金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第28回 「世界一の男優」

2005-10-24 23:16:02 | 日本語ものがたり
 皆さんは「望郷」(原題「ペペ・ル・モコ」)という映画をご覧になったことがあるだろうか。1937年の名画である。監督は名匠ジュリアン・デュヴィヴィエ。アルジェリアのカスバに咲いたペペとギャビーの恋の物語だが、パリから来た女ギャビーを演じるのがミレーユ・パラン、そしてパリに思いをはせる悪党ペペ・ル・モコ役が名優ジャン・ギャバンである。文藝春秋の「大アンケートによる洋画ベスト150」(1988)の男優ベストテンでは、二位のゲイリー・クーパーに大差をつけて断トツ一位。文字通り「世界一の男優」である。

 まだ「望郷」を見ていない方は、是非ビデオを借り出してご覧になってほしい。これぞまさに名画である。ペペがギャビーを抱き締めて言う、あまりと言えばあまりにも有名な台詞が「メトロの匂いがする」。逮捕あるいは殺されることを知っていながら、カスバを出て波止場に続く石段をおりるペペの表情の変化。そして、鉄柵にすがりついて船上のギャビーの名前を呼びながらペペが絶命する最後のシーン。技巧派デュヴィヴィエの最大傑作、映画の教科書と言われるだけのことはある。

 私は特別の思い入れがあってこの映画を何度も見ている。1984年から86年までの2年間を私はアルジェリアで過ごした。アルジェリアがまだ安全な時代だったが、間組という建設会社が水力ダムを作っていた現場でフランス語の通訳をしていたのである。よく仕事で首都アルジェに行ったが、その時にはカスバを歩いた。「望郷」に出て来るカスバの風景も、私にはこの足で歩いて懐かしいものばかりである。アルジェリアはその後外国人にとって極めて危険な国となり、出国以来まだ一度も戻れないでいる。日本人が設計しアルジェリア人が4年の歳月をかけて作ったガルガル・ダムも果たして今ではどうなったことだろう。今は少し治安が落ち着いたみたいだから、やがて再訪出来るのを楽しみにしている。

 さて、今回この名画を思い出しながら考えてみたいのはフランス語の発音とその日本語表記についてである。ジャン・ギャバンというカタカナ表記は実は問題なのだ。どう考えても仏語の発音はギャバンではなくガバンである。フランス語の ca、gaを「キャ、ギャ」と読むのは、日本人の勝手な創作なのである。GabinとそっくりのGabonは旧仏植民地のアフリカの国だが、これも単にガボンで、ギャボンなどと言うと笑われる。 手袋(gant)だってガンでありギャンではない。ギャは英語読みである。この映画で恋人役のギャビーも、ガブリエラ/ガブリエルの短縮形で本来の発音はガビーだ。

 フランス語の ca、ga は「カ、ガ」であって「キャ、ギャ」という拗音にはならない。co、go が「コ、ゴ」であって、「キョ、ギョ」とはならないのと同じである。しかし、cu、guと書くと、これらだけは「ク、グ」ではなく「キュ、ギュ」という拗音になるから注意が必要だ。「キュ、ギュ」の例は多い。すぐ思い付いたのが2つとも格調の低い語彙で申し訳ないが「お尻」(cul)がキュ、「寝取られた夫(まれに妻)」は御存知の(cocu(e))コキュである。

 では「望郷」が日本で公開された1939年に何故ジャン・ガバンはジャン・ギャバンに化けたのか、その謎を解いてみよう。ガバンよりはギャバンとした方が、gang(ギャング)の親玉みたいなイメージが出て来る、と思った配給会社のソロバン勘定を私は感じるのである。ギャバンとしないで原語の発音通りガバンとすると、まるで「かばん」みたいではないか。これでは語のイメージが悪く、折角の名作がヒットしないという懸念があったのではないだろうか。

 もっとも、変えられたのは人名の発音だけではない。映画の題も変わっている。「ペペ・ル・モコ」はジャン・ギャバンの演じた男の名前だが、日本ではこれでは売れないと判断されたのだろう。「望郷」と変えられた。「旅情」「哀愁」など他の名画と紛らわしいが、いかにも日本人好みの題である。「アリー・マックビール」(日本では「アリー・マイ・ラブ」)「ダーマ&グレッグ」「バフィー」「エンジェル」「フレイザー」などの例を挙げて、「アメリカのTVドラマのタイトルに主人公名が多い」と指摘するのは国際交流基金の杉本純子さんだ。今はトルコの首都アンカラにいらっしゃる。杉本さんがそのことをイギリス人の友人に言うと「僕は日本で付けられたタイトル「リトル・ダンサー」(原題は主人公名の「ビリー・エリオット」)というタイトルは変だと思った。そんなタイトルにしたら、イギリスでは映画館に客が入らないだろう」と言われたそうである。ここにも文化の差が伺えて面白い。

 何はともあれ、配給会社の戦略という私の大胆な(?)仮説がもしあたっているとしたら、ca, ga を「キャ」「ギャ」と日本語で読む誤謬はこの映画をもって嚆矢とするのかも知れない。「コム・デ・ギャルソン」などというブランド名が誕生するに至ったのもその結果か。お墓の下で「世界一の男優」はガハハと笑っていることだろう。そう。ギャハハでなく。(2003年9月)

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2 コメント

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フランス語子音の硬口蓋化 (藤野 薫)
2010-07-12 15:39:28
 フランス語では /c/ や /g/ が口蓋化することはなく、ジャン・ギャバンという表記は日本での創作だと書かれています。
 (カナ書きすることをお許しください)少なくとも、パリ周辺では「ギャルソン」「キャフェ」という人もいますから、「ギャバン」という発音が絶対に行われないと断じることはできないと思います(各地の方言については知る由もありませんが)。
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ガルソン・ギャルソン (たき )
2010-07-16 00:09:03
藤野さん、

コメント、ありがとうございます。

そうですか。私自身は「ガルソン」を「ギャルソン」と発音する母語話者に会ったことがありません。ちなみに辞典を見ると
どれも前半は「gar-」のみです。
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