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三位一体のシンデレラ-キリスト教の「聖霊」って何? 

2009年12月22日 | 宗教・スピリチュアル
いちばんわかりにくい「聖霊」

キリスト教神学の中で「聖霊」ってどういう役割を果たしているのだろうか。

以前から気になっている。

神学に興味ない人にはすまない。

キリスト教には三位一体という教理がある。

三位一体というのは「父」と「子」と「聖霊」-これらは「三」にして「一」の存在である。
このうち、一番わかりにくいのが「聖霊」だろう。

私が手元に置いている、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』という本には、「聖霊は三位一体のシンデレラ」という言葉があった。
次のように。
  

「聖霊は長いこと三位一体のシンデレラであった。他の二人の姉妹は神学の舞踏会へと行くのに、聖霊はいつも取り残されてきたのである。」(A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』)


つまり、古代のキリスト教の神学者たちにとって、まずは「神」と「イエス・キリスト」との関係を決定することが先決で、「聖霊」についてはずっと置き去りにされてきたのである。

聖霊って「自然」がかもしだす聖なる雰囲気じゃないの?

日本語の「聖霊」という言葉が、音の響きとして日本語の「精霊」と同じなのが、私としてはちょっと厄介である。

なぜなら私は、日本人的なアニミスティックな感覚で「聖霊」(=「人格」)を「精霊」(=「気配」のようなもの)に引きつけて理解してしまいそうになるからだ。

宮崎駿のアニメ「隣のトトロ」みたいな、森に住む精霊みたいなイメージを思い浮かべてくれるといい。それが「精霊」である。あるいは、西行法師の「何ごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という文句も、日本人的な「神」の感覚で、こちらのほうが私には感覚的にわかりやすい。しかしキリスト教の「聖霊」というのは、イエス・キリストや神と同じく「人格」を持っているといわれる。しかもそれが「ひとつ」の存在であるらしい。よくわからなくなる。

前掲『キリスト教神学入門』では聖霊についてアウグスティヌスの有名な説などが紹介されていたけれど、まだ足りないような気がする。しかし、この本には、キリスト教徒の聖霊体験というのが、宗教的なトランス体験の一種であるらしいことが、現代の「聖霊運動」などに触れることで示されている。私はこの宗教経験としての「聖霊体験」というものに興味があるのだ。

現代の教会で「聖霊」がどういう風に扱われているのか、具体的な例を知りたい。あるいは、もうちょっとくだけたわかりやすい話を聞きたいと思った。

ポップでわかりやすい平野耕一氏の『よくわかる聖霊論』

そこで図書館で参考になりそうな本を探していると、平野耕一『よくわかる聖霊論』(2009年)という本を見つけた。

これはよい本。本当に読みやすくて、わかりやすい。

聖書からの引用が多く、聖書ではどういうときに「聖霊」という言葉が使われるのか整理されていて、それらを見比べることができる。
なんとなく大体の輪郭がつかめるようになっている。

聖霊は、ときに「鳩」または「風」にたとえられる。


『またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。」』(ヨハネ1・32)

『風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。』(ヨハネ3・8)


この本ではほかに、油、証印、息と風、火などが聖霊の象徴として使われると書いてある。各々について聖書からの引用があり、それぞれにわかりやすい解説がついている。ほかにも聖霊がどういう機能を果たすのか、聖霊はどんなときに働くのか、などがこまかく解説されている。

この本のアマゾンのレビューで「装丁がかっこいい」というコメントがあったけど、私もそう思う。本の作りも内容も、ちょっとアメリカ的なポップな感じがする。

内容では、聖霊がアルコールと対比されるというところが私には面白かった。


『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』(エペソ5・18)


当たり前のことかもしれないけど、やはり聖霊は「トランス」体験と関係ありそうなのだ。キリスト教以外の宗教体験とつながっているような気がする。

「聖霊」は聖書では「御霊」とも言うが、それは時に「悲しんだり」「とりなしをしてくださったり」する存在らしくて、聖霊はとても「人格的」な存在なのである。
ここがよくわからないところなんだ。


『神の聖霊を悲しませてはいけません。』(エペソ4.・30)

『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』(ローマ8・26)

聖霊の「誤配」はないのだろうか?

もうひとつ、この本で何度も強調されているのは、聖霊というのは、クリスチャンだけに訪れるものだ、ということ。

つまりクリスチャンではない人間にとっては聖霊なんて関係のない話だという。
なーんだ、がっかり。
でも、聖霊にしたって、そこで「誤配」みたいなものが起こることもあるのではないだろうか。
と、なおも食い下がってみたくなる。

手紙が間違って郵便配達されるように(=誤配)、クリスチャンの聖霊も、非キリスト教徒の人間に間違って配達されてしまう、ということはないのかな?

佐藤優氏(同志社大学の神学部出身で、鈴木宗男氏とともに有名になった人)がその本『獄中記』(2006年)で、「聖霊」というのは「コミュニケーション」なのかもしれない、という説を立てていたけど、あれはその後どうなったのだろう?


『ハーバーマスが「コミュニケーション」と名づけているものは、古代、中世のキリスト教神学が「聖霊」と呼んだものに近いのではないかという仮説を私は立てています。』(佐藤優『獄中記』194p)


「聖霊」が「コミュニケーション」であり「ネットワーク」であるというのなら、ますますそこに「誤配の可能性」が生まれやすくなるような気がする。(東浩紀『存在論的、郵便的』(1998年)参照)

ネット上で佐藤優氏の「キリスト教神学概論」という文章が読めるみたいだけど、これは私には難しすぎる。これなら、A.E.マクグラス『キリスト教神学入門』のほうが私にとってずっとわかりやすい文章である。

2ちゃんねる用語の「神」とキリスト教の「神」について

ただ、『よくわかる聖霊論』という本を書いた平野耕一氏は、アメリカ帰りの人で、現在、東京ホライズンチャペルの牧師さんらしいのだけど、そのHPで平野氏の説教集をダウンロードして読んでみると、平野氏がイチローのことを「神」と呼ぶ日本人を非難したり、興福寺の阿修羅像を大切にすることを「偶像崇拝」と決めつけるなど、いかにもキリスト教徒らしい考え方をされるのを見て、ちょっとがっかりした。これでは、2ちゃんねるなどネットで使われる賞賛の言葉としての「神」、というのも糾弾の対象となるのだろう。2ちゃんねるの「神」という言葉は、わたしには「神業」や「神さびた神社」など、昔から形容詞的に「神々しさ」を名指してきた日本人の伝統と合致している用法のように思えるので、こうした「広がりのなさ」は、ちょっと残念。

それにしても、キリスト教徒が考える「神」と日本人が考える「神」とのちがいを考える上で、平野耕一氏の説教は「典型的」なもので、参考になると思うので、以下に一部引用しておく。


[以下、東京ホライズンチャペル・平野耕一氏の説教 2009年9月20日の聖日礼拝メッセージ『信仰から信仰へ』より]

…日本人は、何でも神にしてしまうところがあります。イチロー選手がメジャーリーグで活躍しています。
…テレビを見ていると、観客席に大きなプラカードを持っている人がいて、「一郎は神だ」と書いてあるのです。メジャーリーグの選手にはクリスチャンが多くて、彼らはホームランやヒットを打つと、天に向けて指を指して、「これは、神様、あなたのおかげです。感謝します。栄光をあなたにお返しします」というジェスャーをします。観客席にいる人達に、「自分は神を信じてプレイしているのだと」あかししているのです。
…そういう文化の中で、「イチローは神だ」というのは、本当に恥ずかしい。イチローが「一流である」とか、「世界一だ」と言うのは構わないけれど、「イチローは神だ」と言ったら、アメリカ人はおかしいと思うでしょう。しかし、日本の人達は、そういうことができてしまう精神構造を持っているようですね。

…それでは、なぜ、人間は偶像が好きで、偶像礼拝が世界にはびこっているのか。
…第一に、自分の好みに合った偶像を選ぶことができるからです。自分でチョイスできる。蛇がいいな、お狐さまがいい、お狸さまがいい。鳥がいい、牛がいいと、自分で選ぶことができます。
…第二に、これらの偶像は、皆人間の手の技です。芸術というのは、もともと自然世界を描くためにあったのではなく、偶像をつくるためにあったのです。

…ですから、最高のアーティストが、自分の最高の能力をかけてつくるのが偶像なのです。8 年前、日本とパリでアートの交換をしました。日本の芸術作品がルーブル博物館に行って展示され、ルーブル博物館からアートが送られて来て日本で展示される。ドラクロワのフランス革命の絵を筆頭として、何枚かの絵が送られて来たのですが、日本の方から何を送ったかというと、興福寺という寺にある阿修羅像です。インド由来の女神が、何本もの手を持って踊っている偶像です。結局、日本が送るものは偶像なのだとがっかりしました。日本が持っている最高の芸術作品は、偶像なのか。それが日本の代表的な芸術作品としてパリに行った。よくできた。最高傑作だと言って。

…では、偶像をもって神様をほめたたえるのかというと、そうではなく、自分の手の技に自己満足するだけです。これは自分が作った、自分の技術だ、これは神をつくった手だ、なんとすばらしい手だろうと、自分をあがめるわけです。

[以上]

関連記事: 佐藤優氏の神学入門-『はじめての宗教論 右巻』はやや残念だった 2010年01月13日
(→佐藤優氏の本の感想。マクグラスの文章の紹介。)