前回「赤ちゃんの名前」で、女の子の名前には、平成の今に至るまで、依然として花に関する言葉が好んで使われることに注目した。例えば「花、萌、凛、咲、菜」などの字である。今回はそれを受けて「シクラメンのかほり」という題でひとときのおつき合いを。ただし今回は謎解きである。
シンガーソングライターにして現役の銀行員でもあった小椋佳が作詞・作曲。本人よりもむしろ布施明の声で大ヒットした「シクラメンのかほり」だから、読者にもお馴染みの歌であろう。だが、この曲は題名に謎が隠されていることは御存知だろうか。先ず初めにその謎をご紹介し、それから謎解きを試みよう。
「シクラメンのかほり」という題名は二重の意味で間違っているという指摘が以前からあった。それは次の2点である。
(1)「かおり(香り・薫り)」の旧かなは、「かをり」で「かほり」ではない。
(2)シクラメンはそもそも匂わない。つまりシクラメンに香りはない。
(1)は国語学者や(旧かなをよく使う)歌人や俳人が直ちに指摘した。今は「かおり」だが、旧かなでは「かをり」であって「かほり」ではないことは、語源を考えてみても分かる。「かをり」は実は「香+居(を)り」から来ているからだ。「名詞+をり」で女の名前になる例では、他に「緑(みどり)」がある。これには「水(み)+鳥」など様々な語源説があるが、私は「水(みづ)+をり」だと思う。和語の「みどり」が色としての緑(英語のGreen)と対応していないことは以前から指摘されている。「嬰児(みどりご)」(green baby!?)とか「緑の黒髪」(green black hair!?)などの用法があるからだ。これらは「緑色でないみどり」の例である。「みどり」の語源が「水鳥」であったとしたら「みどりご」や「みどりの黒髪」が説明しにくくなるだろう。私は、「みどりの黒髪」は「つやのある黒髪」、「みどりご」は「ぴちぴちした赤ちゃん」の意味であって、水の存在(みづ+をり)が故の生命力を言ったものと思う。わざわざ「鳥」を持って来る必要は感じない。「みどり=水(みづ)+をり」と考えてみると同じ和語の「みづ」が「瑞々しい」とか「瑞穂の国」などの表現にも使われている理由が分かる。逆に水がないと生命は死ぬ。「死ぬ」の語源は「しなびる」や「しなる」と同源の「撓(しな)ゆ」から来ているとされることも「水」と「生命」の深い繋りの傍証だろう。
さて、「シクラメンのかほり」に話を戻そう。「かほり」という表記が歴史的に間違いであり、加えてこの花が「かほり」もしないことを長年指摘されて来たのに、何故小椋佳はこの題名を一向に直そうとしないのだろうか。それがこの歌の謎なのである。私もどこかでこの題名の謎を知って、それ以来何となく気になっていた。
それがある日、謎が一気に解けたのは、ネット上で小椋桂の奥さんの名前を偶然に知った時だった。何と、佳穂里さんというではないか。佳穂里なら、発音は「かおり」でも表記上では「かほり」だ。その瞬間、旧かなの間違いを指摘されても小椋桂は「極めて意図的に」これを直さないのだ、ということが分かった。
そう思って、再度「シクラメンのかほり」の歌詞を読み返してみて驚いた。名詞で「シクラメンのかほり」とは言っても、動詞で「シクラメンが香る」とはどこにも言っていないのである。1番に「真綿色したシクラメンほど清しいものはない」2番に「うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない」そして3番に「うす紫のシクラメンほど淋しいものはない」とあるだけだ。しかもこれらの後にはそれぞれ「出逢いの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」とあって、シクラメンに「君」が見立てられている。つまり、この曲は自分の妻に捧げた愛の讃歌だったのだ。小椋桂にとっては妻の佳穂里さんは「シクラメンの君」であり、それならばこそ題名は「シクラメンのかほり(=佳穂里)」でなくてはいけなかった。
3番には確かに「暮れ惑う街の別れ道にはシクラメンのかほりむなしくゆれて」という箇所がある。我々をはぐらかそうとする小椋桂の意図をここに感じるものの、「別れ道」で揺れていた「かほり」は「香り」ではなくて「佳穂里」さんだったのだろう。結局、小椋桂に誤字はなく、「かをり」は「香り」、「かほり」は「佳穂里」と使い分けたのだ。
何で「かほり」なんだろう、シクラメンは匂わないのに、と我々はこれまで首を傾げてきた。妻と2人だけの小さな秘密を分け合って、小椋桂は背中で笑っているに違いない。愛とは秘密を共有することだから。成程、これでは題名は直らない。作者が直すはずがない。香らないシクラメンをわざわざ持って来たのが謎解きのヒントだったというわけか。周到に仕掛けられた謎がやっと解けた。
こんなことを考えながら板張りのテラスをを見ると、ちょうど拙宅にも白いシクラメンが咲いている。因みに俳句では「シクラメン」は春の季語。その姿はまるで白蝶が羽を休めている様に見える。ふと思い立って鼻を近付けてみたが、やはり香りは、ない。
蝶の来て飛び行きてなほその白き姿残せりシクラメン咲く
(2004年6月)
応援のクリック、よろしくお願いいたします。
シンガーソングライターにして現役の銀行員でもあった小椋佳が作詞・作曲。本人よりもむしろ布施明の声で大ヒットした「シクラメンのかほり」だから、読者にもお馴染みの歌であろう。だが、この曲は題名に謎が隠されていることは御存知だろうか。先ず初めにその謎をご紹介し、それから謎解きを試みよう。
「シクラメンのかほり」という題名は二重の意味で間違っているという指摘が以前からあった。それは次の2点である。
(1)「かおり(香り・薫り)」の旧かなは、「かをり」で「かほり」ではない。
(2)シクラメンはそもそも匂わない。つまりシクラメンに香りはない。
(1)は国語学者や(旧かなをよく使う)歌人や俳人が直ちに指摘した。今は「かおり」だが、旧かなでは「かをり」であって「かほり」ではないことは、語源を考えてみても分かる。「かをり」は実は「香+居(を)り」から来ているからだ。「名詞+をり」で女の名前になる例では、他に「緑(みどり)」がある。これには「水(み)+鳥」など様々な語源説があるが、私は「水(みづ)+をり」だと思う。和語の「みどり」が色としての緑(英語のGreen)と対応していないことは以前から指摘されている。「嬰児(みどりご)」(green baby!?)とか「緑の黒髪」(green black hair!?)などの用法があるからだ。これらは「緑色でないみどり」の例である。「みどり」の語源が「水鳥」であったとしたら「みどりご」や「みどりの黒髪」が説明しにくくなるだろう。私は、「みどりの黒髪」は「つやのある黒髪」、「みどりご」は「ぴちぴちした赤ちゃん」の意味であって、水の存在(みづ+をり)が故の生命力を言ったものと思う。わざわざ「鳥」を持って来る必要は感じない。「みどり=水(みづ)+をり」と考えてみると同じ和語の「みづ」が「瑞々しい」とか「瑞穂の国」などの表現にも使われている理由が分かる。逆に水がないと生命は死ぬ。「死ぬ」の語源は「しなびる」や「しなる」と同源の「撓(しな)ゆ」から来ているとされることも「水」と「生命」の深い繋りの傍証だろう。
さて、「シクラメンのかほり」に話を戻そう。「かほり」という表記が歴史的に間違いであり、加えてこの花が「かほり」もしないことを長年指摘されて来たのに、何故小椋佳はこの題名を一向に直そうとしないのだろうか。それがこの歌の謎なのである。私もどこかでこの題名の謎を知って、それ以来何となく気になっていた。
それがある日、謎が一気に解けたのは、ネット上で小椋桂の奥さんの名前を偶然に知った時だった。何と、佳穂里さんというではないか。佳穂里なら、発音は「かおり」でも表記上では「かほり」だ。その瞬間、旧かなの間違いを指摘されても小椋桂は「極めて意図的に」これを直さないのだ、ということが分かった。
そう思って、再度「シクラメンのかほり」の歌詞を読み返してみて驚いた。名詞で「シクラメンのかほり」とは言っても、動詞で「シクラメンが香る」とはどこにも言っていないのである。1番に「真綿色したシクラメンほど清しいものはない」2番に「うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない」そして3番に「うす紫のシクラメンほど淋しいものはない」とあるだけだ。しかもこれらの後にはそれぞれ「出逢いの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」とあって、シクラメンに「君」が見立てられている。つまり、この曲は自分の妻に捧げた愛の讃歌だったのだ。小椋桂にとっては妻の佳穂里さんは「シクラメンの君」であり、それならばこそ題名は「シクラメンのかほり(=佳穂里)」でなくてはいけなかった。
3番には確かに「暮れ惑う街の別れ道にはシクラメンのかほりむなしくゆれて」という箇所がある。我々をはぐらかそうとする小椋桂の意図をここに感じるものの、「別れ道」で揺れていた「かほり」は「香り」ではなくて「佳穂里」さんだったのだろう。結局、小椋桂に誤字はなく、「かをり」は「香り」、「かほり」は「佳穂里」と使い分けたのだ。
何で「かほり」なんだろう、シクラメンは匂わないのに、と我々はこれまで首を傾げてきた。妻と2人だけの小さな秘密を分け合って、小椋桂は背中で笑っているに違いない。愛とは秘密を共有することだから。成程、これでは題名は直らない。作者が直すはずがない。香らないシクラメンをわざわざ持って来たのが謎解きのヒントだったというわけか。周到に仕掛けられた謎がやっと解けた。
こんなことを考えながら板張りのテラスをを見ると、ちょうど拙宅にも白いシクラメンが咲いている。因みに俳句では「シクラメン」は春の季語。その姿はまるで白蝶が羽を休めている様に見える。ふと思い立って鼻を近付けてみたが、やはり香りは、ない。
蝶の来て飛び行きてなほその白き姿残せりシクラメン咲く
(2004年6月)
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課題は、小泉八雲の『心』に所収された「ある保守主義者」についての考察です。作品冒頭に、この作品のモデルとされた雨森信成自身の
「あまざかる 日の入る国に来てはあれど 大和錦の色は変わらじ」という和歌についてでした。
雨森信成は西欧に長い間いっていて、帰ってきて、日本の良さに再び感動した気持ちを歌った歌なのですが、帰って結婚した奥様は錦(きん)さんなのです。そのことを主張するために、「シクラメンのかほり」を例に挙げました。今度此のことをみなさんのまえで発表するときには、この名文を資料とさせていただけたらと思いました。
この記事にいきわたったのは、偶然志村さんの古い記事を読み返して知ったからでした。
一般的には「陶磁器」ですよね。判っております。
「陶器を習っている」という会話はあっても「磁器を習っている」という会話は無いですね。
あと大切なことは歌詞の言葉数ですね。そこにはめ込んだら「陶磁器」がピッタリだったのでしょうね。
作詞家は言葉数に合わせて作って行くみたいです。
磁器と陶器を二つとも陶磁器と呼べると考えたらどうでしょう。
確かに違いもあるますが、共通点も多いですしね。
言葉遊びで「陶磁器」という言葉が出て来ましたが、本来は「陶器」と「磁器」じゃないのでしょうか?「陶磁器」という一つの器ってあるのかなぁ?
小椋さんの歌だともしかしたら「陶器」さんと「磁器」さんの2人を、つまり「ふたまた」かけたのかな?と。小椋さんの歌には例えば「少しは私に愛を下さい」の歌では実際は神田(小椋さんの本名)さんが米国留学中に勧銀と第一銀行の合併話があり、その情報を知らなかった小椋さんが歌に託した、と言う話を聞きました。
それは「少しは私に情報(愛)を下さい」
「全てを銀行(貴方)に捧げた私だもの」と置き換えています。
結構な役者ですよ、あの方は。
偶然にこの金谷先生の板に辿り着きました。
小椋さんは見えないものを見るように、シクラメンの嗅げない匂いを嗅いだのか、それとも、格好がつくから適当にそうしたのか、いろいろと詮索しておりました。
奥様の名前だったなんて、いい話です。
最近この曲のことが気になって、歌詞を調べていたところだってのですが、私は布施明さんとオリビア・ハッセーのことを考えていました。オリビアはその後、二度再婚し、三人の夫とのあいだにそれぞれ一人ずつ子をもうけていますが、女として、羨ましい限りです(はぁ)。ジュリエットを演じて、マザーテレサも演じて、女のすべてを味わい尽くしている感じです(はぁ)。
御説のように、小椋佳さんは、奥様の名前を詠み込んだのは間違いないと思います。きっと定家仮名遣いなどの認識は全くなかったでしょうし、おそらく照れ隠しで「語感にあっているから」とコメントなさったのでしょう。他にも、小椋さんの主催されている劇団「アルゴ」は、ローマ字で「arugo」となりますが、反対に読むと「オグラ」となります。これについても「まったくの偶然」とおっしゃっています。このような言葉遊びの仕掛けは小椋さんの歌詞にも散りばめられています。ただ、照れ屋の小椋さんとしては、コメントするのも野暮だとお考えになったのかもしれませんね。
ついでにもう一つ例を挙げると、「白い一日」という歌に出ている「真っ白な陶磁器」は、触るに触れない若くて美しい女の子の譬喩だそうです。そう思って聴くと、中年男性の気持ちがよく表現されてます。
……同類は、他にもいっぱいあるみたいですよ。
ご指摘の定家仮名遣いは、契沖が1693年の「和字正濫鈔」でその間違いを正しています。小椋さんが「かほり」と書いたのは誤用ではなく意図的というのが私の推理でしたから、コメントされた内容に矛盾していないのではないでしょうか。
それはともかく、小椋さんご自身の言葉を伺えたのは幸いでした。感謝致します。「語感に合っているから」とは全く納得のいくお言葉です。
また、奥様の「佳穂里」から「かほり」としたのではないかという指摘は、「シクラメンのかほり」がヒットした当時から既にあります。小椋さん自身もこれに具体的にコメントしていて「かほりの語感が合っているから」とだけ答えています。奥様のお名前「佳穂里」は、実際に/kahori/と発音するので、これを詠み込んだとすれば、「誤用」ではないわけですが、このお名前も、歴史的には「香り」の定家仮名遣いに源流があるわけです。
コメント有難うございました。何だかひと頃の貴サイトでの
やり取りを思い出しますね。
シクラメンのかほり、私の謎解きが正しいのかどうかを
ご本人に確かめたい気もするのですが…。何か手だては
ないものでしょうか。今度の評伝(三上章)でも
謎解きに挑戦してますよ。どうぞお楽しみに!
興味深い書き込み、ありがとうございます。
管理人のチエ蔵です。
こんなに面白い、本文でも通用しそうな記事を、コメント如き(?)に書き込んでくださるなんて、なんて太っ腹なのでしょう。面白い文章をタダ読むことができて、ウキウキしております。ふふふ。
>>「御馳走様」というほかはありません。
「ごちそうさま」なんて言ったら、「おかわりいかがですか~」なんて、言われちゃいそうですね。
「腥」、考えたことはなかったのですが、たしかに、月と星でキレイな言葉に見えますね。そういえば腺も月と泉でロマンティックかも。最近は海月と書いて「みづき」と読ませる名前(姓ではなく)もあるようです。
「日本語と隣の国から世界を見る」、リンクを手がかりに遊びにうかがいました。宝物の山を見つけたような気持ちです。今からもう一回全部読みに行きます。
http://www3.big.or.jp/~kan/ogura/biography.htm
つまらないことですが、「おぐらけい」は「小椋佳」と書きますが、「佳」という字は「か」としか読めないと思います。「月桂冠」の「桂」や「藤圭子」の「圭」などの他の字につられたような気がします。
「絢也」で「じゅんや」という人に会ったことがあります。「絢」なら「絢爛豪華」の「けん」であるはずなのに、「旬」につられたのでしょう。
日本の戸籍は漢字でしか表記されず、読み方はどうでもいいようなので、極端な話「弱」と書いて「つよし」と読んでもいいようです。だから、親が読み方を間違えた人は子供が音声での名乗りを変えても、国への届出は不要です。こんなことは、「意味」のない文字を使う人々には理解不能なことでしょう。
いま、日本では人名に使える漢字を増やす傾向にありますが、若い世代には「腥」という字を人名用漢字に加えることを求める向きもあるようです。「月」と「星」でロマンチックと感じるらしく、「なまぐさい」という意味だということを知りません。こんな世代に呼びかけても、なかなか分かってもらえないような気がします。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/sarabaseishun.html