金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第15回 「ビンラディンを巡る人名と地名」

2005-09-06 08:46:20 | 日本語ものがたり
 今回は、あやうくTimes 誌恒例のPerson of the Yearに選ばれかけ、いくらなんでもテロリストはまずいということで外されたウサマ・ビンラディンという人名と、彼が潜伏している(いた?)辺りの地名を取り上げてみよう。

 ビンラディンは世界の様々な言語に例の多い patronym (父称:父親の名前をもとにした苗字)である。アラビア語で bin とは「~の息子」の意味だからだ。ビンラディンとは bin Laden で son of Laden(ラディンの息子)である。しかし報道記事によっては Usama bin Muhammad bin Ladenと書いているのも目にしたから、父親の名前はラディンではなくムハマッドかも知れない。なお、アラビア語には母音がa/i/uの3つしかない。従ってiとeの差がなく、bin Ladinと書かれても同じ名前だ。仏語では ben Ladenとなる。さて、アラビア語で bin が「~の息子」なら、女性の名前つまり「~の娘」はどうなるか。それがbinに t がついた bint(ビンティ)である。例えば bint Ahmed は「アハメッドの娘」だ。

 アラビア語と極めて似ているのがヘブライ語だ。この二つの言葉はともにセム語族に属して、「フランス語とスペイン語」や「英語とドイツ語」の様に(同じ言葉から分かれた)姉妹語とみなされている。ヘブライ語でアラビア語のbinに当る言葉の表記はbenである。映画の「ベン・ハー」はBen Hurでson of Hur、空港の名前にもなっているベングリオンはイスラエルの元首相の名前でson of Gurionの意味だ。つまり伝統的にはセム語族には苗字がなく、自分の名前+父親の名前を組み合わせている訳だ。アラビア語とヘブライ語が極めて似ていることは「平和」という単語を比べてみても明らかで、よく知られている様に前者が「サラーム」、後者が「シャローム」である。アラビア語の挨拶「アッサラームアリクム」は「御身が平和でありますように」の意味だ。早口だと「サラマリクム」と聞こえる。アラブ人とユダヤ人が、それぞれパレスチナ人とイスラエル人として血で血を洗うような殺戮を続けているが、言葉も民族もルーツが同じであることを思うと、80年代に2年間アルジェリアに住んだ私など、実にやりきれない気がする。

 もとより、父親の名前をもとにしたpatronymを遣うのはセム語族に限らない。身近な所では英語の-sonが文字通り「~の息子」である。Johnson (son of John)、Davidson(son of David)、亡くなった2人目のBeatle、ジョージ・ハリソンのHarrison (son of Harry)も全てそうした例だ。今ではson of~と代名詞ofを挟む所だが、古形では~sonと順序が逆、しかも直接名前に付くことに注目したい。勿論「~の息子」は今では単なる苗字と化してしまったから、女性でもJohnsonやHarrisonなどと名乗っている訳だ。

 インド・ヨーロッパ語ではスコットランドの Mac/Mc- がよく知られている。ハンバーガーのMcDonaldはson of Donaldという訳だ。アイルランドだけのO'もあるがこの場合はむしろ祖父の名前で、例えばO'Brienはgrandson of Brienという意味。ノルマンジーのフランス語が起源Fitz-もやはりpatronymを作るツールで、Fitzgeraldは son of Geraldという意味である。語源はフランス語のfils(息子)。ウェールズ語のには ap(あるいはp)がある。Pritchardという名前は ap Richardが詰まったもので、son of Richardが原意。

 ロシア語では自分の名前と苗字の間にミドル・ネームとしてpatronymが表れ、これは現在でも頻繁に遣われる。例えば「桜の園」で有名なチェーコフのフルネームは Anton Pavlovich Chekhov。ここでは真ん中のPavlovichが「son of Pavlov」を意味する。イヴァンの息子ならミドルネームはイヴァノヴィチ。日常生活では苗字抜きの名前とミドルネーム止まりで呼ばれることが多いので、外国人にはピンとこないことが多い。「ニキータ・セルゲーエヴィチ」と聞いて「ああフルシチョフのことを話してるな」と分かる人はかなりロシア通だ、と「ロシア語のすすめ」で著者東郷正延が述べているが、ここで引用するのはちょっと話題が古かった。  スペイン語では-ezがpatronymを作る要素で、Fernandezは本来son of Fernando; Gonzalez ならson of Gonzaloという意味だったことを示している。それにしても、様々な言語における「~の息子」の表現をこうして見て来ると、昔の父親は何と存在感があったことか、とうたた今昔の感に堪えない。

 続いて、アフガニスタンなど「オサマ狩り」で爆撃を受けた地域の地名について調べてみよう。9月11日の同時多発テロに続いてアメリカとその支持国がアフガニスタンを爆撃しが、そのニュースを聞くと、近くの国が殆ど全て「スタン」で終る地名なのに気付かれたと思う。いい機会だから、世界地図を拡げて数え上げてみよう。今回最もよく名前を聞いた「パキスタン・アフガニスタン」の北に「カザフスタン・キルギスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・ウズベキスタン」と5つの共和国が広がってる。これだけ似たような地名を聞かされたら「一体、その『スタン』ってのは何なんだ?」と聞きたくなるのが人情と言うものだろう。

 答えのヒントは、「パキスタン・アフガニスタン」が国名として定着しているのに、「カザフスタン」以下の5つは、日本語では以前から別名で呼ばれていることにある。別名とは「カザフ共和国・キルギス共和国・トルクメン共和国・タジク共和国・ウズベク共和国」だ。これでお分かりの様に「スタン」は「国」である。ペルシャ語起源のトルコ語の接尾辞だ。原意は「国」だけであって、勿論「共和」という意味はない。  さてここで「日本」という名前を考えてみよう。これだけで国名として使われるが、パスポートに書いてある様に、実は正式には「日本国」である。トルコ語で「スタン」が「国」だとすると、トルコ人は他の国にも「スタン」を付けて読んでいるのではないか、と思った方がいるかも知れない。お見事。まさにその通りなのだ。例えば、ハンガリーはトルコ語で「マジャリスタン」となる。ブルガリアは「ブルガリスタン」、パキスタンの隣国インドは「ヒンディスタン」である。  ここまで「スタン」と書いて来たが、より正確には「-i-stan」で、-i-は子音と子音を繋ぐ母音である。だから、分解すると「民族名-i-スタン」が「国名」となる。例えば、アフガン(人)が住んでいる国だから「アフガン-i-スタン」で「アフガニスタン(=アフガン(人)の国)」なのだ。細かいことを言えば、アフガンだけで「アフガン人」を意味するから、「アフガン人」では実は「ジャパニーズ人」や「カナディアン人」と言っていることになり、ちょっと変なのだが、まあいいとしよう。(民族名なしで、istanから始まるイスタンブールはトルコの都市だが、この名前はトルコ語ではない。「入城」を意味するギリシャ語である。オスマントルコがこの町を1453年に陥落させたことを示す)  さて、上記7つの「○○スタン」の中で一つだけ変な国名がある。どれだろうか。それは「パキスタン」だ。カザフ人、トルクメン人、タジク人、アフガン人、などという民族名は確かに全て耳にしたことがある。しかし「パキスタン」を分解すると、Pak-i-stanとなって、この国に「パク人」が住んでいることになる。パクと言えば韓民族に多い苗字「朴」を連想するが「パク人」がパキスタンにいるとは初耳だ。 実はこの国名だけは「民族名-i-stan」ではないのである。「英語語源辞典」(大修館)によれば、同国がインドから独立した時の州の頭文字から来ている。つまりPunjab-Afgan-Kashmirの3つ でPAK-、それにi-stanをつけたらしい。中央線の2つの駅、国分寺と立川の間に新駅が出来た際、双方の頭文字を取って国立(くにたち)と名付られた のに似ている。  御参考までに「地名の世界地図」(文春新書)にのっている地名の接尾辞、接頭辞を挙げておこう。ニュースで耳にしたペシャワール、サマルカンド、イスラマバードなどの地名の意味が一部これで分かる。「-abad、Bandar-」都市、「-stan」国や地域、「-kand、-war」町や村。これらは全てペルシア語系の言葉である。(2002年3月)

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