前回、和語の面白さの一つとして「時を越える働き」を指摘した。英語ならば「to ask」と「to listen」に分かれる行為が、和語では「きく(訊く・聞く)」一語で間に合う、というような例をいつくかあげた。
この「きく」の例では、さらに「効く」を加えていいかもしれない。いたずらをした子供に「そんなことをしては駄目だよ」と、よく言い「聞かせた」とき、叱られた子供が言われたことをその後よく守ったら、その子は「聞き」分けがよいとされる。すると、「(言いつけを)聞く」のは、叱った効果があったわけで、その意味では「(薬が)効く」と同じかも知れない。「訊く=>聞く」から、さらに「聞く=>効く」まで、漢字でこそ書き分けるものの、和語としては一つの「きく」が「時を越えて」行く。考えてみると、そもそも「時(とき)」という言葉自体が、「解き、溶き、融き」と同じ語源なのだ。時間の流れに沿った変化がここでも暗示・予想されている。
他の動詞では『よむ』がある。ある風景に心を動かされて俳句や短歌が浮かんだとしよう。これは「詠む」ので、創作の営為である。その作品を、誰か他の人が鑑賞するなら、そちらは「読む」わけだ。ここにもかなり長い時間の推移がある。
さて、こんな和語の世界と実に対照的なのが英仏語の動詞である。こちらは、時を延ばしていく和語とは逆方向に、時を縮め、一瞬の出来事のように表現することが多い。そうした例を日本語と対比しながらいくつか見ることにしよう。
先ず「to drown」という動詞が思いつく(仏語は「se noyer」)。「He drowned in the river」」はどういう意味だろうか。これを「彼は川で溺れた」と和訳してはいけないことを知って、大変驚いたことがある。
何故か。日本語の「溺れる」では、まだ死んだかどうか、分からない。だから「川で溺れたが、危ないところで助けられた」と言える。ところが「to drown」の意味は「溺れる」ではなく「溺れ死ぬ、溺死する」なのである。だから「He drowned in the river, but he was saved」は意味をなさない。
同様に「to burn」も「燃やす・燃える」だけでは不十分で、日本語なら「手紙を燃やしたが、燃えなかった」と言えるのに、英語の「I burnt the letter, but it didn’t burn」は意味的に矛盾した文となる。
結局、辞書にはいちいち書いていないが、「burn」の厳密な意味を日本語で言えば「燃やし尽くす、燃え尽きる」なのである。反意語の「to extinguish/to put out」の「消す」も、日本語なら、今回のタイトルのように「消せど燃ゆる魔性の火」は可能だが、英語には直訳出来ない。これは2000年の大ヒット曲「TSUNAMI」(作詞作曲:桑田佳祐)の歌詞の中にある表現だ。その直前には「止めど流る清(さや)か水よ」という言葉もあるが、やはりここでも同様のことが言える。英語なら「to try」などの動詞を加え、「消そうとしても燃え続ける」なり「止めようとしても流れてしまう」などという文に変えなくてはいけないだろう。日本人がよく口にする「死んでも死にきれない」などという表現も、そのままは「Even if I am dead, I can't die completely」などとは訳せない。
ここで少しまとめると、日本語では一つの動詞である状況の様々な局面を表現出来る。つまり一語に対応する時間がゴムのように長く引き延ばされるわけだ。一方、英語では「drown、burn」の例のように、こちらは「溺れたと思ったらもう死んでいる」「火がついて燃え尽きる」わけだから、時間の流れがそこには殆ど感じられない。「溺れつつある」「まだ燃えている」なら「be + ing」とわざわざ現在進行形にしなければいけないのだ。
こうした日本語と英語の特徴的な違いを考察した著作が影山太郎の『ケジメのない日本語』(2002年、岩波書店)である。影山はその本のなかで、二つの言語は結局「物の見方(視座)が違う」からだと説明している。そしてさらに踏み込んで、これは単なる語彙の問題ではなく、文章の構成の点でも、英文では結論を先に述べてしまうのに、日本語では前置きが長く、結局何が言いたいのか、最後まで読んで初めて分かる、と述べている。確かに大いに思い当たるフシがあって、説得力があると思われた。
影山があげている相撲の決まり手の例が面白いのでご紹介しよう。英語なら「The komusubi thrust the yokozuna out of the ring」で十分意味が通じるが、これを日本語に直訳した「小結が横綱を土俵の外へ突いた」は何とも滑稽である。確かにこの場合は「突いた」ではなく「突き出した」と言わなければいけない。「決まり手」だから、英語のように結果まで含んだ言い方をするわけだ。考えてみると、「突き出し、押し倒し、押し出し、はたき込み、寄り切り、送り出し」などと決まり手のほとんどが動詞二語の「合わせ言葉」になっている。そうしないと「ケジメ」がつかないのが、良くも悪くも、日本語ということなのだろう。(2010年11月)
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この「きく」の例では、さらに「効く」を加えていいかもしれない。いたずらをした子供に「そんなことをしては駄目だよ」と、よく言い「聞かせた」とき、叱られた子供が言われたことをその後よく守ったら、その子は「聞き」分けがよいとされる。すると、「(言いつけを)聞く」のは、叱った効果があったわけで、その意味では「(薬が)効く」と同じかも知れない。「訊く=>聞く」から、さらに「聞く=>効く」まで、漢字でこそ書き分けるものの、和語としては一つの「きく」が「時を越えて」行く。考えてみると、そもそも「時(とき)」という言葉自体が、「解き、溶き、融き」と同じ語源なのだ。時間の流れに沿った変化がここでも暗示・予想されている。
他の動詞では『よむ』がある。ある風景に心を動かされて俳句や短歌が浮かんだとしよう。これは「詠む」ので、創作の営為である。その作品を、誰か他の人が鑑賞するなら、そちらは「読む」わけだ。ここにもかなり長い時間の推移がある。
さて、こんな和語の世界と実に対照的なのが英仏語の動詞である。こちらは、時を延ばしていく和語とは逆方向に、時を縮め、一瞬の出来事のように表現することが多い。そうした例を日本語と対比しながらいくつか見ることにしよう。
先ず「to drown」という動詞が思いつく(仏語は「se noyer」)。「He drowned in the river」」はどういう意味だろうか。これを「彼は川で溺れた」と和訳してはいけないことを知って、大変驚いたことがある。
何故か。日本語の「溺れる」では、まだ死んだかどうか、分からない。だから「川で溺れたが、危ないところで助けられた」と言える。ところが「to drown」の意味は「溺れる」ではなく「溺れ死ぬ、溺死する」なのである。だから「He drowned in the river, but he was saved」は意味をなさない。
同様に「to burn」も「燃やす・燃える」だけでは不十分で、日本語なら「手紙を燃やしたが、燃えなかった」と言えるのに、英語の「I burnt the letter, but it didn’t burn」は意味的に矛盾した文となる。
結局、辞書にはいちいち書いていないが、「burn」の厳密な意味を日本語で言えば「燃やし尽くす、燃え尽きる」なのである。反意語の「to extinguish/to put out」の「消す」も、日本語なら、今回のタイトルのように「消せど燃ゆる魔性の火」は可能だが、英語には直訳出来ない。これは2000年の大ヒット曲「TSUNAMI」(作詞作曲:桑田佳祐)の歌詞の中にある表現だ。その直前には「止めど流る清(さや)か水よ」という言葉もあるが、やはりここでも同様のことが言える。英語なら「to try」などの動詞を加え、「消そうとしても燃え続ける」なり「止めようとしても流れてしまう」などという文に変えなくてはいけないだろう。日本人がよく口にする「死んでも死にきれない」などという表現も、そのままは「Even if I am dead, I can't die completely」などとは訳せない。
ここで少しまとめると、日本語では一つの動詞である状況の様々な局面を表現出来る。つまり一語に対応する時間がゴムのように長く引き延ばされるわけだ。一方、英語では「drown、burn」の例のように、こちらは「溺れたと思ったらもう死んでいる」「火がついて燃え尽きる」わけだから、時間の流れがそこには殆ど感じられない。「溺れつつある」「まだ燃えている」なら「be + ing」とわざわざ現在進行形にしなければいけないのだ。
こうした日本語と英語の特徴的な違いを考察した著作が影山太郎の『ケジメのない日本語』(2002年、岩波書店)である。影山はその本のなかで、二つの言語は結局「物の見方(視座)が違う」からだと説明している。そしてさらに踏み込んで、これは単なる語彙の問題ではなく、文章の構成の点でも、英文では結論を先に述べてしまうのに、日本語では前置きが長く、結局何が言いたいのか、最後まで読んで初めて分かる、と述べている。確かに大いに思い当たるフシがあって、説得力があると思われた。
影山があげている相撲の決まり手の例が面白いのでご紹介しよう。英語なら「The komusubi thrust the yokozuna out of the ring」で十分意味が通じるが、これを日本語に直訳した「小結が横綱を土俵の外へ突いた」は何とも滑稽である。確かにこの場合は「突いた」ではなく「突き出した」と言わなければいけない。「決まり手」だから、英語のように結果まで含んだ言い方をするわけだ。考えてみると、「突き出し、押し倒し、押し出し、はたき込み、寄り切り、送り出し」などと決まり手のほとんどが動詞二語の「合わせ言葉」になっている。そうしないと「ケジメ」がつかないのが、良くも悪くも、日本語ということなのだろう。(2010年11月)
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設例でいえば、英語は『時間完結的』であることから、例示の“to drown”は「溺れる」ではなく「溺死する」まで表現した言葉なのである。また“thrust”(突く) は、“out of the ring”(外に<出す>)という空間的語彙を伴って、日本語で言う「突き出す」という表現をすることになるのではないかと思います。
一方、日本語は『空間完結的』であるがゆえに、時間の経過を含めた表現を一語でとることはなく、「溺れる」という言葉と、その時間的結果(経過)としての「死ぬ」という言葉を紡ぎあわせて表現する複合語の世界が広がっているのではないだろうか。
言葉を操る主体が「いま ここ」を表現するのが日本語の特徴であるから、『空間完結的』な表現があるのであって、それを時間経過的に表現するには言葉を重ねあわせていくという使い方になってきたのではないかと思います。
(また触発的なコメントで恐縮です)
==>いいえ、そうは思いません。日本語にも文中に「土俵の外へ」がありますから。ここで比べるべきは動詞の「thrust」と「突き出す」でしょう。
>言葉を操る主体が「いま ここ」を表現するのが日本語の特徴であるから(…)
==>それには賛成です。哲学の方でよく使われる「hic et nunc(=ここ、いま)」ですね。それを私は「虫の視点」と呼びました。
つまり日本語では空間(hic)も時間(nunc)も完結していないのです。時空の両面で非完結的なのが日本語の特徴であると思います。
日本語は、「いま ここ」を示す言葉でできているので、一連(ひとつながり)の行為であっても「分割して統辞せよ」!?ということになる。それを一まとめに表現しようとすると、二つの動詞を重ねた複合動詞を使うことが多くならざるを得ないのでしょうか。
ということは「いま ここ」さえ表現できれば、異なった「いま ここ」で同音異義の言葉があっても困りはしない。名詞も動詞も特定の状況が説明できれば問題ないということになる。「解く」も「溶く」も「説く」も、その状況の中にいれば分かる、というふうに。
いまはやりの「○○とかけて、△△ととく、そのこころは、どちらも□□です」というのの□□には、同音異義語が多いですが、これは日本語特有の言葉の遊びなのでしょうか。
日本語をおよそ2年ほど勉強した韓国人です。
最近、金谷武洋さんの「日本語に主語はいらない」を非常に興味深く読みました。なぜなら、私も「韓国語の助詞である(은/는)と (이/가)の違いを韓国語勉強する英語母語話者の友達にどのように説明すればいいのか」という問題について約8ヶ月前からずっと悩んできたからです。
その間、暇があるたび、大学教材として書かれた韓国語のシンタックス文献を読んだり、プラハ学派や機能主義言語学の学説に基づいて主題と情報構造などを扱った論文を読んだりして、またそれだけでなく、久野の論文や森田良行と寺村秀夫の著書など、手当たりしだいに読みながら暗中模索と試行錯誤の連続を繰り返してきました。(参考として言えば、これらの本のなかで、寺村秀夫の「日本語のシンタクスと意味 」が比較的に一番役に立った本でした)。
そんなある日、金谷武洋さんのその本に遭って、問題の解決の手がかりを見つけたのです。
本の内容と、この本に言及されている三上章の本や、「日本語の構造ー英語との対比」などに関してはコメントしたり質問したりしたいすることが山ほど沢山ありますが、それは後ですることにして、今日はただ感謝の意を表したいと思います。(しかし、今このコメントだけは残しておきたいです。第2章で説明されている橋本前吉の「主語」概念の定義は現在通用される韓国の学校文法(他には標準文法とも呼ばれる)の定義と全く同じです。)
本当に啓發的な本でした。ありがとうございます。
書き込みありがとうございました。拙著を読んでくださったそうで大変光栄です。
日本語を2年前から始められてもうこのレベルとは驚異的です。おっしゃる通り韓国語と日本語はよく似ていますが、例えば「ヨギガ オディエヨ」は日本語なら「ヨギヌン」となるべきところで、微妙に違うのが面白いです。
専門的なことはメールでやりとりをしたいと思いますので、アドレスを教えてください。こちらからメール差し上げます。韓国語のことも色々教えて頂けたら幸いです。
金谷武洋さん、こんばんは。
お返事が遅くなってしまって申し訳ありません。
私のメールアドレスは「bud1027@naver.com」です。連絡するときはこのメールでしてください。
ここには、金谷武洋さんの例の著作に関して、私なりの感想を少し書こうと思います。
1)正直なところ、韓国語と日本語など東アジアの言語に主語がいらない、または、自立文を構成するのに必須的なものではない、という見方自体は前にも何度か接したことがあります。例えば、日本の韓国語学者である野間秀樹は「韓国語文の階層構造」という論文で韓国語の文の特質を次のように述べています。(一部を訳して引用します。)
「韓国語の文の核は述語である。主語を初めとして様々な文の成分が必要によって核であるこの述語に伴う。英語やドイツ語などのように<主語+述語>という構造が必須的な言語とは、この点が決定的に違う。(略) 上に挙げられた例文は、皆韓国語でよく見られる非常に一般的な文である。一つは地文、もう一つは会話文である。上の15個の文の中で主語として見なされる文の成分は2度しか現れない。これが韓国語だ。(略)勝手に主語を想定しようとする態度は言語学者の無理だと言うべきである。この例からも分かるように、主語なし文は大抵の場合、主語が省略されたことではなく、要らないから主語がその場所になかったのだ。もともとあったものを取り除いた場合のみに限って、我々はそれを「省略」と呼ぶべきだろう。」
<野間秀樹(1990), 한국어 문장의 계층구조, 언어학 제 19호, 한국언어학회>
この他にも、庵 功雄の(「像は鼻が長い」入門ー日本語学の父 三上章)も約半分ほど読んだことがあるから、主語無用論自体はある程度分かっていました。が、これが日本語の「助詞」や文の関しての見方(と韓国語の助詞や文の仕組み)においてどのような意義を持っているのかは、金谷武洋さんの本を読んだあとにやっと以前よりかなり明確な形で分かるようになりました。実は、この頃庵 功雄のその本を再び読んでいますが、以前読んだときには見えなかったいろんな側面が、今は金谷武洋のおかげで、もっとはっきり見えたり、把握できたりしています。このような点から言うと、「日本語に主語はいらない」は三上章文法論の入門書としても非常に優れる本だと断言できます。特に、「盆栽型」を説明した部分と「ピリオド越え」を説明した部分は圧巻でした。「再度、感謝を表します。
2)私が先ほど引用した野間秀樹の論文の後半部には、「은/는」の機能について「In-marker」, 「Out-marker」という用語を使いながら論じています。私が正確に理解しているかどうかは分からないんですが、「直感的に?」に言えば、どう見ても第3章の終りの部分に紹介されている明治時代の外国人の見解と非常に似ているようです。あとで、これに関連していくつかの質問をさせていただきたらと思います。
3)日本語の学習者である私の立場から言うと、一番興印象的だったのはやはり第5章で説明されている「日本語の自動詞と他動詞」に関する議論でした。森田良行の「日本語の視点 ことばを創る日本人の発想」という本からある程度類似した議論を読んだことはありますが、そこでは単に試論的な暗示とか示唆に止まっているため、具体的で体系的な理論展開は出てきませんでした。もし、この問題、特に、「使役と受身の連続線」に関して参考になる他の文献があったら、ぜひ教えてください。
今日はここで終わろうと思います。ここまで読んでくださってありがとうございます。
また訪問します。
アドレス、ありがとうございました。それではそちらにお便りします。
自動詞・他動詞に関するコメント、光栄です。私に多少の学問的貢献があるとすれば、あの本の5章に書いた「受動・自動・他動・使役の連続線」がそれではないかと思っています。