ブログ・プチパラ

未来のゴースト達のために

ブログ始めて1年未満。KY(空気読めてない)的なテーマの混淆され具合をお楽しみください。

村上裕一氏の代理的想像力

2009年05月30日 | 思想地図vol.3
 村上裕一氏の『Fate論』は、エロゲーを知らないこの私にも、心に食い込んでくるような迫力ある、いわば実存に触れてくる文章だった。文学や哲学や批評の言葉を読みはじめて、何だかわからないドキドキ感が持続して、ついつい最後まで読み進めてしまった、なんてことは私の場合は学生時代以降、めったにない体験となってしまったが、久しぶりにそのような感覚が甦ってきた。
 ネットで、「ゼロアカ第五次関門の私記」というねっちりと書かれた村上氏の長文の報告を読んでみると、この人が自らとは違ったあり方をしている人間への想像力も併せ持っているらしいことに気づき、彼がこれから行う「ゴースト論」などへの期待や信頼感が、私はそれによって高まった気がした。

 例えば私はゼロアカ関係の動画で「三ツ野君」のたたずまいを見ていると、なんとなく過去の在る時期の自分や、周りにいたかもしれない誰かのことが想起されて、血圧を測る時に腕にまきつけるゴムが押し付けるくらいの圧力で、かるくQと胸がしめつけられるのを感じた。それは、彼のようなあり方にたいする、無視や憫笑的な反応がある程度予測できるという意味でもQだった。つまり三ツ野氏の書くものの独特の「弱さ」や「青さ」がそうなのだが、その「たたずまい」も多分、一般的に理解や受容の面で困難にぶつかるだろう(ぶつかってきただろう)、と思った。(キャラ的に「ユーモアある人」としての「受容」ならありそうだが、ここではそうではなくもう少し「真面目」に「理解」されるということ)

 だから私は村上氏が、三ツ野氏を「在る一つのコミュニケーションの方法」として評価しているのを見てびっくりした。そういう風に「理解」する人がいるのは意外だった。
 「在る一つのコミュニケーションの方法」を、村上氏は「自分の中にあるフラジャイルなものを基点にした内省によって外部と接触していこうとするような態度」と表現している。こんなことをまるでテキトーな日記を書くみたいにやすやすと書いてしまうのだから凄い。
 観察すること、感受すること、思考すること、文章を書くことが、この人にとってはホントに空気を吸ったり吐いたりするくらい自然にラクにできる事なんだろうなー、すごいなーと私に思わせた箇所だ。

 『(村上裕一「ゼロアカ第五次関門の私記」より)…三ツ野さんの発表の特徴はその等身大的なところにあって、強さよりも「弱さ」にスポットしたものである。だから僕が考えるにその発表は彼自身の喋り方とか態度とかいったもの、つまり共感性みたいなものと非常に密接な関係があって、その点からいえば非常に正しい喋り方をしていたように感じる。それは叩きつけるような荒々しさや、傷つけるような鋭さを排除し、あくまでも自分の中にあるフラジャイルなものを基点にした内省によって外部と接触していこうとするような態度で、撮影された動画の時点からもそうだったけれど、穏やかで、好感を覚えるものだったように思う。』

 こう言う村上氏のたたずまいは別に「フラジャイル」なものではない。
 文章を読んでも、むしろ「力量ある書き手」という感じがしてちっとも弱くない。
 なのに、こういうような想像力を働かせることができる。
 私は、こういうことを書いたり言ったりする奴には、こういうことは理解できないだろうという偏見・先入観があったみたいで、だから私には村上氏の文章には意外性があったのだが、他の人にはそうでもないのかもしれない。 
 変なイメージだが私には「想像的にのび太にもなれるジャイアン」みたいな「あり得ない感」があったのだ。

 こうした村上氏の代理的想像力というか、「自分ではない自分」を基点としてあれこれ考えることができるという能力、そこにいたかもしれない自分・ここにいるかもしれない他人・未来かもしれない自分等をシャッフルさせるような想像力は、ゴーストとかネットとかゲームとかそういう「無機的な」批評の文章を書くときにもどこかで生きてくるような気がした。(だからもっと読んでみたいと思った)