takaさんの今日もsimple

整体師なtakaのごく、何てことない一日の話です。

77喜寿いわい

2006年03月21日 | Weblog
早いもので私の父も77歳になった。
ラッキーセブンがダブルで来る歳なんて めでたいじゃん♪
くらいに思っていたら、そういえば、77歳とは喜寿と言われるのだった。
喜寿とは調べてみると
77歳・・・喜寿(きじゅ)

「喜」の崩し字は七を三つ書きますので、それが「七十七」に似ているので喜寿と言います。古希と同じくお祝いの色は紫です。

ほほー・・そうかあ・・・だからかあ・・・
60歳は還暦で赤いちゃんちゃんこ くらいの乏しい知識しかなかったが
還暦から始まって
70歳の古希77歳の喜寿80歳の傘寿88歳の米寿90歳の卒寿99歳の白寿100歳の百寿
と、つづいている。

毎年2月の母の誕生日はあれこれと前々から準備したりするものの
父の場合は、とりあえずケーキ買ってくるか という成り行きになることが多く
(考えてみれば かわいそう。←いや、考えて見なくてもかわいそうか
今年もまたそんな感じで居た私。
しかも当日は 都合が悪く(私の)翌日の昨日にお祝いしようねーなんて
かるーく 受け止めていたので、「喜寿」なんて特別な響きをもつ年だったのかと知って あらら・・・ な気分。
ネットで喜寿のお祝いってどんなものあげるのか検索してみたら
ガラス製の時計に「喜寿」なんちゃって彫ってあるものとか
紫の大黒帽子に紫のちゃんちゃんこに紫の座布団の3点セットとか・・・。
息子と二人で画面の前でしばし無言で見入った。(しゅ・しゅみじゃない・・
母いわく、外で一席もうけようかとも思ったけど、もともとおうち大好き主義で
外食は好まない人なんで、いつもどおりでいこうという事だったので、そうすることにした。
で、結局私は ネクタイを贈ることにした。

子供の頃、公務員だった父の朝の出勤姿は背広にネクタイ。
幼い私は 鏡に向かってネクタイをシュッとしめる所を見るのが大好きだった。
その後長きに渡って大きな反抗期を迎える私も、幼い頃は父にまとわりついて離れないタイプだったので、邪魔しちゃ駄目よ~と母に注意されながらも、その朝の儀式(子供にはそう見えた)を見逃してなるものかと、毎朝必ず見守っていた。
ある日、百貨店に連れて行ってもらった時、父のネクタイを新調していたのだが、どれにするか選びあぐねていた父が、ふと私に「どれがいいと思う?」とたずねた。ネクタイを「儀式」の特別なアイテムと捉えていたチビtakaにとって、それはかなりの大役を仰せつかった気分であったのを覚えている。母じゃなくて、私に選ばせてくれるとは!と誇らしさにはちきれそうになって選んだその一本を父は大変気に入って母も褒めたので、ネクタイはたーちゃんに選んでもらうと間違いないね と笑った。チビtakaは嬉しさの絶頂内心大興奮。
まあ・・私も子供を持つようになって、親の心理とか手の内とか、わかっちゃうようになると、何てことな~いシーンなのだが、当時のチビtakaには、たいそう特別な出来事なのであった。
なにしろ、兄弟4人ですからねー。。。3番目ですからねー私。。
他の3人は意識して無くても私一人はいつも「私だけ特別の事」を意識してたんでしょう。

そんなわけで、大人になってからも、よく父にネクタイを贈る。
三つ子の魂とはよく言ったもので、未だに父のネクタイに関しては、私が選んだものが一番センスがいいと信じている自分がいて、、(苦笑。
どれにするか選ぶたびに、小さい自分が後ろでチェックしてる気がしてくるのが不思議である。

南国の離島育ちで、B型一族の血を濃~く継ぐ父は、超がつくマイペース人間。
(おまえが言うなっ!ちゅうとこだがね
自分が一番。自分が白と言えば黒でも白というタイプの昭和一桁。
長年妻を努めている母は いつも父に振り回されては溜息&愚痴。
娘時代は そんな我が家の絵図らが嫌で嫌で ずいぶん反抗したもんだけど
まあ、その両方の血を まんべんなく継いでると、自分の中に流れていると、
あるときから実感して認めてしまっている私としては
何ともほほえましいんじゃないの うちって。と、今では思ってしまう。

バースデイケーキに灯る蝋燭の火を 嬉しそうに眺める父の顔をみてると
誰かの誕生日のたびに、満員電車の中を必死で六本木クローバーのケーキの箱を死守して帰ってきた頃が思い出された。

直接言えないけど、お父さん ずっとありがとう。
次は傘寿だね。今度は傘でも贈るか(いや、そういうことじゃ。。。