『葬式は、要らない』の島田裕巳氏の講演を聴きにいきました。パチパチ!
予定調和の講演で正直、「所詮、、、」と思ったのですが、僕りんの質問に対する氏のオフレコ回答には我が意を得たりでした。やっぱり著者をしてそうなんですよ。本は○○為に書いているんです。
お葬式をする、しないが、僧侶側からは「寺院運営という名の自分と家族の生活費が減る」、施主側からは「生きているものに使うお金はあっても、死人に使いたいお金は無い」というレベルで論争しているうちは誰も幸せになれません。
そうこうしているうちに、『千の風になって』を曲解して、「お墓には誰もいないよ。だったらお墓はいらないよ。そもそも死んだら【無】だよ。泣く必要ないよ」という人が増えてきているようで心配です。合理化を推し進めれば、やがて自分自身の存在が不要だという考えに至らないとは限らないから。
たまたま昨夜のNHK教育の『ETV特集』で“さよなら”を言う前に ~我が子の脳死と向き合った家族~を見たんですが、延命治療や葬儀は残された家族の負担になる、だなんてさらっとは言えませんよ。法で決まったように脳死が人の死なら、脳死状態の人間は【無】ってことです。では、脳死の我が子を生ごみとしてゴミ箱に遺棄できますか?仮に心臓が止まったとしたら?
人間の気持ちに線引き出来ない以上、生と死も人間が勝手に線引きなんてできません。
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