かっていたなぁ、と思える時期は、阪神大震災・オウム事件が起こった1995年以降の数年間だった。これはちょうどこの本で「95年問題」として扱われているテーマとも関係している。いわゆる95年以後の文化状況というものと私の体験が重なっている部分もあったので、なんとか興味を持続させることができた。

私のように比較的サブカルチャーに疎い者でも、この本を読むといろいろと思い当たる節があり、自分の個人的事情と思っていたものが意外と日本社会の他の大きな流れと関係しているのだなということがわかって、うれしいような寂しいような複雑な気分になった。

『ジョジョの奇妙な冒険』を例にした、「カードゲーム」型のコミュニケーションの説明

『ハルヒ』とか『らき☆すた』とかは、見たことがないのでよくわからなかった。
固有名詞で私がわからなくなるのは、おそらく『エヴァンゲリオン』以降の作品群だと思う。

私がここ数年で、ちゃんと見た、と言えるようなアニメは『電脳コイル』くらいだし。

そのような私にとって、宇野氏がよく使う「サヴァイヴ系」とか「現代社会のバトル・ロワイヤル状況」という言葉の意味を、『少年ジャンプ』の「ドラゴンボール」と「ジョジョの奇妙な冒険」という「やや古い例」で説明してくれる箇所がわかりやすかった。

氏によれば『ドラゴンボール』は、「トーナメントバトル」型のドラマツルギーをもとにしており、そこでは、戦闘力を挙げて強いものが勝つという単純な勝ち負けが中心となるストーリーが過半を占めていた。

一方、『ジョジョの奇妙な冒険』という作品では、登場人物はそれぞれ千差万別の能力を持ち、相手の長所・短所との「対応関係」によりそれぞれの能力の適合性が異なってきて、登場人物たちは、より複雑なゲームをこなさなければならなくなった。『ジョジョ』は「トーナメント」方式ではなく、「カードゲーム」型のドラマツルギーに基づいた作品であると言える。

これは私にもイメージしやすい例の取り方だった。

そしてここが宇野氏独特の「飛躍」なのだが、現代のわれわれが住む社会は、『ドラゴンボール』型ではなく、『ジョジョ』型の「カードゲーム」のようなコミュニケーションが行われている社会であるという。

著者が「バトル・ロワイヤル」と呼んでいる状況は、このような配置から見えてくる何かであるらしい。

なるほど―。そうだったのか。

あらためて『ゼロ年代の想像力』から引用してみると、次のようになる。

『(ドラゴンボールの天下一武道会などの)トーナメントバトルにおいて、勝敗を決するのは彼我の「努力と友情」である。つまりこれらの作品では単純な「力比べ」が作品世界を支配している。しかし「幽波紋(スタンド)」という一種の超能力設定が導入された後の『ジョジョ』ではそうはいかない。「幽波紋」の能力はその使い手によって様々だ。「時間を止める能力」「空間を削る能力」といった、山田風太郎忍者小説以来のある種「伝統的」な戦闘能力から、「健康になる料理をつくる能力」や「ギャンブルの賭け金を完全に取り立てる能力」など、イマイチどう戦闘に生かせるのかわからない能力まで千差万別だ。だが、このバラエティが、トーナメントバトルの単純な「力比べ」にはない多様さを作品にもたらしている。』

山田風太郎の名前が出てくるだけで私にはちょっとうれしかったんだけど。

たしかに『少年ジャンプ』の黄金期の作品群は、「戦闘」形式の設定が、山田風太郎の忍者小説に似ていたもんな。

『「ドラゴンボール」においては(中盤まで数値化すらされていた)「戦闘力」が低いものは絶対に高いものには勝てない。強大な敵には、ひたすら修行して戦闘力を上げるしかないのだ。しかし『ジョジョ』では違う。能力Aには長所と短所があり、短所を突けば誰でもそれに勝つことができる。一見、反則的な能力Bにも、その弱点をピンポイントに突くことができる能力Cの持ち主をぶつければ効果的に撃退することができる。グーにはパーを、火には水をぶつけるように、『ジョジョ』の登場人物たちは知恵を絞って戦っていく。「頂点の強いものから底辺の弱いものへ」ピラミッドが形成されているトーナメントバトルに対し、『ジョジョ』では同等の能力をもった戦士たちが無数に乱立しているのだ。』

なるほどー。

『そして、今、私たちが生きているこの世界は、これまで解説してきたようにトーナメント的ではなくカードゲーム的であり、「ピラミッド型」ではなく「バトルロワイヤル型」であると言える。』

ふーん。でも、まだ世間では『ドラゴンボール』型の「努力と友情」の世界がまだ強いように私には感じられる。それは私が「東京」ではなく、大阪に住んでいるからだろうか。

厩戸皇子、『どろろ』、山形浩生、その他

「厩戸皇子の呪縛」という話もおもしろかった。
山岸涼子の『日出処の天子』という、少女漫画の古典的作品をめぐる話だ。
私はその時期の少女漫画では、山岸涼子や萩尾望都よりも、大島弓子の作品のほうが好きだったが。大島弓子の「線」は、その後どういうふうに展開していったのだろう。

→関連記事「大島弓子」:『老師と少年』-なつかしい痛みとは何か 2009年11月27日

手塚治虫の『どろろ』の系譜の話。

「親に捨てられた子どもが、自分の身体を取り戻すために旅に出る」という『どろろ』のテーマが、現代のサブカルチャーにも繰り返し現れているらしい。

手塚治虫の作品の中で私が好きな『どろろ』の話だったので、これも興味深かった。
やはりテーマは「成熟の困難」、というようなものであるらしい。

→関連記事「どろろ」:栗本薫のこと-「生やす」とき、百鬼丸は苦痛のあまり叫んだりする。 2009年11月21日

山形浩生の『新教養主義宣言』にも触れられていた。

これも私には懐かしい。

山形浩生の著作も一時期、熱中して読んでいた。

宇野氏によれば、山形浩生の掲げていた「新教養主義」とは、無教養な「こどもたち」のために知的なインフラ、環境を整備してあげるという趣旨のもので、それは「成熟」という観点から見て「新しい大人の思考」と呼べるものだった。

そうだったのか! 言われてみれば。

とすると宇野氏の見方では、山形浩生氏に影響を与えていた、「橋本治」の位置付けはどうなるのだろう。山形氏から「橋本治」までさかのぼってみれば、たとえば今『思想地図』周辺からは、かなり離れたところに位置すると思われる「内田樹」も、何らかの配置のもとで関連づけて見ることができるようになるかもしれないのだが。

→関連記事「内田樹」:『思想地図 vol.4』を読む⑤-内田樹と握手できそうな所を探す 2009年11月30日

私は甲本ヒロトには何度か救われたような気持ちになったことがあるので、この本の「カウンターカルチャーとしてのブルーハーツと最近の映画での取り扱われ方の比較」もまた興味深かった。

ブルーハ―ツ関係では、しばらく前に外山恒一氏の『青いムーブメント』という1980年代を回顧した本を読んだことがあったが、これは当時の政治運動についての話ばかりで、あまり私の参考になるものではなかった。

現代の子どもにとって「変身」の意味が変わってきている

このような本を読むことの楽しみのひとつは、自分がこれまで見たことがなかった作品への興味を自分に起こさせてくれるかもしれない、という可能性だと思う。「なんかおもしろそうだな、見てみようかな」と読者に興味を持たせることは、このような批評文の役割のひとつだと思う。

2007年に放映されたという『仮面ライダー電王』は、この本を読むまでまったく私の興味の範囲になかった作品だが、宇野氏の「仮面ライダー電王」-変身の意味の変化、という文章を読んでいると、「何かおもしろいことが起きているようだ」と思うようになった。

どうも「変身」の意味が変わってきているらしいのである。
現代の子どもが置かれているコミュニケーション状況と、それが何か関連しているようにも見えてくる。

宇野氏の『ゼロ年代の想像力』から引用すると、

『内気な少年である良太郎は、モンスターに憑依されやすい特異体質の持ち主であり、その体質を利用して本来敵であるはずのモンスターの能力を利用して仮面ライダー電王に変身する。そして変身中、良太郎の人格は完全にモンスター側に切り替わる。良太郎には四体のモンスターが憑依しているので、つまり彼は状況に応じて四つの人格を切り替えて困難に立ち向かうことになる。つまり野上良太郎はその内面に無理矢理「他者」をインストールされ、「この私」というアイデンティティを複数化されてしまった存在であり、なんとさらにはその状況を利用して戦う主人公なのだ。』

何が起きているんだろう…、私も興味をそそられた。

関連記事「人格の解離」:サネヤ・ロウマン著『オープニング・トゥ・チャネル』を試す 2009年11月14日