今回は「ラ抜き言葉」についてお話ししたい。「らぬき?何のこっちゃ」とつぶやかれる方も多いとも思うが、最近日本でよく目や耳にする言葉である。
数年前、「早いものでカナダも今年で20年。多くの方に励まされてここまで来れました」と投稿記事の中に書いたら、ある方から「来れました」ではなく「来られました」ではないか、とのファックスを戴いたことがある。二つを比べると前者には「ら」が抜けている様に見える。これが「ラ抜き言葉」と呼ばれる現象で、頻繁に目にするが普通は誤用とされている。
このページの続きは以下に引っ越しました。
https://shugohairanai.com/2-term-ra-skipped-words-not-right/
母音連続を避ける無意識の努力が、日本語とフランス語それからコリア語にも共通して観察出来るのは何だか楽しいです。
命令形のところですが、「tabe+e」→「tabere」となるってことですね。差し詰め「e」は命令の助詞といったところでしょうか。
これを見てですが、例えば終止形は「tabe+u」→「taberu」というように考えられますし、こういう風に文法を(活用形無しで)再構築することってできないでしょうかね?、と思った次第です。
あと、「飲ませられる」→「飲まされる」ですが、縮約形というよりも使役の助動詞「す・さす」を用いた形だと思うのですが。
ギリシャ語をおやりですか。
コメント有難うございました。おっしゃるように形態論の再構築は出来ますし、またしなくてはいけないと思っています。形態論、語形論を平仮名でやっていてはいつまでたっても言語学からは相手にされません。
使役受身ですが、五段動詞の場合をローマ字で書けば-aserare-で、その中の-erが落ちて-asare-になると私は思います。
一段動詞の場合は-saserare-ですから、これから-erを落とすと-sasare-となってしまいます。「ささ」の言いにくさが原因で五段動詞ほどは短縮されないのだと考えます。
もし、いはゆる「ラ抜き」が「R 入れ」ならば、「これる(来れる)」の古い形として「こえる」を推定せねばなりません。「きえる」ならば、カ変動詞「くる(来る)」の連用形+可能の補助動詞「える(得る)」でせうが、「こえる」は、寡聞にして知りません。
「こえる」とは、一体なんでせうか。
「する」と「来る」の語幹はそれぞれ「S-」「K-」だけなので一段動詞「食べる」などの「Tabe-」とは違います。
変格ですから語幹ではなく未然形の「こ」が使われ、こにRを介して「eru」を付けたのが「来れる」でしょう。
後半は一段動詞語幹の「たべ」にRを介して「eru」を付けた「食べれる」と並行しています。
「する」の方も甚だ変格で、一見必要に思われるRを介しません。連用形「し」に直接「eru」がついて「(理解)しえる」などとなります。
なぜ「(R)-eru」の前が、「来る」では未然形「こ」、「する」では連用形「し」なのかですが、これは「来ない」「しない」からの類推ではないかと思います。
それから、「これる(来れる)」の古い形として「こえる」を推定せねばならない」とお書きですが、母音連続を避けるための子音は、時間的に遅れて挟まれるのではなく、同時に発生されるものと思います。
しかし、新たな疑問が生じてしまひました。
一、「R 入れ言葉」が生ずる際、 eru の接続と緩衝子音 r の挿入が同時に起こったのなら、それが r-eru なのか、実際には reru なのか区別できないのではないか。
二、カ変動詞「くる」の語幹は k であり、緩衝子音 r 無しに eru が接続して「ける(k-eru)」になりうるのに、さうならず未然形の o と緩衝子音が挿入された「これる(k-o-r-eru)」になったのはなぜか。
また、おこたへから新たに生じたもののほかにも、疑問があります。
三、可能動詞の発生は「ラ抜き言葉」乃至「R 入れ言葉」の発生に大きく先行した様で、異なる時期に発生したものをひとつの現象ととらへるのは、無理ではないか。
四、「みれる(見れる)」「これる(来れる)」を使ふひとも「ありえる」を使ふはずである。若いひとも「ありえなーい」と用ゐる。「ありえる」には子音挿入がなく、母音連続がのこったままである。口語では四段動詞の「ある」が文語ではラ変動詞であることを考へても、腑に落ちない。子音挿入が必要なほど母音連続回避の圧力が高くはないのではないか。
徒然草第二十二段に、
古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。
と、あります。遅くとも十四世紀には母音連続回避圧がかなり弱まってゐたことを意味しさうであります。
よろしければ、またおこたへを頂戴したうございます。
活用の種類がおなじでも母音連続の有無が異なることがある様です。
やへがき やくもというのは、もしや島根県出雲のご出身でしょうか。先月帰国した際に生まれて初めて山陰へ行ったのですが、松江では小泉八雲記念館にも参りました。さて:
一、「R 入れ言葉」が生ずる際、 eru の接続と緩衝子音 r の挿入が同時に起こったのなら、それが r-eru なのか、実際には reru なのか区別できないのではないか。
==>確かに「帰る」などでは「kaer-eru」ですが、「tabe-R-eru」などとは明らかに区別出来ます。前者は五段動詞、後者は一段動詞ですから。
二、カ変動詞「くる」の語幹は k であり、緩衝子音 r 無しに eru が接続して「ける(k-eru)」になりうるのに、さうならず未然形の o と緩衝子音が挿入された「これる(k-o-r-eru)」になったのはなぜか。
==>それは、「来る」が変格のカ変動詞だからとしか言いようがありません。可能動詞だけでなく否定形の「来ない」がそもそも「k-o-nai」ですから、「来れない」はその類推であろうと思います。
三、可能動詞の発生は「ラ抜き言葉」乃至「R 入れ言葉」の発生に大きく先行した様で、異なる時期に発生したものをひとつの現象ととらへるのは、無理ではないか。
==>可能動詞というのは、結局のところ動詞「得(う)」の連用形「得(え)」付加であろうと思います。一段動詞においては語幹が母音で終わるので「え」を付ける際に緩衝子音の「R」が使われたのでしょう。発生的に時代が異なるとは思いません。
四、「みれる(見れる)」「これる(来れる)」を使ふひとも「ありえる」を使ふはずである。若いひとも「ありえなーい」と用ゐる。「ありえる」には子音挿入がなく、母音連続がのこったままである。口語では四段動詞の「ある」が文語ではラ変動詞であることを考へても、腑に落ちない。子音挿入が必要なほど母音連続回避の圧力が高くはないのではないか。
==>語源が動詞「得(う)」の「得(え)」であったことを顕著に物語っているのが「あり・える」で、ここには連体形の「あり得(う)る」まで現在に残っています。この動詞だけ「あれる」にならなかったのは不思議と言えば不思議ですが、これまた変格動詞ですからね。ご指摘のように、「をる」では「をれる」となります。
徒然草第二十二段に、古は、「車もたげよ」、「火かゝげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。と、あります。遅くとも十四世紀には母音連続回避圧がかなり弱まってゐたことを意味しさうであります。
==>「差し上げる」と「捧げる」、「持ち上げる」と「もたげる」、「かきあげる」と「掲げる」などはどれも一方が他方を駆逐したのではなく、(若干の意味の違いを伴いつつ)両方使われています。これと並行して、日本語が母音連続を認めるようになったのは明らかな事実で、その顕著な例が、三母音連読の「青い(あおい)」ですね。これも本来は終止形「あをし(a-wo-si)」、連体形「あをき(a-wo-ki)」でした。