ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

主軸のずれ、「生」の冥さ、「生権力」の増大

2009年12月25日 | 日記
「(おんぼう)」と「納棺師」

2009年12月18日(金)の読売新聞で、松岡正剛氏が「死生観」についてインタビューを受けていました。

「編集工学」という氏のライフワークも、松岡氏の父親の死がきっかけとなったことなどを述べておられます。父親の死後、福島県・奥会津の寒村に滞在し「(おんぼう)」と呼ばれる遺体焼却炉で働く人たちと共に生活し、そこから日本の「主軸のずれ」について考えていたともおっしゃっている。「」への興味というのは、今なら『おくりびと』の納棺師でしょう。私はその映画をまだ見ていませんが、「死」やその「周辺」への関心と、日本の社会の軸がどこかズレているんじゃないかという感覚とは、昔も今も、底流でつながっているのだろうと思います。

[以下、2009年12月18日(金)読売新聞 長寿革命第4部「死生観」総集編-松岡正剛氏インタビューより]
…葬儀の「お経」も、本来はオバマ米大統領の演説などよりずっと大切なメッセージをこめたものだったはずですが、いまの葬儀ではそれも伝わらない。
…私は1960年代、病院での父の死に立ち合い、社会の「主軸のずれ」を感じました。胆道がんで全身状態が悪化し、死の間際になると、あろうことか看護婦さんらが私たち家族を強制的に病室の外に追い出し、代わりに飛び込んできた医師は、通電ショックで少しでも延命させようとした。家族を驚かせない配慮かもしれませんが、結局、一番大切な時間を看取ることができなかった。家族の思いと医療が並び立たない状況に愕然とし、社会がおかしな方向に「ずれ」始めていると感じました。
…そこで「死」の現場を知ろうと、福島県・奥会津の寒村に滞在。「(おんぼう)」と呼ばれる遺体焼却炉で働く人たちと共に生活し、社会の辺境から「ずれ」の原因を考えた。それが、多領域を結びつけながら社会や世界の成り立ちを解き明かそうとする私のライフワーク「編集工学」の出発点でした。
[引用以上]

「通夜ぶるまい」の席でリアル・伊丹十三『お葬式』を見聞してみたり…

わたしは葬儀場でアルバイトしていたことがあります。
通夜や告別式などの合間に、親族や弔問客が集まって食事をする場面が何回かあります。
「通夜振る舞い」というのもその一つなのですが、私はそこでお寿司等を給仕する仕事を一年ほどしていました。

またその前は、ある有料老人ホームでの皿洗いのバイトをしていましたので、私は20代の頃「老いていくこと」や「死んでいくこと」を横目でチラチラ見ながら過ごしていた時期があることになります。仏教の「生老病死」の教えや、現代の社会から排除されていくもの、といった問題に関して、そのような自分の経験や観察を参考にしつつアレコレ考えたり感じたりしていました。

中学生の頃、私のおじいちゃんが体中にチューブをさしこまれながら、病院のベッドで死んでいく痛ましい姿を脇で見ていて、子どもながらに「医学ってなんなんだろう」「死生観(宗教)ってなんなんだろう」といったことについてぼんやりと考えていたことを思い出します。

現代の社会は、一方で「死」というものが見えなくされ、隠されていく社会であるわけですが、他方で「生」というものが「医療」などの手段によって、過剰に「透明化」され、パッケージ化され、陰翳のない「明るい」ものになっていくような感じを私は持っています。

「死」の隠蔽。「生」の透明化。「生権力」の暴走。

弘法大師は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という言葉を残していますが、人間の生死は、始めと終わりが暗いだけでなく、その中間の「生きている」というところでも「冥さ」を抱えているように思われます。が、その「冥さ」をないことにしているのが現代のような気がします。それが生の「透明化」ということで私が言おうとしていることです。

私は喫煙者なので余計そう感じるのかもしれませんが、時々「医療」というものがわれわれの生き方まで「指図」しているような感覚を持つことがあります。

関連記事:わたしは「煙」に巻かれたい-タバコ税について 2009年11月22日
(→タバコ税増税にやや被害妄想気味に、喫煙の習慣を撲滅したいのだったら、その代わりになるものをくれ! と痴愚ハグな要求をしている文章です。)

メタボ検診を強制するという話でも単純に「やだ」と思うのでもしかすると私の被害妄想なのかもしれませんが、大げさに考えるとフーコーの「生権力」というのはこういうことか、と思ったりもします。

福嶋亮大氏-「生権力の暴走に対して人間的なものをどこに新たに担保するか?」という視点の必要性

最近久しぶりに更新してくれた批評家・福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』で、「阿久根市長発言と生権力」2009年12月23日という記事がありました。

阿久根市長が障害者差別発言をしたとかいうニュースに関し、福嶋氏はその報道のし方を、フーコーのいう「死なせる権力」「生きさせる権力」とからめて批判しています。

それを読ませていただいて私が思ったのは、(おもいきり阿久根市長の発言を短絡化してみた表現でいうと)「障害者は生まれてこないほうがいい」という考え方はおかしいと思うけれど、その辺りのことを「考えてはいけない」という日本はかなり異常だということです。
なんといったらいいか、グレーなところはグレーなところとしてゆっくりと考える必要があり(人間の生につきまとう「冥さ」を追い払うことはできない)、また、私には、医療ごときにわれわれの「生の配慮」が全部引きずられていくような感じがして気持ち悪いです(「生権力」の暴走)。本来なら個人や共同体や宗教やらが引き受けるべきだった場所が、今医療現場とか葬儀会社とかに押し込まれすぎている。じゃあどうすればよいのかというといい答えも見つからないわけですが。

このあたりのことは考え始めると頭の中がグルグルとなってしまいますが、ときどき立ち戻ってくるべき問題だと自分では思ってます。


[以下、福嶋亮大氏のブログ『仮想算術の世界』「阿久根市長発言と生権力」2009年12月23日より引用]

…阿久根市長の竹原信一の発言は非常に重要です。「高度医療が障害者を生き残らせている」という発言が実はきわめて正確であることは、フーコーを読んだ人ならわかるはずです。フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つまり「死なせる権力」です。もう一つは、この世界に出生した生命を最大化する権力、つまり「生きさせる権力=生権力」です。高度医療にせよ、社会福祉にせよ、近代の制度的デザインというのは前者から後者への移行として捉えられる。要するに、人間の生にダメージが加えられたときにそれを修復するとか、予測不可能なアクシデントが発生したときにそれをカバーする保障制度をつくるとか、そういうメカニズムが非常に発達する、それが生権力の時代です。

…その点では、阿久根市長が「権力者だ」と言われるのは、二つの権力を混同しているところに由来する。一方から見れば、阿久根市長は、血も涙もない古典的権力者に見える。しかし、他方から見れば、彼はむしろ高度医療そのものが生権力の源泉になっており、「生命を最大化する」ことのもたらす弊害が無視できなくなっていることに着眼している。このズレは深刻です。

…裏返せば、生権力の時代には「死」がタブーになり、また今回のようにスキャンダルになる。だから、積極的に「死」を選択することに対しては、それこそ強い圧力(権力)がかかります。その点では、安楽死をテーマにしたドゥニ・アルカンの『みなさん、さようなら』(原題は『蛮族の侵入』)や、納棺師を主人公にした滝田洋二郎の『おくりびと』みたいに、死(あるいは死体)にじかに触れるような映画が出てきたのは、単純にいいことでしょう。そもそも、高齢者がどんどん増える社会で、安楽死や尊厳死の制度がちゃんと整備されていないというのは非常にリスキーなことです。かく言う僕も、肉親のこと、そして自分自身のことを考えると、「生きさせる」権力の肥大化は他人事ではないと感じる。まぁ『みなさん、さようなら』や『おくりびと』っていうのもちょっとやり方は古典的で、見てもらえばわかりますが、要は古い「死の儀礼化」をもう一回やり直しているわけです(それはそれで感動的なので構わないのですが)。しかし、本当に必要なのは、儀礼ではなく、もっと手続き的に死を選べるように、制度を考えるということではないか。

…ついでにいうと、これは(『思想地図』的に言えば)「切断が機能しない」社会の特徴でもあります。『思想地図』三号では、物理的世界では切断が機能するが、データの世界では切断が機能しない(だから、延々とコミュニケーションが続く)と言われていた。ところが、阿久根市長発言が示すのは、むしろ物理的世界でも切断(つまり死なせること)が機能しない場面があって、それが問題になっているということです。

…いずれにせよ、生権力への移行ということを押さえておかないと、阿久根市長を権力者だと言って批判している側こそが、最悪の生権力に操られているということになりかねない。別に大手新聞の記者も、高度医療が抱えている無数の問題を知らないはずはないと思いますが、要は空気を読んでいるだけですね。今の報道姿勢は最悪です。

…むかしユリウス・ハッケタール(患者を安楽死させたことでスキャンダルになったドイツの医者)の『最後まで人間らしく』(未来社)という本を読んで感銘を受けたことがあるのですが、やっぱりヨーロッパだと「人間的なもの」をめぐる再帰的なコミュニケーションが発達してるから「生権力の時代において、では人間的なものをどこに新たに担保するか?」という問いがちゃんと成り立つ。つまり、生権力の暴走に対して「いや、そうは言っても人間らしい生ってあるでしょ?」というコミュニケーションができる。しかし、日本だと、そんなコミュニケーションは到底できそうにないということが今回白日のもとに曝されたわけで、とりあえず一市民として不安でなりません。

[引用以上]