2006-2015 ひねくれた日常

資本主義の欲望にまみれた日常生活はとても楽しい。いつまで楽しく暮らせるのだろう?いつまでも楽しく暮らすために考えよう。

集団で暮らす生き物 2 

2008年11月30日 | その他のこと
集団というのはそこに属するメンバーを互いに常に意識しているはずなのである。

それから、順位づけというのをしている。

みんな順位を高めて気持ちよく集団の中で暮らそうと努力をしている。

順位と言っても何かのテストではないので、厳格に決まるわけではない。

何となく上位に入っているのではないか、というくらいで充分なのだと思う。

すると、何となく下位にされてしまったと感じる人たちもいる。

上位入賞者は自分の力で勝ち取ったと感じているだろうが、下位のものはみんなに虐げられて不当に勝手に決められてしまったと感じていると思う。

気分は悪いはずだから、そんな仲間と一緒に仲良く仕事なんかやれるはずはないのだ。

たぶん大人になって世の中とうまくいかない困った人たちというのは、子供のころからいやな思いをさせられてきたから困った大人に移行したのではないだろうか。

ある意味、気の毒な人たちである。




どうして人間は他人を虐げるのだろう?

民主主義ではみんな平等だと言っているではないか。

それは置いておき、人間の現状が順位づけをしているということで話は進む。



2割くらいいる働かない困った人たちにも何か役割があるのではないかと思ったとき、

よく働く人たちの意欲を高める役に立っているのではないか、と思ったのだ。

エライとか、エラクないというのは比べるから分かるのである。

みんながエラカったら誰もエラクないではないか。

なぜ、困った人が約2割混ざっているのか?

エライ人が約2割いるのと同じ理由であると思う。



何かみんなでやる仕事や、順番でやらねばならない仕事があった時、仕事をしない人がいると、まず、6割の普通の人たちが文句をいうのである。

人間というのは、そういう状況のとき自分に正当性があると、そんなに言うか?というほど文句を言うものである。

でも、今時のみんなでやる仕事などというのは大したものはないので、何人かやらなくてもそれほど困るわけではないのだ。

つまらない仕事でも、やった人は不公平だとか、自分は損をしたとか思うのである。

それでどうなるかというと、大方の場合、「仕方ないねぇ」などと言って、エライ人たちが働かない人の仕事をチャッチャとやってしまっている場合が多い。

働かない人の仕事はエライ人がやっているのではないだろうか。

すると、エライ人のエラサがますます光り輝くことになる。

働かない人というのは、エライ人を照らす鏡なのではないかと思う。

エライ人はたくさんの仕事を引き受けて大変なのだけど、あの人はえらいと認識されて地域で住みやすいとか尊敬されるとか発言権があるとか見返りは充分にあるのかもしれない。

働かない人は仕事をしないで楽かもしれないが、馬鹿にされるとか、いやみを言われるとか、かけた迷惑以上に文句を言われたりして割に合わないような気もする。

エライ人というのは、だんだんその集団のリーダーのようになっていくのだと思う。

集団というのはリーダーを必要としているのだと思う。

リーダーは問題を解決する力が必要なので、問題をたくさん作ってくれる困った人はよい訓練の場を提供してくれるのだと思う。

順位付けというのはリーダーの選出に必要なのかもしれない。




問題があると、悪いものを取り除けばよいという考えが出るのだが、悪いものというのは除いてもまた出てくるのである。

いろいろな人が混じっているのだが、よいリーダーがいてうまくまとめている集団が一番素晴らしいのではないかと思う。

日本はまだ、かなりすばらしいではないか。



ありは、働かない怠け者を排除しようとはしていないようだ。

もしかして少しはいじめられたりしているのだろうか?

働き者ありに、外でもしものことがあったときの留守番のようなものだろうか?

もし私がありなら遊びながら留守番をしていたいものだと思う。

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