和語の「男と女」を取り上げた前回のつづきである。「おとこ」に対応する語は、本来は「おんな」でなく、「おとめ」だったことが先ずわかった。(旧仮名は「をとこ・をとめ」)そこで、次に、二語の共通部分である「おと」を消去して、残りの「こ」と「め」こそが「男女差」を表す和語の最小単位であることを見た。最後に、他に「こ」vs「め」で男女差が言い表せる例があるかどうかを探したところ、男女の子供をいう「むすこ・むすめ」、若い男女を呼んだ「いらつこ・いらつめ」、元来は「太陽の子」という意味だった「ひこ(彦)・ひめ(姫)」の三つが見つかった、というのが前回のお話である。今回は「こ・め」をさらに短く出来ないかをさぐってみよう。結論を言えば、それが出来そうなのである。
その前につけ加えるべきことが一つある。「男女差」を表す和語には、「こ・め」以外に、どうやらもう一組あったらしいのだ。それは、先月の記事の前半で述べた、老年の男女を意味する「おきな・おみな」から明らかである。若い男女の「おとこ・おとめ」から「こ・め」が出て来たのだが、「おきな・おみな」のペアにおいては、男女差を表しているのは「き・み」だ。
そこで、前回と同じように「き・み」が男女差を表す言葉を探ってみると、岩波古語辞典が一つだけ教えてくれた。古事記に登場する日本神話の「いざなき・いざなみ」である。漢字では「伊邪那岐・伊邪那美」などと書かれるが、ここでは和語が問題であって漢字表記の「岐・美」は当て字にすぎない。また「いざなき」の最後は「ぎ」と濁ることがあるが本来は清音の「き」である。言うまでもなく、この二柱の男女神は夫婦であって、大八洲(おおやしま)と呼ばれる日本国土を生み(=「国生み」)、皇祖天照(アマテラス)大神やその弟スサノヲらを生んだ(=「神生み」)とされている。
さて、それではここで「こ・め」と「き・み」を並べてみよう。するとすこぶる興味深いことがわかる。二つのペアに共通点があるのだ。それは子音で、どちらの場合も「K・M」で対立している。他の子音が多数ある中で、同じ子音のペアが二回も同じ意味で使われるなど、まさか偶然の一致ではありえない。おまけに「き・み」は母音が同じではないか。すると、結局男女差は子音同士の「K・M」に行き着くことになる。
また、以前「沖縄のことば(47回)」でも書いたように、大昔の日本語には母音が「ア・イ・ウ」の三つしかなかったというのが大変有力な仮説であることを思えば、もう一方の「こ・め」だって、「K・M+本来日本語にはなかった母音」とは少なくとも言えるから、こちらのペアからも同じ結論が引き出せそうである。すると、初めは二組あると思われた「こ・め」と「き・み」は、さらに短い、しかも一組だけの子音「K・M」というに収斂してしまうのだ。
こんなに面白いことを日本の国語の時間になぜ教えないのだろう。教えてほしかったと思う。学校で教えてくれないのは、おそらく「活用表」を始め国語の文法が平仮名で説明されるからではないだろうか。「K・M」はどちらも平仮名で書けない。
アルファベットを使って初めて気付かされる和語の素晴らしさの好例をもう一つだけあげるなら、和数字がある。「あめあめふれふれかあさんが(56回)」でもちょっと触れたが、日本人は物を数える時に、「いち・にい・さん・しい・ごう・ろく・しち・はち・きゅう・じゅう」と漢数字を使うか、あるいは「ひい・ふう・みい・よう・いつ・なな・やあ・ここ・とお」と和語を使う。この稿をお読みのみなさんはどちらだろう。56回では、漢数字、和数字のいずれの場合も、全て二拍(モーラ)で数えられているということに注目したのだが、今回は同じ和数字を別の角度から眺めてみよう。「ひい・ふう・みい…」に使われている子音だけを取り出して、そこに何か規則性がないか、考えて頂きたいのだ。子音はこの順で「H-H-M-Y-T-M-N-Y-K-T」である。
よく見ると「H、M、Y、T」の四つが二回ずつ使われていることがわかる。あとは「N、K」が一回ずつだ。次に、「H、M、Y、T」に数字を当てはめてみると「H(1、2)、M(3、6)、Y(4、8)、T(5、10)」。それぞれ倍数になっているのだ。同じ子音が二回ずつ使われる理由はここにある。1から10までの中で倍数関係に加われないのは「7、9」の二つ。それがゆえに「N、K」は一回ずつなのである。
この和数字の倍数法については大野晋著『日本語の起源』(1957)に教えてもらった。何故か「H(1、2)、M(3、6)、Y(4、8)」の4例だけで、「T(5、10)」は取り上げられていなかったが。その後、田中克彦の『国家語をこえて』(1993)を読んでいたら、中に「ヒフミの倍加説」という論文があり、既に江戸時代に荻生徂徠が「ふたつはひとつの音を転ずるなり」という語源解釈をしていたことが述べられていた。
ことほどさように、和語の世界はハマるとなかなか出て来られないほど魅力的である。とりわけ「平仮名の壁」を越えたところに、日本人にもあまり知られていない和語の秘密がかくされていると言えるだろう。学校文法はその点からも大きく見直す必要があると思われてならない。(2010年5月)
応援のクリック、どうぞよろしくお願い申し上げます。
その前につけ加えるべきことが一つある。「男女差」を表す和語には、「こ・め」以外に、どうやらもう一組あったらしいのだ。それは、先月の記事の前半で述べた、老年の男女を意味する「おきな・おみな」から明らかである。若い男女の「おとこ・おとめ」から「こ・め」が出て来たのだが、「おきな・おみな」のペアにおいては、男女差を表しているのは「き・み」だ。
そこで、前回と同じように「き・み」が男女差を表す言葉を探ってみると、岩波古語辞典が一つだけ教えてくれた。古事記に登場する日本神話の「いざなき・いざなみ」である。漢字では「伊邪那岐・伊邪那美」などと書かれるが、ここでは和語が問題であって漢字表記の「岐・美」は当て字にすぎない。また「いざなき」の最後は「ぎ」と濁ることがあるが本来は清音の「き」である。言うまでもなく、この二柱の男女神は夫婦であって、大八洲(おおやしま)と呼ばれる日本国土を生み(=「国生み」)、皇祖天照(アマテラス)大神やその弟スサノヲらを生んだ(=「神生み」)とされている。
さて、それではここで「こ・め」と「き・み」を並べてみよう。するとすこぶる興味深いことがわかる。二つのペアに共通点があるのだ。それは子音で、どちらの場合も「K・M」で対立している。他の子音が多数ある中で、同じ子音のペアが二回も同じ意味で使われるなど、まさか偶然の一致ではありえない。おまけに「き・み」は母音が同じではないか。すると、結局男女差は子音同士の「K・M」に行き着くことになる。
また、以前「沖縄のことば(47回)」でも書いたように、大昔の日本語には母音が「ア・イ・ウ」の三つしかなかったというのが大変有力な仮説であることを思えば、もう一方の「こ・め」だって、「K・M+本来日本語にはなかった母音」とは少なくとも言えるから、こちらのペアからも同じ結論が引き出せそうである。すると、初めは二組あると思われた「こ・め」と「き・み」は、さらに短い、しかも一組だけの子音「K・M」というに収斂してしまうのだ。
こんなに面白いことを日本の国語の時間になぜ教えないのだろう。教えてほしかったと思う。学校で教えてくれないのは、おそらく「活用表」を始め国語の文法が平仮名で説明されるからではないだろうか。「K・M」はどちらも平仮名で書けない。
アルファベットを使って初めて気付かされる和語の素晴らしさの好例をもう一つだけあげるなら、和数字がある。「あめあめふれふれかあさんが(56回)」でもちょっと触れたが、日本人は物を数える時に、「いち・にい・さん・しい・ごう・ろく・しち・はち・きゅう・じゅう」と漢数字を使うか、あるいは「ひい・ふう・みい・よう・いつ・なな・やあ・ここ・とお」と和語を使う。この稿をお読みのみなさんはどちらだろう。56回では、漢数字、和数字のいずれの場合も、全て二拍(モーラ)で数えられているということに注目したのだが、今回は同じ和数字を別の角度から眺めてみよう。「ひい・ふう・みい…」に使われている子音だけを取り出して、そこに何か規則性がないか、考えて頂きたいのだ。子音はこの順で「H-H-M-Y-T-M-N-Y-K-T」である。
よく見ると「H、M、Y、T」の四つが二回ずつ使われていることがわかる。あとは「N、K」が一回ずつだ。次に、「H、M、Y、T」に数字を当てはめてみると「H(1、2)、M(3、6)、Y(4、8)、T(5、10)」。それぞれ倍数になっているのだ。同じ子音が二回ずつ使われる理由はここにある。1から10までの中で倍数関係に加われないのは「7、9」の二つ。それがゆえに「N、K」は一回ずつなのである。
この和数字の倍数法については大野晋著『日本語の起源』(1957)に教えてもらった。何故か「H(1、2)、M(3、6)、Y(4、8)」の4例だけで、「T(5、10)」は取り上げられていなかったが。その後、田中克彦の『国家語をこえて』(1993)を読んでいたら、中に「ヒフミの倍加説」という論文があり、既に江戸時代に荻生徂徠が「ふたつはひとつの音を転ずるなり」という語源解釈をしていたことが述べられていた。
ことほどさように、和語の世界はハマるとなかなか出て来られないほど魅力的である。とりわけ「平仮名の壁」を越えたところに、日本人にもあまり知られていない和語の秘密がかくされていると言えるだろう。学校文法はその点からも大きく見直す必要があると思われてならない。(2010年5月)
応援のクリック、どうぞよろしくお願い申し上げます。
この和語に関して、一冊の本になるのを愉しみに待つてゐます。日本語文法書を書きながら、その合間に、氣晴らし愉しみとして書いてもらへればと思ひます。
最後に要らぬお世話ですが統一してもらふと助かります。
二回づつ
一回ずつ
二回ずつ
一回ずつ
貴ブログでの拙著に関するご声援、ありがとうございます。
おっしゃる様に「ことばの神秘」は平仮名の向こうにあるとすると、その「扉」は、「バカの壁」と言えるかも知れませんね。(笑)
「ずつ」と「づつ」。ご指摘に感謝。直しておきます。気持ち的には「づつ」にしたいのですが、蛮茶庵さんのように前文旧仮名で書ける力もないので、仕方なく「ずつ」に揃えます。
それにしてもいつもユーモア百パーセント、全開ですね。
気持ち的にはもちろん「づつ」ですよね。
でもこのジャブ、「前文」にはノック・ダウンです。朦朧として、遠くでテン・カウントの聲が聞こえます。(笑)
「和語に親しむ」三回目を愉しみにしてゐます。
(誤)蛮茶庵さんのように前文旧仮名で書ける力もないので
(正)蛮茶庵さんのように全文旧仮名で書ける力もないので
こちらはjoel@flamenco.plala.or.jpです。
よろしくお願いします。
ご声援ありがとうございます。こちらからメールを差し上げますのでどうぞよろしく。
「屈さない・屈しない」。これも「言葉の揺れ」の一例でしょうね。
私は「屈しない」と言いますが、「屈さない」も市民権を得つつあると思います。グーグルでもかなりヒットしますし。他にも「達しない」と「達さない」など思いつきます。
ところで、まあくんさん。前回戴いたコメントに関して一件ご意見を伺ったのですが…。
報じる・信じる・感じる・講じるのようにザ変も上一段に揺らいでいます。
不思議なのは同じ発音のくせに漢字によってサ変とザ変に運用が変わる音がある事です。
感じる 関する
講じる 抗する
命じる 瞑する
参じる 産する
音便ならもう少し体系的になるはずでしょうし、どういう経緯でサ変とザ変を使い分けていたのでしょう。