金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第24回 「追悼:林尚子さん」

2005-10-19 20:55:22 | 日本語ものがたり
 世の中には本当に不思議なことがある。こんな状況を思い浮かべて頂きたい。あなたは、ある日、見知らぬ人(Aさん)から、大変丁寧なお便りを貰った。トロントからの封書である。ところが、Aさんに返事を書こうと思っている内に、あなたはその手紙を見失ってしまう。どこにも見当たらないのだ。半年後、当時読んでいた本の間からやっと手紙が出て来た。お返事の遅れを詫びながら手紙を書いて投函し、ほっとする。すると後日、またまた見知らぬ方、今度はBさんから返事が来る。やはりトロントからだ。BさんはAさんの友人らしい。その手紙を読んで、あなたは我が目を疑う。それは何と訃報だった。「Aさんは、先日亡くなりました」と書いてあるではないか。

 これがまさしく私の体験したことだ。Aさんとは、昨年末トロントで亡くなった林尚子さんである。その友人のBさんは、並里たかえさん。私は、林にも並里さんにもお会いしたことがない。未知の人間同士の手紙のやり取り。生と死のドラマ。人間の縁とは実に不思議なものだと思う。

 さて、先月のモントリオール・ブレテン紙上に「林尚子さんを偲ぶ茶話会へのお誘い」というお知らせが載った、私にお便りを下さった方は、一体どんな人だったのだろう。それが知りたくて3月2日の集まりに顔を出してみた。日曜の日系文化会館には、生前の林さんとお付き合いのあった方々が10名ほど集まっていた。丸顔の、優しいが、自分をしっかりと持ったお人柄の偲ばれる林尚子さんの遺影も飾られていて、私にとってはそれが林さんとの、何とも悲しい初対面となった。

 その会で、集った方々からあれこれお話を伺うことが出来た。林さんは長年モントリオールにお住いだったのである。生涯独身のキャリア・ウーマンで、お仕事はグラフック・デザイナー。モントリオールではサンヨーに勤めていたのだったが、サンヨーがモントリオール支店を閉めた際に、トロントに引っ越された。それでも長年の友人に会いに、時々当地に来ていたらしい。モントリオールに住んでおられる間は、本紙ブレテンのボランティアをされていたとのこと。集まった方々にブレテン関係者が多かったのはそのせいだろう。

 亡くなった原因は癌である。お友達の西斐子さんは、癌が移転したことを本人から電話で知らされた。「癌がなあ、また出て来よったんや」といつもの大阪弁だったと西さん。10年間の闘病生活の末、去年のクリスマス・イブにお姉さんや数人の友人に見守られる中、天に召された。「皆にこんなによくしてもらって、私は幸せ者」と感謝を述べつつ静かに逝かれた、と並里さんのお手紙にあった。

 そんな林さんがなぜ、見も知らぬ私に手紙を下さったのか。それは林さんが、言葉の問題に大きな関心を持たれていたからである。戴いたお手紙は、私が去年刊行した「日本語に主語はいらない」を読まれた後の感想と激励だった。ワープロではなく、5頁びっちり手書きである。こんなに丁寧に読んで下さった方は少ない。

お便りの中から林さんの言葉をここにいくつか御紹介したい。なお、癌のことには一言も触れていなかった。「今までは、どちらかと言えば日本語のアイマイさに腹を立てることが多かったのですが、これからは日本語の便利さ、美しさ、ユニークさをもっとじっくり味わっていきたいと思います」「英仏語は性別意識を強調し、日本語では年齢意識を強く出すと考えております。そのせいか、私がこの地に移住して数カ月して気付いたのは、すっかり自分の年齢を意識しなくなっていたことです。日本では物を言う時にいつも自分の年齢、相手の年齢を念頭に置いておりましたが、この西洋社会では誰もそんなこと訊ねないので、自分でも驚く程、年齢意識が消え去ったという嬉しい発見でした。これはその後、今日までずっと同じで、カナダへ移住したお陰で私は10年は若返ったと思っています」「自分の世界を広げたいと思ってカナダへ移住してきたのですが、逆に日本のこともよりよく見える様になったような感もあります。毎日新しいことを習うのが楽しみな日々です」

「10年は若返った」林さんの、「毎日新しいことを習うのが楽しみな日々」は、この数カ月後に断たれたのである。今にして思えば、癌と戦い、迫り来る死の陰に怯えながらの一日、ふと思い立ってペンを取られたのだろう。偶然のいたずらでお返事が遅れてしまい、激励に対する私の感謝の気持ちはついに伝えられなかった。誠に慚愧に耐えない。「お手紙をありがとうございました。お返事が間に合わなくてすみません」と心から謝りながら、笑顔の遺影に向かって手を合わせた。(2003年3月)

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