2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

集団で暮らす生き物の暮らし方 1

2008年11月30日 | その他のこと
私もずいぶん長いこと人間をやってきた。

生まれた時からあたりまえだと思っていたが、集団で暮らしてきたのだと思う。

でも、特別に集団を意識したのは学校生活の時期だったと思う。

その他は集団のようで個別、個別のようで集団だった。

家族という集団が地域の町会のような集団に属しているわけである。

昔の日本の田舎では、もっと濃密な地域の集団に属していて、互いに助け合わないと暮らせないような時代もあった。

集団に属して互いの結びつきが強いと、おかしな真似はできないのである。

共同で使う場所の管理や、季節ごとにたくさんのみんなでやる仕事があった。

そうやって、共同体を維持していたわけだから、当番をさぼったりといった役割を果たさない人間は悪口を言われたり罰も与えられたかもしれないが生活しずらいことになっただろう。

悪く言えば、監視しあってくらしているわけである。

今だって、地区のゴミ置き場の掃除や、団地などでは時々草取りをしているように、都市生活の中にもいくらかの役割は残っている。

そして、必ず仕事をしないで問題になる人がいるのである。




私が思ったのは、どんな集団にもある割合で働かない者が混じっているということである。

たぶん、進んでよく働くエライ人が2割、周りの様子を見ながら最低限のことだけはして悪く言われないようにしようと思っている人が6割、働かない者が2割。

これはどんな集団にも当てはまると思う。

大人も子供も同じだと思う。

全国津々浦々どこかの学校のあるクラスの中には必ず2割のお利口な子供がいる。

それから、普通の子供が6割いて、おバカな子供が2割いる。

もしもお利口な子供だけ選び出して40人なりのクラスを作ると、その中の2割は割と困った人になってしまうのではないかと思う。

同じように、おバカな子供だけ選び出して40人のクラスを作ると、その中の2割はもしかしてエライ子どもになるのではないかと思うのだ。

ありはよく働くことで有名だが、ありの集団もよく観察すると働かないありが2割混じっているのだという。

働かないありを除いて、よく働くありだけにするとさぞやよく働く集団になるかと思うと、働いていたありの中の2割が働かなくなるのだという。

2割の怠けものありは集団の中にどうしてだか必要なのかもしれない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。